THE FATES

13.細波(5)

 吹く風が鋭さを増す。陽は神殿の影に隠れようとしていた。
 由稀と紅は、メイランロードを中心に、そのわき道にある店までも、しらみ潰しに茜を捜し回った。しかし人通りも多く、彼らが想像した以上に事態は困難を極めた。
 先に音を上げたのは、紅の方だった。
「もういい、帰ろう」
 二人は人波から離れて壁際に寄り、その場にしゃがみこんだ。街を行く人々の足取りは早く、家路を急いでいるようだった。
「なんだよ、それ。時間がないって言ったのは、お前の方だろう」
「確かに言ったけど、こんな中を捜す方が、時間の無駄だ」
「やってもみないで、何がわかるんだよ」
「もう、充分やったよ」
 そうまで言われては、由稀も紅を急き立てることは出来なかった。
「行き違ったのかもしれないな」
 由稀は投げやりな紅の様子を落胆と受け取り、なんとか慰めようとしていた。
「さあな。運が悪いんだろ」
 紅は腰に下げた鞄から銀色の煙草ケースを取り出す。由稀はそれを横目に見る。
「かわいくねぇな」
 呆れて由稀は立ち上がった。
「かわいくなくて、結構だよ」
 合わせて紅も腰を上げる。彼は由稀と顔を合わせようとはしなかった。由稀は彼が口先だけなのだと確信した。
 どちらからともなく、宮殿へと歩き出す。街から宮殿までは近くなかった。リノラ神殿と上級官人街を抜けなければならない。つく頃には、傾き始めた太陽も沈みかけているだろう。それを惜しむかのように、空には赤く染まった雲が浮かび、闇へと流れていた。
 潮風が肌を冷やす。由稀はそれが心地よかった。
「紅は、天水で何やってたんだ」
 手持ち無沙汰な由稀は、瞬と茜のことに触れない話題を持ち出した。
「研究」
 煙草の煙が夕暮れに紛れていく。その先には、藍と朱の狭間が見えた。どこまでも高く続きそうな空だった。
「って、なんの」
「話してもわかんねぇよ」
 煙を吐きながら、紅は楽しそうに言う。機嫌は直ったようだった。
「はいはい、どうせ俺はお前みたいに頭よくないからな」
「まあ、簡単に言うと、人体についてかな」
「へぇ」
「そんなに興味なさそうに言うなよ」
 紅はそう言うが、由稀は紅のことを考えて話を逸らそうとしていただけだった。
 神殿が近付くほど、人通りは少なくなる。広い馬車道を駆け足で渡り、二人は神殿の長い階段に足をかけた。振り返ると、街は夜の姿を呈していた。
「悪かったな」
 突然の言葉に、由稀は段を踏み外しそうになった。
「は?」
「つき合わせて、悪かった」
 神殿の明かりは遠く、紅の姿に光と闇が同居する。由稀は口を開けて紅の顔を見つめた。
「腹、減ったのか」
「なんだよ、それ」
「いや、お前がそんなこと言うなんて思えないから。せめて腹が減って物事が考えられないくらいに思わないと、納得が」
 そこまで言うと、由稀は紅に脚を蹴られた。
「人がせっかく言ってんだ、ちゃんと聞けよ」
 紅は真面目な声音で言う。由稀は蹴られた脚をさすりながら、思わず笑った。
「お前さぁ、なんでもっと素直になれないんだよ」
「何が不満なんだよ。俺はさっきから」
「違う違う。俺の前ではいいんだけど、お前知ってるか? みんながお前のことなんて言ってるか」
 由稀はにやにやと笑いながら紅に並ぶ。紅は眉根を寄せて不機嫌を装っているが、由稀には紅が話の先を聞きたがっているように見えた。
「駄々をこねてる子供みたいだ、って」
「は?」
「ほら、自分の思い通りにならないと、すぐに突っぱねて駄々こねるだろ。みんな、見てないようで見てるんだよ」
