THE FATES

13.細波(6)

 眼前には暗い海が広がっている。宮殿からの明かりがほのかに周囲を照らすなか、鼓動のような波音と漂う潮のかおりだけが、瞬の存在を引き止めていた。
 海を見ると思い出す。人生の波間のように穏やかだった日々が、鮮明な記憶として蘇る。
 それは初めて海を見たときだった。地球にいた頃、瞬は茜と紅と友人とで海に出掛けた。茜はまるで子供のようにはしゃぎ、瞬は紅を腕に抱え、それを見守っていた。まるで昨日のことのようだった。茜の笑顔も、紅の温もりも。
 まさか、失うなんて思わなかった。
 瞬は砂浜に腰を下ろし、煙草に火をつけた。
「ここにいたんだ」
 呼びかけられ、瞬は振り返る。そこには、あの頃から姿の変わらない茜がいた。しかし彼女の頬に昔のような無邪気な笑顔はない。茜は瞬の隣に腰を下ろした。
「探したよ」
「そうか」
 手元に見える煙草の火が、瞳の奥で揺らめく。
「弓菜さんと街に行ってきたの。彼女、いい子ね。すごく楽しかった」
「何か買ってきたのか」
「なーんにも」
「はは。じゃあ、付き合わされたんだな。お前らしいよ」
 茜がすぐそばにいる安心感から、瞬は頬を緩めた。
「あの頃みたいに、ただ歩いて喋ってお茶飲んで。ずっと、そんなことできなかったから」
「そうだな」
 茜は膝を抱えた。瞬は何も言えなくなる。潮風が二人を避けて通り過ぎていく。
 煙草を砂の中に埋め、茜の肩を抱き寄せた。細い肩が頼りなく、ひどくいとおしかった。波音が二人を包む。
「まだ謝ってなかったな、俺」
「何の話?」
 茜が瞬の腕の中で、顔を上げる。瞬は彼女の額に自分の額を寄せた。
「勝手なことをして悪かった」
「ああ、出てったことね。仕方のないことよ。大臣たちは、お父様がいなくなって好き放題してたんだから。あなたのことをよく思っていなかったみたいだし」
「それでもお前に相談するべきだったんじゃないかと、今では後悔してる」
 瞬は顔を引き、茜の瞳を真っ直ぐ見つめた。彼女の濃紺の瞳は、昼間の海のように澄んでいた。茜は微笑んで首を振る。
「そもそも、あなたはお父様に拘束されていたんだもの」
 茜は瞬の膝に手を置き、優しく撫でた。
「最初は、な」
「どういう意味」
 彼女は予想外の瞬の言葉に顔を上げた。
「城からは、いつでも抜け出せた」
「じゃあ、どうして逃げなかったの」
 茜はすぐそばに瞬の整った顔を見上げる。瞬は驚いた。彼女の顔があまりに真剣だったのだ。
「お前が、いたからだよ」
 瞬は面映く、顔を逸らした。茜は納得がいかず、身を乗り出して彼の顔を覗き込む。
「だって、私まだ子供だったのよ」
「関係ないよ」
 その頃の茜は今の玲妥よりも幼かった。けれども瞬にとって重要なのは、年齢や容姿などではなかった。
「お前が許してくれたんだ」
「なにを」
 茜の執拗な追及に瞬は観念し、彼女に顔を向けた。
「ここにいてもいいって。生きていてもいいって。俺に居場所をくれたんだ」
 瞬の微笑みに、茜は何も言えなくなる。優しすぎて切ない彼の笑みは、ただ彼女に罪悪感を与えるだけだった。
「生きていてもいいって、許してくれたんだ」
「瞬、私……」
 しかし茜の言葉は遮られる。
「もう、離れない。お前が息絶えるときは俺も一緒だ」
 瞬は両腕で強く茜を抱いた。たとえどんな力が二人を引き裂こうとも、決してその手が離れないような強さで、瞬は茜を抱きしめた。
 茜の存在は瞬にとってのアイデンティティに近く、その喪失は自己を失うことに他ならなかった。彼自身はいつ絶えても構わない。けれどそれは茜を守りきり、自分の役目が終わってからでも遅くない。
(お前がいるから)
 瞬は茜の黒髪に顔を埋める。絹糸のような肌触りが、彼をより強く奮い立たせた。
(生きている)
 再会してから、瞬は思うのだった。これは何かの間違いではないかと。
 ひどい夢を見ているのではないかと。
 目覚めれば、また自分は深い闇の底にいるのではないかと不安になる。まるでこの海のように、打ち寄せては散っていく飛沫のごとく。
 けれども、今だけは信じようと思う。
 彼女のこの香りに、夢か現かと疑う余地は一片もない。全ては愛しいこの世のものだ。
「ねぇ、瞬」
 茜の声は震えていた。
「ん」
 瞬の声はいつになく甘い。茜は瞬の背に腕を回した。
「あの頃に、帰りたいね」
 潮風が二人を撫でて通り過ぎる。彼女の涙は彼の夢に届かなかった。