THE FATES

13.細波(10)

 由稀はそんな二人のやり取りをよそに、奥の本棚へと導かれるように進んでいた。ここに所蔵されている本の希少さは一目して明らかだった。これまで多くの書籍を見てきた由稀ですら知らないものばかりだった。
「ここになら」
 人知れず呟く声には、希望が満ちていた。
 由稀は竜族のその後について、諦めたわけではなかった。瞬が言う通り、滅んでしまったのが本当だとしても、それを自分の目で確かめるまで信じることはできない。
 肌に触れる冷たい湿気を感じながら、由稀は本の背に指を這わせる。質素な群青色の装丁の本で手が止まる。由稀は息を呑んだ。
 惹かれる。
 体の奥が沸き立つように震える。吸い込まれるように導かれていく。由稀の体を巡る血潮が符号を拾う。
 だがそれと同時に、胸の奥から激しい拒否感が声をあげた。心の奥の暗い場所から、今までにないいたわりを感じる。
 普段ならその気持ちが嬉しくて、相手が誰だろうと素直に従うところだが、今の由稀には気遣いさえ目障りだ。たとえ傷つく結果になろうとも、知らないで安穏と過ごすことなど彼にはできないのだ。
 邪魔をしないでくれ、由稀は鬼に言い聞かせ、本を選び出した。
「由稀さん」
 突然背後から呼びかけられ、由稀は体が浮き上がるほど驚いた。振り返ると、表情に感情という色のない青竜がいた。ただ彼の目元には、これまで見たことがないような厳しさが漂っていた。由稀は持っていた本を思わず後ろに隠した。
「行きましょうか」
 薄い唇をわずかにしならせ、青竜は微笑んだ。低い声が鼓膜を震わせ胸を突く。心が底冷えするようだった。どこかへ連れ去られそうな意識を必死で引きとめようと、由稀は本を強く掴んだ。
「俺は駄目なのか」
 震える声で、由稀は青竜を仰ぐ。
「そもそも私に権限はないんですよ。紅さんの事情なら誰も文句を言わないでしょうが、さすがに興味本位でとなると」
 表情を滅多に変えない青竜が、眉を下げて心底困ったように微笑む。由稀は真摯な青竜の姿に観念して、渋々本を戻した。指が名残惜しそうに棚に引っかかる。胸の内の鬼に引き剥がされた。

 青竜の後ろをついて歩きながら、由稀はじっと己の心をかえりみていた。
 いつからか、心の深層に棲みついた鬼。それが最近では表層にまで顔を出し、まるで由稀を守るように目を光らせている。
 日増しに痛む胸の痣と、次第に存在感を増す鬼の影。由稀はこの二つの異変を繋げざるをえなかった。何の確証もない。けれど疑う理由も見当たらない。
 ならば痣は、鬼は、なんなのか。
 目の前の背中に問い掛ければ、答えは得られるのだろうか。
 ただひとつ確かなことは、鬼が由稀に対して決して悪意を持っていないということ。由稀はその感覚を自分の中で表現することはできなかったが、常に温かい視線を内側から感じるのだった。気性激しく、目を背けたくなるほど残酷で、切ないほどに痛々しい存在の鬼は、ただ由稀を守ろうとしている。
 まるで贖うように。愛でるように。
 燭台の横を通り過ぎるたびに、炎の吐息がぬらりと頬を撫でた。由稀は服の上から胸を掴んだ。
(お前は、一体『誰』なんだ)
 由稀は何度もかけた問いをまた鬼に放った。

