THE FATES

14.覚醒(1)

 地下書庫の低い天井を心地よく感じるほどになっていた。紅は火のついていない煙草を噛みながら、棚の前で本と睨み合いを続けていた。十日前、大見得をきって地下書庫へ入ったものの、実際に学術書を読めるほどに言葉を会得するのは困難なことだった。無論辞書などはないし、ほとんど文脈を追いながらの解釈になる。訊く相手がいないでもないが、紅は彼にだけは縋ることはしない。
 由稀にも言ったのだ。瞬の手だけは借りないと。
 地下書庫の本棚は分類さえされていない状態で、ほとんど詰め込まれたような態だった。背表紙を目で追いながら、必死でそれらしい本を探すしかなかった。
 振り返ると、まだまだ多くの本が背後に控えていた。天水では研究において困ることのなかった紅だが、顔に浮き出る疲労からは万策尽きた感が漂っていた。
 ふと息を抜き、くわえていた煙草を捨てる。黒みがかった灰色の石の床に、煙草の白い巻紙が目立った。紅はそれが隠れるように、足で本棚の隙間に押しやる。しかし空いているはずの隙間には先客がいたようで、よれた煙草は一向に入らない。意地になった紅はしゃがみ込んで石に頬を擦りつけるようにして、本棚と床の隙間を覗き込んだ。暗くてよく見えないので、鞄から火付けの道具を取り出し翳した。
「なんだ、あれ」
 炎を受けて淡く赤く染まった何かがある。狭い隙間なので、紅の指は入らない。辺りを見回すたびに起きる耳障りな音に気付いて、紅は自分のベルトを外した。金属の装飾品が多く施されているので、隙間に差し込むと石と擦れて不気味に響く。紅は背中が薄ら寒くなって縮こまった。
 ベルトで横から何度か押すと、隙間に挟まっていたものは窮屈そうにその姿をあらわした。
「うわ、きたねぇ」
 紅は顔をしかめてベルトに絡みついた埃を払う。汚れた手は、服で拭いた。
「なんだろうな」
 元通りベルトを身につけると、紅は出てきた茶封筒をしげしげと見つめた。中には二つ折りになった紙の束が入っていた。開くと、几帳面な字がびっしりと埋まっていた。紅は読みにくい細かい文字に眉を顰める。内容を追うと、伝説の番人についてのことだった。所々に下書きや修正のあとが見られ、紅は直感的に違和感を覚えた。
 紅は伝説の番人については詳しく知らない。興味がないのだった。ただ、何らかの目的があって由稀たちが青竜に呼び集められたことは理解していた。
 何枚か紙を繰ると、紅が慣れた言葉が出てきた。それは、多少古臭い表現は見られるものの、天水で使われている言語だった。
「どういうことだよ」
 突然飛び込んできた母国語に、紅は柄にもなく戸惑った。
 これらを誰が書いたのか、紅は薄々感付いている。しかしなぜ彼が天水の言葉を知っているというのか。そして使わなければいけないのか。
「やっぱり好かないな、あいつ」
 紅は青竜への猜疑心を深め、一度は封筒を元に戻そうとしたが、思い直して自分の鞄に詰め込んだ。
 長机まで戻ると、出入口が激しく叩かれているのに気付いた。遠く、声が聞こえる。由稀だった。
 紅は机上を片付けて、蓋のような戸を押し開ける。眩しい世界に空色の瞳が飛び込んできた。
「迎えに来たぜ」
 由稀は嬉しそうに笑む。紅は鍵をかけながら首を傾げた。
「なんかあったか」
「ほら、近衛隊の訓練試合だよ」
「ああ」
 そんなものがあったかと思いながら、紅は煙草に火をつけた。
「見に行くのか」
 どちらから言うともなく、二人は神殿をあとにする。紅の問いに、由稀は得意げな笑みで否定した。
「ばーっか。見るなんて甘いことしねぇよ。俺たちも出るんだよ」
「はぁ?」
 くわえていた煙草を思わず落としそうになった。紅は立ち止まり、体を強張らせる。腕にはしっかりと由稀の手が絡まっていた。
「たまにはいい汗流そうぜ」
 爽やかな言葉とは裏腹に、由稀の横顔には自棄の影が差していた。口元には卑屈な自嘲の笑みが浮かぶ。
「お前、キャラずれてるよ」
「ごちゃごちゃ言うな」
「ふざけんな。てめ、自分のストレス発散に俺を道連れする気なんだろ」
「たまには巻き込まれろって」
 由稀はにっこり微笑むと、訓練試合が行われる格技場へと向かって、強引に紅の腕を引いて歩き始めた。引きずられる紅に抵抗するすべはなかった。