「他人なんて、見るように見るだけさ」
 紅は顔を背ける。
「まあ、確かにそうだけど」
 由稀は思わず納得してしまった。それを横目に見て紅は嬉しそうに微笑む。しかし由稀は気付かなかった。
 突然、紅は階段を駆け上がる。
「お、おいっ。ちょっと待てよ」
 由稀は慌てて追いかけた。上から、紅の笑い声が降ってくる。まるでさっきまでとは別人の、清々しい声だった。
「何なんだよ、いきなりっ」
 神殿の長い階段を、二人は夜から逃げるように駆け上がる。由稀は紅の背中を追いかけ、歯を食いしばる。紅の周囲を縫って、ほのかな明かりが漏れ出ている。吸い込まれるように二人は走った。石を蹴り上げる靴音だけが、由稀の耳を占領する。
 一瞬、紅の姿が光に呑まれた。由稀は思わず立ち止まる。
 紅は最上段に届くと、振り返って由稀を見下ろした。
「だって、俺は腹がすいてるんだろう。急ぐくらい不思議じゃねえよ」
「はぁ?」
 さすがの由稀も我慢が切れそうになったが、紅を見上げて眉を下げた。
 神殿からの逆光で、表情などはわからない。しかしそれは些細なことだった。五感は直観を埋めるものにすぎない。知覚できなくともわかる。
「そんなふうに」
 由稀は呟く。
 そんなふうに、誰の前でも笑えばいいのに。
 どんな影も寄せ付けない笑顔で。
「何か言ったか」
「いや、なんでもないよ」
 由稀は人の笑顔がこんなにも尊いものとは知らなかった。楽しさや喜びなどは、いつだってすぐそばにあるものだと思っていた。けれど、それは恵まれていたのだと最近は思う。自分は本当に大事に育てられたのだと。紅に出会って初めて思い知らされた。
 笑顔を全く失ったわけではない。ただ少しずつ欠け始めていた。それを止める術を自分は持たない。でもだからこそ、その流れを止めたいとも切に願う。
 そして、誰もが屈託なく笑い合える時を望む。
 最上段へ追いつくと、由稀は膝に手をついて紅を睨み上げた。余計なことを考えたため、珍しく息が切れてしまったのだった。視線の先では、紅が得意げに顎をそらしていた。
「あーっ、くそっ」
 悔しかった。そして同じだけ嬉しかった。
 由稀は怪訝な顔をする紅の肩を、何度も頷きながら叩き、そのまま組んだ。
「なんだよ、気持ち悪い」
 何度もその腕から逃れようとする紅だったが、由稀は意地になって離そうとしない。
「しつこいやつだなぁ」
 紅は力を抜いて失笑した。肌を通して伝わってくる由稀の熱が、紅にとってはとても新鮮で、居心地が良かった。ただ、照れくささがどうにも消えず、由稀の服を引っ張った。
「しつこくて結構。俺は自分の気持ちに素直に生きるんだ」
「あ、そう」
「お前だって」
 言いかけて由稀は口を噤んだ。それに気が付いた紅は由稀の肩に腕を回して言った。
「誰もが、お前なら、な」
 そのとき紅が見せた顔は決して笑っていなかったけれども、それは二人の間でしか通じない合図に近かった。友への、ごめんという合図。
 由稀は破顔した。胸のうちに棲む鬼が震えた。
「そんなことになったら、きっと神様がいらなくなるよ」
「はは。確かにわけのわからない神様より、お前の方がいいよ」
「え」
「なんたって、余計な期待しなくていいからな」
「それ、どういう意味だよ」
「あーあ、腹減った」
「おい、紅。ごまかすなよ」
「最初にけしかけたのは、そっちだろ」
 憎らしい紅の笑顔。
 由稀は紅と宮殿に向かって駆け出した。
 胸元の痣が疼くのを、必死にこらえながら。