 長机まで戻ると紅の姿はなく、鞄だけが灯りに照らされていた。由稀は声をかけずに地下書庫をあとにした。
 青竜に続いて表へ出た。外からの眩しい光に由稀は手を翳し目を細める。
「大丈夫ですよ」
「えっ」
 由稀は聞き覚えのある言葉に驚いて、身を竦めた。まっすぐ青竜を見つめる。いつか見た夢の景色が目の前の男に重なる。
「どうかしましたか。大丈夫、すぐに慣れますよ」
 青竜は怪訝そうに由稀を見つめ返す。由稀はふと我に返り、小さな声でなんでもないと呟くと、青竜を追い越して先を歩き始めた。
 青竜はすぐに後から追いついてくる。
「正直、彼を見直しました」
 上から降ってくる美声に、由稀は隣を見上げた。
「紅か。うん、実は俺もそうなんだ。それに」
 由稀はそう言ってはにかむと、前へ前へと進む足元へ視線を落とした。
「すごく羨ましい」
 空色の髪が風に揉まれる。海風は肌に張り付き離れない。由稀は両手で顔を撫でると、大空を見上げた。両脇から貴族の邸宅屋根が突き刺さっている。
 横顔に青竜の視線を感じて、由稀は振り向いた。
「心配できる親がいるんだからな」
「由稀さん……」
 青竜は二の句を継げない。由稀はその沈黙を嫌い、うつろな影を瞼にまとう。
「青竜は色々知ってるんだろ。前に夜上が言ってた」
「ええ、はい」
 普段の由稀からは想像できないほど沈痛な声に、青竜は戸惑いを隠し切れない。聞き出すべきか、見守るべきか、二の足を踏んだ。
 由稀は気配で青竜の困惑を感じながら、藁をも縋る思いで胸の内に宿る鬼を求めた。鬼は由稀の内側を優しく撫でる。
 お前は間違っていない、と由稀の心を後押しする。
「育ててくれた親には、すごく感謝してるし、二人とも大好きだよ。でも、違うんだ。どこかで遠慮してしまうんだ。甘えて嫌われたらどうしよう、迷惑かけて捨てられたらどうしようって。だから強い思いはいつも外に出せなかった。それは相手を思う気持ちも同じ。血が繋がってないから、他人行儀に思われないような演技までしてしまうんだ。わかるだろう」
 由稀はそこまでを一気に吐き出すと、青竜を振り返って微笑んだ。
「わかりたくもないか」
 由稀は青竜から視線を逸らした。笑顔に儚い影がよぎる。
『わかりたくもない』
 青竜は息を呑んだ。
『死なせてくれない俺が憎いか。いらぬ情けが屈辱か』
 空色の眼差しがゆっくりと脳裏に繰り返される。
 擦り切れた記憶が青竜を掻き乱す。由稀の肌に違う男の面影が重なる。
 この男には抗えない。
「ですが、血の繋がりなんて、そんなに強いものでしょうか」
 青竜は精一杯だった。平素の精緻な計算は影もない。心地よい風が吹き抜けるなか、青竜は背中に冷たい汗を感じた。
 視線の先で、男が笑ったように見えた。まるで何もかも見透かしていると言わんばかりに。
「もちろん、青竜が言うのも一理あると思う。でも、なんていうかさ、最後に残る安心感みたいなものなんだよ。一人じゃないって。俺と同じ欠片を持った人が他にもいるって」
 鋭い鳴き声を上げて、屋根の突端から鳥が青空に飛び立った。小さな体は陽に吸い込まれるように消えた。
 青竜の頬に薄雲の影が落ちる。
「あなたは、一人だと思っているのですか」
「え」
 由稀は驚いて立ち止まり、青竜を見遣る。彼も同じく立ち止まり、石畳の継ぎ目を無表情に凝視していた。黒い瞳が底なし沼のように昏く奥まで続いている。由稀は反射的に恐怖を感じた。しかし湧き上がる期待を抑えるすべなどない。
「どういう意味だ」
 にじり寄り、由稀は青竜に説明を乞う。
「どういうことだ、青竜」
 重ねられる言葉に己の自由が奪われていくのを、青竜は他人事のように傍観していた。引き返すことなどできない。
「お一人ではありませんよ。私はあなたの叔父にあたるのですから」
 青竜がおもむろに顔を上げる。空色の瞳に、先ほどまでの面影はなかった。突然の言葉に動揺し、うつろに揺らいでいる。
 青竜はそこでようやく己を省みた。苦し紛れに、必死になって御託を考える。自分は何に惑わされていたのだろう。由稀に垣間見た面影が、青竜の理性も感情も束縛し真っ裸にしていた。まさかそこまで我を失うとは思いも寄らなかった。
 ゆらりと由稀の体が近寄った。二人の間の空気が逃げられずに圧縮されていく。青竜は頬の痙攣を知られまいと奇妙な笑顔を作った。手繰り寄せるように由稀が手を伸ばす。
「叔父、俺の叔父さん。じゃあ、知ってるのか。俺の親が今どうしてるのか。どんな人なのか。なぁ教えてくれよ、青竜。知ってるんだろう」
 由稀の追及は真っ直ぐ青竜の胸に突き刺さる。青竜は思わず目をそらした。堅い殻で覆ったはずの己の醜い部分が、白日のもとに晒される。由稀の顔を一瞥することすらできなかった。
「なぁ、青竜」
 伸ばした手が、青竜を捕らえ損なう。由稀はそのまま宙を掴まされた。青竜は露骨に由稀を避けて、歩き始めていた。
「そういえば、十日後に行われる近衛隊の訓練試合のことはご存知ですか。気晴らしに参加されてみてはいかがですか。仕事がありますので、私は先に失礼させていただきます」
 抜け殻のような由稀の背中に、虚飾で覆われた声がかけられる。言葉は由稀まで届かず、壊れた玩具のように地面に散らばっていった。
 硬質な靴音は足早に遠ざかっていく。真上から射す陽光が、足元に丸い影を落としていた。俯いていると、喉から内臓がせり上がってくるように感じた。由稀は胸元を押さえる。痣が熱を持ち、ひどく疼いた。
 振り返ると、青竜の姿は坂の向こうに消えた。

13章:細波・終