THE FATES

13.細波(9)

 部屋にひときわ長い影が伸びる。宮殿の最上階にある会議室の窓には、穢れを知らない朝の日差しが食い込んでいた。
 机上には数種の資料が束になって並べられている。青竜はそのうちの一つを手にとると、軽く嘆息した。
 いつまでこのような茶番を演じるのか、いつまで自分の悲しみは続くのか。
 白い紙面には、つらつらとこれまでの扉の番人に関することが書かれていた。さきほど青竜が作り上げたものだ。彼にとっては何の意味も持たない文字の羅列だ。
 由稀の封印が解かれたことは、彼の計算を大きく狂わせた。また瞬の存在が、青竜の気を逸らせる。いつまた同じようなことが起こって、『彼』に影響するかもわからない。
 何としても避けねばならない。
 青竜は顔を上げ、窓の外に広がる晴天に目を細めた。
「久暉様……」
 あなたのためなら、どんな困難も越えてみせる。どんな悪にも手を染める。どんな卑劣な行為も厭わない。
 たとえ誰かを傷つけることになっても、それがあなたを取り戻す手段なら。
「たとえ、あなたを悲しませることになっても」
 青竜は静かに目を伏せ、胸元を押さえた。

 会議室の扉が遠慮がちに開く音で、青竜は不審げに振り返った。隙間から由稀が顔を覗かせている。青竜はほっと息をついた。
「由稀さん。どうかしたんですか」
「あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど」
「私にですか」
「うん」
 落ち着きなく頷いて、由稀は部屋へと入る。後ろから紅も姿を見せた。青竜には彼らの用向きに思い当たるところがない。お互いを肘で小突きあう二人を、眉寄せて観察していた。
 紅に背中を押されて、由稀はたたらを踏みながら前に出てきた。言いにくそうに口を歪めて上目遣いに青竜を窺う。
「お願いとは、なんですか。私にできることなら伺いますよ」
「うん」
 由稀は小さく頷くと、意を決して顔を上げた。
「あのさ、実はさ、地下書庫に入れてもらいたいなぁとか思ってるんだけど……」
「書庫にですか」
「うん」
 意気込んで切り出した割には、由稀の表情は晴れない。青竜は説明に物足りなさを覚え、目顔で紅にわけを問うた。一瞬、逡巡するような視線を由稀の背中に向け、紅は滅多に見せることのない険しい顔で口を開いた。
「口はかたいよな」
 そう前置きすると、紅は茜の病気のことを手短に話した。
 話が途切れると、会議室に暗雲のような沈黙が訪れる。
 青竜はおもむろにため息をついた。
「やっぱり、無理か」
 気落ちした声で由稀が呟くと、そら見ろといわんばかりに紅が欠伸をした。青竜は首を振る。
「そうではありません。私が今気になったのは、紅さんのことです」
「俺?」
 青竜の口に自分の名が上り、紅は目を丸くした。
「ええ。失礼ですが、あまりこちらの言語に明るくないですよね」
「はっきり言えよ」
 青竜の言わんとしていることがわかった紅は、高い自尊心を傷つけられ青竜ににじり寄った。ただならぬ空気を感じ取った由稀は、引きつった笑みを浮かべて二人の間に割って入った。
「穏便にいこう、な」
「由稀、こいつに頭下げるのなんかやめとこうぜ」
 紅は下がった目じりを吊り上げて、由稀の袖を引っ張った。青竜に背を向ける。由稀は強引な紅に逆らうことができない。振り返りながら、青竜に目顔で頼み込む。彼は即座に由稀の願いを汲み取った。
「待ってください。事が事ですから、是非書庫で調べてもらって構わないんですよ。ですが……」
 由稀は青竜の一言に苦笑した。紅は歩き出していた足を止めると、勢いよく青竜を振り返る。そこまで言われて引き下がれるわけがなかった。
「ふざけんな。こっちの言葉なんか、一日で修得してやるよっ!」
 紅が威勢よく啖呵をきった。
 まるで豆鉄砲を食らった鳩のように、由稀は息を呑んで黙り込んでしまった。それは青竜も同じだった。
 震えていた空気が徐々に鎮まっていく。紅の肩にあった力みは、居心地の悪い羞恥心に変わっていく。紅は居た堪れなくなって由稀の頭を小突いた。

 天井から下がった灯りが、ふいの訪問者に揺れる。湿気と印刷液の混じった匂いが由稀の鼻をついた。靴の底から、石の冷たさが伝わってくる。
 想像以上の広さに唖然とした。
「すげぇ」
 書庫の天井は低く、背の高い青竜などはとても窮屈そうに見えた。人ひとりがようやく通れる間隔で、天井にまで届く本棚が並んでいた。それはずっと向こうまで、数え切れないほど続いている。
 あとから階段を降りてきた紅が、由稀の背後でため息をついた。
「こっから探すのかよ」
 目の前に広がる光景に感動を覚えていた由稀は、紅のため息が疲弊感から来るものだと知り、肩を落とした。
「お前も研究者なら、少しは感動しろよ」
「直に探すんだろ。だるすぎる」
 由稀には、直にという意味がわからなかったが、相変わらずものぐさな紅に呆れて苦笑した。
 紅はいつも身に付けている小さな鞄から、煙草を取り出した。
「ここは禁煙ですよ」
 先を行っていた青竜が、煙草に火をつける音に気付き振り返る。紅は舌打ちをして、まだ火のついていなかった煙草を渋々仕舞った。
「こちらに机がありますので、使ってください」
 青竜の案内に従って書庫を進むと、ネリオズ宮殿の会議室にあるものと同様の長机が置かれていた。
「鍵はここに置いておきます。出られる時は必ず施錠して、すぐに私のところへお持ち願います」
「面倒だな。合鍵ないの」
 紅は机上に置かれた鍵を手にして、灯に透かすようにして眺めた。
「これが合鍵なんですよ。私が帯都帝に無理を言って作っていただいたのです」
「はっきり無理って言えよ」
 まわりくどい青竜の説明に、紅は舌を出して鍵を放り投げた。ここへ来るために青竜を探さなければならないのが、ひどく億劫に感じた。いっそここに住んでやろうかと紅は心の中で悪態をつく。
「では、くれぐれもよろしくお願いしますよ」
「はいはい」
 紅は口の中でしつこいと呟き、机上に荒々しく鞄を置いた。