THE FATES

14.覚醒(4)

 視界には靄がかかっていた。広がる景色が歪みを孕んでいる。瞬は自分が夢を見ているのだと知った。
 見上げた空は工場の煙を抱えている。天水の空だった。ぼんやり歩いていると、いつの間にか水輝城(みずきじょう)の中にいた。見慣れた城内を当てもなく歩く。気が付けば、両脇に兵士が二人付き添っていた。
「まさか本当に来るとはな」
 進む先から男の声がした。瞬は深く沈んだ緑眼で黙って見つめ返す。目の前の男は口髭を撫でながら続けた。
「取引は成立したと考えていいのだな、鬼使」
「そっちこそ正気か」
 胸の内で声が反響する。自分のものでないように感じた。
 男は目顔で人払いをすると、壁にもたれかかり腕を組んだ。
「正気でなければ、一国の王など務まらん」
「どうかな」
 壁に嵌め込まれた窓からは、庭園の様子が一望できた。瞬は眉間に皺を寄せ、淡く青く染まる空を睨みつける。
『この世界の時間を止めてくれないか』
 天水からはすでに自浄機能が失われていた。空は汚れ、土は痩せ、水は濁る。そして人心も荒んだ。
 時を操るというのは、危険な賭けだった。術が一人歩きをして暴走する可能性がある。成功する確率も低い。しかし瞬はその話を持ちかけられた時、甘美な誘惑に抗えなかった。
 この世界を掌握する。
 名誉や権力、はたまた復讐心でもない、得体の知れない欲望が湧き上がったのだった。それは後々考えると、自己存在の意義に相違なかった。世界から多くのものを奪い続けた自分が、世界の全てを支える存在になれるというのが、彼の人生の中で新鮮さを帯びたのだった。
「俺はお前の思うようには動かないかもしれない」
 薄雲の向こうから、弱い光が差し込む。瞬の髪は透けるような金色に光り、肌は白く浮かび上がった。男は含みを持たせて目を細めた。
「承知の上だ。元よりお前のことなど信用しとらん。欲しいのはお前の力だけだ。事がうまく運んだなら、好きにするがいい」
 瞬は返事をすることもなく、庭を見下ろした。
「お前には表向き、娘の教育係となってもらう」
「待て。そんな話は聞いていない」
 深緑が男の濃紺の瞳を射抜く。男は僅かな躊躇のあと、失笑ともつかぬ笑いをこぼした。
「しばらくはここにいてもらう。少なくとも術が軌道に乗るまではな」
「幽閉でもするつもりか」
「好きに受け取るがいい。こちらにもこちらの事情というものがある」
「自分の都合で娘は捨て駒か」
 瞬の嘲笑は相手までは届かない。
「すぐにわかるさ」
 男は踵を返して、廊下の奥へと消えていく。何をという問いかけは、瞬の胸の中だけで響いた。

 双眸が徐に開く。秘められていた深緑が光を捉える。肌に波音がさざめく。鼓膜にこだまする輝宮の声が心に深く沈んでいく。
 過去そのものが夢として現れたことに、瞬は僅かな驚きを覚える。仰向けのまま、両手で額を押さえた。
 昔は輝宮(てるみや)の言ったとおりになっていくのがひどく悔しかった。一度会っただけで見透かされた己の弱さに歯噛みしたこともあった。けれど今では輝宮に感謝の念さえある。何にかえても守りたいと思える存在を与えてくれたことに。
 茜と出会えたことに。
 復讐と破壊にのみ自分の全てを注いでいた。常に自棄の呪縛に囚われ、いつ果ててもいいと思っていた。むしろそうなることを願っていた。しかし今では、大事な人の命が満たされるまでは逝くことなどできなかった。確実に後に残る者として、彼女の最期を共に過ごすことは最高の救いでもあった。そしてそれからならば、自分はいつでも兄のように死を受け入れることができるだろうと確信していた。
(世界など欲しくもない。欲しかったのは)
 不意に部屋に気配がないと気付き、瞬は上体を起こした。瞬と茜にあてがわれた部屋は広くなく、寝台から殆どが見渡せた。
「茜……」
 声は掠れていて、うまく出なかった。瞬は手を伸ばして、傍の机に置かれた煙草を手にする。火をつけて吸い込むと、海の香りがした。
 上着を手繰り寄せて羽織ると、瞬はようやく寝台から降りた。唯一死角になっていた洗面所も覗いてみるが、彼女の姿はない。部屋の真ん中まで戻り、窓の向こうに広がる二つの青を眺める。果てしなく続く透けるような空と、深い慈悲を湛えるような濃紺の海原。
 波音に、混ざる音がある。歓声だった。
『明日、試合があるんだって。弓菜さんと観に行ってくるね』
 茜の言葉を思い出し、瞬は部屋をあとにする。
 海は、全てを呑み込んだ。

