THE FATES

13.細波(1)

 番人はその土地に慣れるため、各地へと散った。玲妥は精霊界、羅依は魔界、亜須久はそのまま俗界に。しかし由稀だけは、現在唯一の守護人である青竜がメプトリアを離れられないという理由で、亜須久と共に俗界へ残った。
 彼らにとって火急の仕事は、残る最後の守護人を探すことだった。瞬は遠慮をして彼らと離れると言ったのだが、青竜がそれを引き止め、共に守護人を探すことになった。魔界へ旅立つとき、羅依はひどく寂しそうな表情を見せていたが、おそらくそれに気付いていたのは由稀だけだっただろう。また遊びにこいと言うと、強がった笑みを見せていた。
 由稀も守護人を探す手伝いをしようとしたものの、覗き込んだ資料の難解さに音をあげ、何もしないまま時間がすぎていた。
 ネリオズ宮殿の中庭で、由稀は長椅子に腰掛け空を見上げていた。ここに来てしばらくは広い宮殿の中を歩き回ったり、街に出て探索を繰り返したりしていたが、今ではそれにも飽きてしまい、この場所で一日を過ごすことが増えてしまっていた。見知った人物なら、姿を見なくともその足音で判断することができるほどだった。そんな特技は自分らしくないと、由稀は冷静に自己観察する。
 悩みという言葉は、最も自分から遠いものだと思っていた。全ては過去へと流れつつある。
 本来の明るさや好奇心が弱気なのは、彼の中に確かに息づく闇が日増しに増大しているからかもしれない。彼の中に棲む鬼は、ここに到着した日以来、めっきり姿を現さなくなった。その存在に慣れ始めていた由稀にとっては、少し気味悪くもある。
 由稀は自身の手のひらを見つめ、短いため息をついた。
(一体、誰なんだ)
 周囲には気遣われないようにしているものの、やはり己の体の変化に対して前向きにはなれなかった。逞しくなった腕や胸や脚は、亜須久と稽古をしている時に否応なく意識されてしまうし、内側から湧き上がる男の欲求を軽く受け流すこともできなくなっていた。
「そんなに変態じゃないと思ってたけどなぁ」
 誰もいないので、由稀は声に出して呟いた。
 咲き乱れる花に誘われて、鳥が蜜を吸っている。
「なんだかなぁ」
 すっきりしない気持ちを紛らわすように、由稀は頭を激しく振って後ろに凭れた。切り取られた空は、ただただ高い。
 靴音が近付いてきて、すぐそばに立ち止まった。由稀は視線を感じてそちらへ目を向けると、茜が彼を覗き込むように立っていた。
「暇そうだね」
「そりゃ、もう。すこぶる暇ですよ」
「話し相手、してあげようか」
 いたずらっぽい笑みを浮かべて、茜は由稀の横に腰掛けた。
「お世話かけます」
「気にしないで。あたしも暇だから」
 そう言うと茜は座ったまま大きく伸びをして、空を見上げた。
「何言ってるんですか。茜さんには、瞬と紅がいるじゃないですか」
「だって二人とも構ってくれないんだもの」
「ひどいっすね」
 由稀は茜の白い喉をぼんやり眺めていたが、我に返って同じように空を眺めた。
「きれいな空だね」
「特に変わりはないですよ、いつもと」
「うん。ここではこれが普通だよね」
 茜の言葉には、隠しきれない寂しさがあった。
「どういう、ことですか」
「うん、こっちの話」
 そう言われては、由稀も追及はできない。
「なかなか、大変みたいだね、みんな」
 何のことかと思ったが、由稀はすぐに思い当たり、深く頷いた。
「手伝えない自分が歯痒いっすよ」
「ついていけないよね」
「みんな頭良すぎるんですよ。茜さんだって、こっちの言葉がわかるんだし、すごいじゃないですか」
 以前に瞬からアミティスと天水では言葉が違うと聞いた。紅と話していても、時折由稀にはわからない言葉を使う。おそらく彼らの母国語だろうと考えていた。その反対に、紅にはこちらの言葉が通じないこともあるようだった。
「そんなに、違いはないのよ。天水の古語をきちんと勉強していれば、大体は対応できるもの」
「変な話ですね」
「うん。そうだね」
 回廊を誰かが足早に歩いている。由稀はぼんやりと、その足音の主が亜須久のような気がしていた。力強く、正確な旋律。今の自分には奏でられないものだった。
「大丈夫。なんとかなるよ」
 優しすぎる声音に驚いて、由稀は茜を振り返る。彼女は空を見上げたまま、微笑んでいた。
「守護人は、見つかるってことですか」
 否定されることを乞いながら、由稀は問うた。茜は彼の望み通り首を振る。
「君は、ちゃんと君だよ」
 茜はおもむろに由稀を見つめる。その眼差しは花壇に美しくひらく花びらのように可憐で、それを囲む石材のように静かであった。
「どうして、そんなことが言えるんですか」