 格技場へ近付くにつれ、人の姿も多くなった。そのほとんどは軍人だったが、由稀たちのように制服を着ていないものも見受けられた。
「思ったよりも盛大にやるみたいだな」
 由稀は屈強な男たちを見上げながら、その隙間を縫うように進む。紅は由稀が作った道をのんびりと歩いていた。
「おい、由稀。マジで出るつもりなのかよ」
「男に二言はねーよ」
「びびってるくせに」
 紅はにやりと笑う。由稀は後ろを睨みつけて、言葉を呑み込んだ。小憎らしい紅の敏感さに、不思議と救われた気がしたのだ。
「あ」
 紅が由稀の向こうを見て、声を上げた。
「あぁ?」
 また何かを言われるのかと由稀は紅に詰め寄る。彼は爽やかに微笑んで、ほらと向こうを指差した。眉根を寄せながら、由稀は指された方へ促された。
 指の先には、懐かしい顔ぶれがあった。
「羅依、加依!」
 近くには亜須久の姿もあった。加依は由稀の声に応えて、手を振る。
 由稀は駆け出していた。心が飢えを癒さんと急く。少し離れていただけなのに、ついこの前に出会ったばかりなのに、まるでどこかに置き忘れてきた自分自身を見つけたような懐かしさだった。
「どうしたんだよ、お前ら」
 満面に輝きを湛えて、由稀は羅依の肩を叩いた。普段なら手荒な返事がくるところだが、彼女の顔色は青白く、軽く由稀の腹を殴っただけだった。由稀は元気のない羅依の対応に驚いて、答えを求めて加依を見た。後ろから紅が追いついた。
「船酔いですよ」
 加依はそう言うと紅に、お久し振りです、と微笑んだ。紅は素っ気ない返事をした。
 由稀は羅依をじっと見つめたまま微動だにしない。気味悪くなった羅依は顔を歪めて後ずさった。
「そんなに面白いかよ」
 ようやく聞こえた羅依の声は、由稀が思っていたよりも細かった。由稀は羅依を指差して加依に向き直る。
「こいつ死んでる?」
「は?」
 羅依は目を丸くする。
「そうですね、死んでますね」
 少し離れていた間に、加依の作り笑顔には磨きがかかっていた。隣で亜須久が苦笑した。
「ここまで船酔いするほど、ひどい船しかないのか」
 紅は羅依の頬を見つめながら、加依に問うた。
「見つかるわけにはいかなかったので、輸送船にタダ乗りしてきました。おかげでずっと倉庫の中だったんですよ」
 淡い翡翠色の瞳をやわらかく細めて、加依は悪びれもせずにさらりと言ってのける。
「そういえば、不破がいないな」
 亜須久は思い出したようにおもむろに周囲を見回した。不破ほどの目立つ男が見当たらないわけがない。
「彼は本部との連絡係で奔走してましたので、置いてきました。まぁ、どうにかするでしょう、彼なら」
「代わりに、見慣れないやつがいるみたいだな」
 由稀はいつの間にか羅依の足元にしゃがみこんでいた。その腕の中には、一頭の獣族が抱えられていた。死んだように動かなかった羅依が、腰を曲げて手を伸ばした。
「真小太。なつかれてさ、従えることにしたんだ」
「へぇ。まだ子供だな」
「うん」
 真小太は羅依の手に気が付くと、由稀の腕から抜け出し羅依の足元に座り込んで丸くなった。真小太を見つめる羅依の瞳に、飾らない優しさを見止めた由稀は安堵の息をもらした。
 ふと加依の話に疑問を覚え、怪訝な様子で向き直る。
「でも、どうして羅依だけ船酔いしたんだ」
「企業秘密です」
「え」
「兄貴のやつ、あたしと真小太を船に押し込んで、自分だけ飛んできたんだよ」
 羅依は青空を指差し、呆れた顔で舌を出した。

 出入口付近の人込みがほとんど退いたころ、宮殿へ続く階段から弓菜と茜が下りてきた。弓菜は目敏く亜須久の姿を見つけると、小走りになって駆け寄ってきた。つやのある栗色の巻き髪が跳ね上がる。化粧映えする顔が、亜須久の目の前で途端に大人しくなる。由稀はみなに倣って苦笑した。
 視線を転じると、茜が階段を降りきったところだった。
「茜さん」
 由稀は思わず口にした。足が数歩、彼女の方へ寄る。
 茜は由稀に気付いて優しく微笑んだ。慈しむような眼差しに、由稀は育て親の面差しを重ねた。
「由稀くんも出るの?」
 由稀を見上げる茜の頬は、出会った頃よりも心なしか痩けているようだった。柔らかい睫毛の下に、儚げな影が潜んでいる。それは彼女の笑顔で覆い隠されているが、殻が頑丈なほど影の色は濃くなるように由稀には感じられたのだった。
 喉が渇くような痛みに耐えられず、由稀は茜から笑顔を逸らして紅を見た。目が合う。お互い一瞬黙り込んだあと、示し合わせたように普段を装った。
 対象に露見することも怖れなかった。
「こいつと一緒に出るんですよ。俺が勝つ予定なんで申し訳ないっす」
 由稀は紅の腕を引き、肩を組んだ。演じている自分に膝が震えた。横目で紅の顔色を窺うが、彼には微塵の綻びもなかった。そして全てを飲み込んでしまうような茜の広さが痛ましかった。国王として母として女としての強さを持ち合わせている。むしろ持ちすぎているようにすら由稀には感じられた。
 彼女の笑顔に隙はない。
「お手柔らかにね、由稀くん」
「負けねーよ」
 紅はそれだけ言うと、ふいと由稀の腕から逃れていった。
「出るとは聞いてないが」
 由稀と紅の姿を交互に見ながら、亜須久が口を開いた。
「さっき決めたんだ」
 由稀が照れながら答えると、亜須久は片眉を歪めて小さく唸った。
「遅い」
「え。どういうことだよ」
「出場登録は昨日までだ」
「マジかよっ」
 由稀の素っ頓狂な声に、真小太とじゃれていた紅は立ち上がる。
「どうにかならないのか」
 紅は自分には関係ないと言いたげな声音だったが、顔はひどく真剣だった。
 目に明らかなほど気落ちしていた由稀は、紅の助太刀を得て輝きを取り戻す。
「頼むよ、夜上」
 亜須久はそうまで言われて動かない男ではない。
「わかった。なんとか掛け合ってみよう」
 そう言い残すと、彼はすぐにも格技場へと入っていった。
「人のために動ける男って、やっぱり素敵よねぇ」
 弓菜らしい言葉に、由稀は亜須久に対する申し訳ない気持ちをすっかり胸に仕舞う。真小太と遊ぶ紅の腕を強引に掴むと、亜須久のあとを追った。