THE FATES

3.異端(1)

 強い風が石畳に積もる砂埃を巻き上げて走り去る。街の役所通りは静かだった。影が長く伸びる時間になり、どこの扉も固く閉められていた。
 耳を塞ぐほどの風圧の中で、硬質な靴音が響いた。逸る鼓動のように間隔は狭い。薄く靄がかかる街角を、男は路地から路地へと駆けていた。建物の隙間は人ひとりが通れるほどしかない。一足早く訪れた夜に包まれていた。男の後ろから複数の足音が追いかけてくる。男は背後を振り返りながら、複雑に入り組んだ路地を突き進んだ。
 呼吸があがる。全身を覆う汗が体の熱を奪っていた。石が放つ冷気と暗がりの湿気が、男の冷静な判断力と直観をそぎ落としていく。おぼつかない考えで曲がった路地の先は、高い壁に塞がれていた。男には天を衝くほどの高さに見えた。汗で弛緩していた筋肉が急に収縮していく。追手の声が響く。足音は息遣いに合わせて大きくなった。
「こらえてくれ」
 男は指を鳴らして壁と同化した。
 追手の男二人が角を曲がると、そこには灰色に沈む壁があるだけだった。先に続く道はない。
「まかれたか」
「そう遠くへは行けないはずです。空間移動のあとで、奴の力なんて無いようなものですから」
「せっかく見つけた金づるだ。必ず追い詰める」
 そう言って男は帽子を目深にかぶった。
「わかりました」
 二人は来た道を戻り役所通りに出ると、落ち合う場所を決めて二手に分かれた。
 辺りに静寂と闇が再び満ちる。行き止まりになっていた壁から、沼から這い上がるように男が抜け出てきた。自分の体にかけた幻術は、ひととき敵から姿を隠してくれたが、鉛のように重い倦怠感を残していった。
 不規則な旋回で風が路地の壁を走り抜けていく。雲が追いやられ、仄かな光が世界を照らした。男の肌は白く透けて、髪は薄茶色に輝いていた。光が彼の輪郭を縁取り、こぼれ落ちていく。男は地面に崩れこみ、咳き込んだ。路上に血がはっきりと見える。男は壁に背を預け、腹を見た。痣が一面に広がっていた。術者系の賞金稼ぎがよく使う、網陣(もうじん)という結界にかかった痕だった。肌が焼けるようにひりひりとした。ひとりでに筋肉が収縮するさまは、力が蒸発しているようでもあった。果てが見えないほど深い緑眼が、痛みをこらえて細くしなった。
 男は路地の片隅にうずたかく積まれた廃材に目を留めた。動物の死骸、粉々になった陶器、打ち捨てられた荷車などがあった。男はその中に街の掲示板を見つけた。腐りかけた板には、一枚の紙が張られていた。写真に描かれた同じ深みの瞳が、傷だらけになって伏している男を嘲笑うようだった。