 * * *

 後ろから呼び止める審判の声すら、彼らには届かない。由稀は前を行く紅の背中を見つめていて、まるで身を斬られるような痛みを覚えた。紅を回りこんで流れてくる風に、彼の叫びを感じた。
 格技場を出るとすぐのところに、砂浜へと降りる階段がある。茜らの姿はそのすぐ脇にあった。弓菜が必死で茜に呼びかけている。真小太が周りを忙しなく歩いている。茜は弓菜に凭れかかって段に腰掛けたまま、微動だにしなかった。
 紅と由稀が駆け寄ると、呆然と立ち尽くしていた羅依が真っ青な顔で振り返った。何かを伝えようと口を開くが、一つも言葉にはならなかった。真小太のひと吠えで、加依と弓菜も二人に気付く。
 加依が思い出したように身を翻した。
「軍医を呼びに行ってきます」
 由稀に向かってそう告げると、加依は走って格技場へと戻っていった。加依の物怖じしない様子は、むしろ不自然なほどだった。由稀は加依の背中を見送ってから、視線を元に戻した。羅依と目が合う。思わず逸らした。海風に草木が揺れている。嫌味なほどゆっくりと時間が流れてゆく。茜の表情は弓菜のかげになって見えなかった。
 唐突に、由稀は羅依に腕を掴まれた。彼女は無言のまま由稀の空色を射るように見つめる。驚きよりも落胆の色が強い由稀に対し、勘をはたらかせる。
「お前、何か」
 知っていたんじゃないのか。
 行き着いた答えはひとつしかなかった。しかし羅依はその虚しさに言葉を切った。
 羅依は肯定を恐れて押し黙る。由稀もまた沈黙でそれを受け止めた。
 近付いてくる足音に気付き振り返ると、亜須久がいた。彼は茜を一瞥すると眉根を寄せて小さく首を振った。
「どういうことなんだ」
「それが」
 由稀は言いかけた先を継ぐことができない。苦しみにも似た困惑で顔が歪む。亜須久は軽く目を閉じて由稀の声を切った。
「とりあえず知らせてこよう」
 誰に、と重ねて問う者はいなかった。亜須久はもう一度彼女を見遣ると、口を引き結んで宮殿へと走り去った。
 由稀の心に、初めて絶望という文字が浮かんだ。
「茜」
 小さな呟きに風が鳴り止んだ。その声音に一切の感情は見受けられない。緊迫感の欠けた声だった。紅は足を引き摺るようにして茜へと歩み寄る。
 不意に波音が蘇る。歓声が背中にぶつかって落ちていく。
 由稀はこの場所に、今まで経験したことのない均衡を感じた。皆が夢を見ようとしている。
 しゃがみ込んでいる弓菜は、下から紅を見上げて泣き出しそうな顔になった。
「紅くん……」
 視線の先で、紅は腕をだらりと下げて立ち尽くしていた。由稀の腕の痛みが増した。羅依の手は小刻みに震えている。彼女は目の前で母親を喪っている。由稀は腕にはりついて離れない彼女の手をそっと上から包み込んだ。指はひどく冷たかった。
 紅が茜の膝元で脚を折る。弓菜は茜をあまり動かさないよう気を配りながら、一歩身を引いた。由稀の視界に茜が映る。さきほどまでの彼女とは別人の相貌になっていた。絹のようにすべらかだった肌は青白く乾き、深い慈愛に満ちた濃紺の瞳は儚げに揺らめいていた。あまりにも痛ましい姿に由稀は直視に耐えなかった。
 茜の頬に、紅の手が伸びる。
「茜、茜」
 普段の彼からは想像できない、弱々しい声だった。紅は割れ物を扱うように茜の肌に触れた。ひび割れそうなのは、むしろ彼の孤独感だった。押し迫る影に慄き、彼は思わず手を引いた。
 気付いた茜が、僅かに口を開いた。
「茜さんっ」
 弓菜が必死な声を上げる。
 うつろな茜の瞳は、紅を彷徨う。
「茜」
 紅は茜の手を取った。喉の奥が渇き、唾を飲み込む。
 茜は引き攣るように微笑んだ。
「瞬……」
 紅の指先が茜の手からするりと離れていった。由稀はまるで夢のようにゆっくりと時を感じた。息をつげなくなる。
 蝋燭の火が消えていくように内側へ潜ろうとする新緑の瞳を見て、由稀はなぜこれが夢でないのだろうと何度も胸の内で反芻した。
「早く、お医者を、お医者様を呼んできて!」
 居た堪れなくなった弓菜が、思わず声を上げた。それを契機に紅はふらつきながら立ち上がる。唇が言葉を刻む。咄嗟のことで、由稀には読めなかった。
「身代わり……?」
 隣で羅依が呟いた。それが紅の呟きだと理解したときには、紅はその場から走り出していた。
「待てよ、紅!」
 由稀は羅依の腕を振り払って、紅の背中を追い駆ける。
「待てってば」
 なかなか縮まらない距離に、由稀は自らを罵倒する。
 今だけは、紅を行かせてはいけない。由稀は奥歯を噛み締めながら、宮殿への階段を上がっていく。逸る気持ちで足がもつれた。転倒は免れたものの、由稀の足はそこで止まった。紅の姿が階段の向こうに消えていく。
「紅!」
 残影として貼り付いた紅の背は、まるで泣き叫ぶ幼子のようだった。