「うん。私も、似たような経験があるから」
「似た経験」
「そう。その時に思ったの。こうやって悩んでる自分が、何よりも誰よりも自分なんだなって。それに周りのみんなが、ちゃんと私に接してくれてる。その気持ちに応えたかった。信じようと思ったの」
 花を啄ばんでいた鳥が、小さな鳴き声と共に飛び立った。その軌跡を風が追う。大気にもまれながら、鳥は由稀たちの視界から消えていった。
 由稀の中に、詳しく聞きたい気持ちが芽生え膨らんでいく。聞いてあげた方がいいのだろうかというような、どこか傲慢な気持ちも混ざり合う。
「聞かせて下さい。もう少し」
「え……」
 戸惑ったのは、由稀の真摯な面立ちのためだった。しかし茜はすぐに気を持ち直すと優しく微笑み、いいよと言った。
「紅が生まれる前のことなんだけどね、ちょっとした事件があって、それを食い止めようとした瞬が、この前みたいに暴走したの。暴走させられたと言った方がいいかもしれない。そうなったら、もう誰にも止められないでしょ」
「だけど、この前は茜さんが」
「無理だったのよ、その時は」
「そんな、まさか」
「私も、止められると思ってたんだけど、無理だったの。もちろん、瞬を元に戻したかったっていう気持ちがあったし、事件の首謀者であった人も、私は助けたかった」
 彼女の「人」という言葉の揺らぎに、由稀はそれが女性であったのではないかと勘繰る。
「もう、言葉通り、身を呈するしかなかった。私はその人を庇って、瞬の《気波動》を受けた」
 茜の頬にそれまであった微笑みはない。遠い記憶を静観するような目で、彼女は花壇を見つめていた。
(痛い)
 由稀は茜の声に体を貫かれた気がした。脳裏に、鬼使の姿が甦る。背筋が凍りつきそうなほどの気迫と、それを後押しする桁違いの力。どんなに考えても、なぜあの時自分が動き出せたのか、由稀自身よくわかっていない。しかし彼の横で今、吹く風を心地よく感じながら静かに語る彼女は、強い意志をもって彼の前に飛び出したのだ。由稀は相槌も忘れ、彼女の話に聞き入っていた。
「君ならわかると思うけど、半端じゃないでしょ、彼。私は衝撃で気を失った。だからここから先のことは凍馬さんから聞いたんだけど、瀕死の状態にあった私を助けてくれたのは、私が庇った相手だったの。その人がね、私と…紅に、命をくれたの」
「紅も?」
「うん。お腹にいたの。その時」
「瞬は知っていたんですか」
「知らなかったよ。知ってたら、どうしたんだろう。あの人は、紅だけを殺したかもしれないね」
「まさか」
「ありえるよ」
 強い口調ではっきりと言い切るので、由稀は口を閉ざした。
「凍馬さんの種族は命のやり取りをできる特殊能力を持ってるから、彼らの力とその人の命で私と紅は助けられた。だけど私は、素直に喜べなかったの。死んだつもりだったから。彼を、瞬を止めることが出来なかった自分が腹立たしくて、結局その人を死なせてしまった自分が情けなかった。そして」
 そこまで茜が話した時だった。
「茜さーん」
 中庭の向こうから、弓菜が走り寄ってきた。
「こんなところにいたんですか。探してたんですよ」
 二人の前に立つや否や、弓菜はさほど乱れてもいない前髪を気にして整える。
「どうかしたの」
「やだ、忘れたんですか。街に出る約束してたじゃないですか」
 弓菜は強引に茜の両手を取ると、長椅子から立ち上がらせた。
「今日だったかしら」
「今日ですよ」
「ごめんね。すぐに用意するわ」
「お部屋まで行きます」
 そう言いながら弓菜は茜の手をひいて、先を行く。
「由稀君、ごめんね、話はまた後でね」
 茜は手を引かれながら振り返り、申し訳なさそうな顔で言った。弓菜のこの強引さに勝てる者は、この宮殿内には皆無である。確かに話の続きは聞きたかったが、相手が弓菜では、悔しいともなんとも思わない。
「仕方ないっすよ。また、帰って来たら聞かせて下さい」
 由稀の言葉に微笑みで返事をすると、茜はすぐに中庭から連れ出された。
「相変わらず、あわただしいなぁ」
 疾風のように去っていった弓菜に、由稀は苦笑する。
「でも、」
(茜さんは、どうして自分を見失いかけたっていうんだろう)
 鬼使を鎮めるために飛び込み、助けた相手に助けられ、最終的にはその人を死なせてしまったという話だった。罪悪感めいたものが芽生えるのは、由稀にも想像できる。問題は、茜が助けた人物である。
「うーん」
 考えたところで由稀にわかるはずもなかった。
 回廊に、靴を引きずるような足音が響きだした。由稀の勘に狂いがなければ、それは紅の足音に違いなかった。近付いてくる。
 由稀は立ち上がって伸びをすると、回廊の方へ歩き始めた。