 * * *

 由稀(ゆうき)はミグ公国をあとにして、シュリツ共和国の森に足を踏み入れていた。雨が続いた森の中はぬかるんでいる。夕闇が迫り、必要以上に体力を削がれていた。誰も話をしようとはしなかった。耐えかねて由稀が口を開いた。
「どうすんだよ」
 自分の声の低さに戸惑いつつ、由稀は山道を見つめて問うた。返事はひとつとして戻ってこなかった。
「なぁ」
「うるさい」
「聞いてんだよ。答えろよ」
「知るわけないだろ」
「じゃあ口出しするなよ」
「そもそもお前が先を急ごうって言い出したんだろ」
 羅依(らい)に睨まれて、由稀は口を尖らせた。
「みんな賛同したじゃねぇか」
「はいはい、しましたよ」
 羅依はわざとらしく笑顔を振りまいた。
「なんだよ、その言い方」
「疲れてるんだよ。ごちゃごちゃ吠えるな」
「お前、もう一回言ってみろ」
 由稀が泥を蹴り上げて羅依の肩を掴んだ。羅依は肩越しに振り返る。由稀の後ろを歩いていた加依(かい)と目が合った。羅依は反射的に由稀の手を振り払って、前を向いた。
「そこまでにしましょう。歩くと決めたときから、野宿になることはわかっていたんですから」
 加依の優しい微笑みの下には、有無を言わせぬ強引さがある。由稀は不承不承に引き下がった。
 加依が同行したいと言ったとき、亜須久(あすく)に驚いた様子はなかった。彼にとってはすでに予想していたことだった。亜須久が黙認する中で異を唱える者などいなかった。
「森がひらけたよ」
 前を行く亜須久についていた玲妥(れいだ)が、振り返って声を上げた。緩やかな下り坂を危なっかしい足取りで駆け寄ってくる。由稀と羅依の手を取り、急かすように引っ張った。玲妥は無邪気にはしゃぐ。由稀は羅依と目を合わせて、困るような笑みを見せた。
 唐突に途切れた木々の先には、家が建てられるほどの空間があった。中心には周囲の森を治めるような威厳をもって、古い大木がそそり立っていた。そばには小さな石碑があった。
「ちょうどいい場所だな」
 亜須久は広場を一周して、大木の根に腰を下ろした。
「そうですね。でも一応、念には念をいれましょう」
 加依は羽織っていた上着を脱いで、近くにいた羅依に手渡した。
「戻ってくるまで、お願いします」
「どこに行くんだ」
「周りに危険がないかどうか、見てきます」
「ちょっと」
 問いを重ねようとした羅依を手で制して、加依は淡い色彩の瞳を軽く閉じた。風が途切れ、葉擦れの音すら息を潜める。加依の形のいい唇が、一瞬歪むように笑った。羅依の肌が粟立った。直後、加依の背中から漆黒の翼が突き出していた。
「すごい」
 羅依は地面から浮き上がった兄を見上げて、呆けたように口を開けた。加依は何事もなかったように、いつもと変わらぬ優しい微笑みで妹を見下ろした。
「俺にはこれがあるから剣は要らないんです。それじゃ、見てきます」
 翼が風を呼び込み、更に空に近づく。羅依は上着に残る温もりまで遠く感じた。
「待って、私も行く」
 遠ざかり夜空を背負う加依に、続く影があった。
「玲妥」
 加依は驚いて、少し風に流された。浮かぶ加依に向かって、玲妥は近づいていく。彼女の小さな体は大気と同化したようで、重さを感じさせることがなかった。まるで土の上を走るように、空へ駆け上がっていく。
 加依のそばまで辿り着くと、小さな手をいっぱいに開き、玲妥は由稀に手を振った。
「行ってくるね」
 由稀も目を細めて軽く手を挙げた。
「気をつけてな」
「うん」
 どこかしら恥ずかしげに微笑んで頷くと、玲妥は加依と共に飛び去った。由稀はいつにない真剣な眼差しでその後を追う。しかし二人の姿はすぐに見えなくなった。
「由稀は知ってたんだ」
 声に振り向くと、羅依も同じように空を見送っていた。
「ああ。すごいよな」
「それはかわいい妹の自慢か」
「なんだ。僻みかよ」
「誰がそんなこと言った。あたしたちのいるとこで妹にご執心するのやめてくれないかな。気持ち悪い」
「ふざけんな、俺がいつ玲妥を猫かわいがりしたっていうんだ。お前さ、うるさくなったよな。まったく、これなら男のままの方が何かと楽だったよ」
「男女差別」
「はあぁ? そんなに玲妥が羨ましかったら、ちょっとは素直な物言いしてみろよ」
「お前たち、いい加減にしろ」
 見かねた亜須久が、ため息と共に二人の間に割って入った。
「あ、ごめん」
 由稀は反射的に謝った。羅依は心なしか俯き加減で、加依の上着を強く抱いていた。
「とりあえず、火を熾そう」
「そうだな。じゃあ俺、薪になりそうな木切れ拾ってくるよ」
 口早にそう言うと、由稀は広場から駆け出した。全速力で走る自分が滑稽で、どうしても後ろを振り返ることはできなかった。