THE FATES

14.覚醒(5)

 宮殿の食堂は時間が遅いこともあって、瞬以外は誰の姿もなかった。中庭に面した窓からは陽の光が差し込み、掴めそうなほど空気の質感が露わになる。目映い世界に瞬は目を細めた。
 この場所に、自分が怖れるものは何もなかった。逃げ回る必要もなければ、追い回されることもない。こんなにも平穏な心は、生まれて初めてだった。
 だが素直にそこに馴染めない自分を、嫌というほど感じる。
 視線を下げて、器に注がれたセイル茶を眺める。そこに映る瞳を射る。
『死にやがれ』
 紅から初めてかけられた言葉が、褐色の液体から聞こえた。あれ以来、会話はもとより、二人は顔を合わすこともなかった。姿すら見ることはない。お互い鉢合わせたりしないよう、常に相手の行動を予測し、避けていたのだ。
 瞬は紅との今の関係を壊すつもりは毛頭ない。自分も心の中で何度も親を怨み殺した。気持ちがわかるのだ。真実を隠され続けた子供は、どのような説得を受けても生理的に親を受け付けられなくなる。無理をすれば、危うい均衡までも崩れ去ってしまうのだ。それだけは茜のためにどうしても避けたかった。
 自分が親だなどと思ったことはない。それでも紅にとっては親でしかないのだ。もちろん紅が瞬を親だと認めていなくとも。
 器に指をかけると表面が波立ち、そこに映った瞬の深緑は無残にも歪んだ。
 騒々しい足音が廊下に響き渡る。その中に覚えのある声を聞き、瞬は器を机に戻した。
「瞬!」
 呼びかけに、座ったまま振り返る。そこには、息を切らした亜須久がいた。
「朝っぱらからなんだ。そんなに息せき切って」
 瞬は椅子の背もたれに頬杖をつき、亜須久が近付いてくるのをぼんやりと眺めていた。彼の顔色が伺える距離になって、ようやくただならぬ事態が起きていることを悟った。
「どうした、何があった」
 亜須久は顔を歪めるだけで、答えようとはしない。瞬の腕を掴み、引く。
「来てくれ」
 立ち上がり際、腰が机の角に当たる。器が揺れ、倒れた。歪曲した円が、反射する光の中に広がる。
 痛いほどの白が目に焼きついた。

 中庭を突っ切り、白壁の廊下を横切る。宮殿のかげから抜け出ると、視界に海が広がる。手前には挌技場の屋根が見えた。瞬はふと駆ける足を止めた。階段を下りた先に、茜の姿を見つけたからだった。
 瞬の様子に、亜須久も立ち止まり振り返る。言葉をかけようとしたが、何も浮かばなかった。亜須久は瞬の白い肌を見るのも心苦しくなり、先に階段を降り始めた。
 横を、瞬が走り抜けていく。
 真小太が下から吠えた。羅依と弓菜は縋るように瞬を見つめる。
「なんだ、これは」
 瞬の瞳には、自分を見つめる者たちの姿は映っていない。
「何があったんだ」
 強い語気で問い詰めながら、瞬は茜のそばに膝をついた。青白い頬に手を添える。今にも崩れてしまいそうなほど、その肌からは力が抜け切っていた。茜は瞬の手のぬくもりが嬉しそうに、小さく口を開いた。うっすらと濃紺の瞳が覗く。
「瞬」
 先ほどよりもしっかりした声で、茜は瞬を呼んだ。瞬は優しく微笑んで茜の肩に手を回した。
「ああ、いるよ」
 瞬の声があまりにもやわらかいので、羅依は胸の高まりを抑えることができなかった。
「ここは潮風が冷たい。向こうへ行こう」
 瞬は茜にそう告げると、抱き上げるために背中へ手を伸ばした。弓菜が茜から離れようとする。
 茜は静かに目を閉じた。羅依には茜が首を振ったように見えた。
 弓菜が悲鳴をあげた。手には水飴のように血が張り付いていた。茜の背中から、鮮血が流れていたのだ。
「お前、何をした」
 瞬が氷のような眼差しで弓菜を見据えた。弓菜は肩を震わせる。
 弓菜は瞬の問いに、ただ首を振るしか出来ない。羅依も真小太も、瞬の威圧におされて、助太刀に出ることは出来なかった。
「違うの。みんなはよくしてくれたわ」
 茜が空を一点に見つめて口を開いた。瞬は彼女の言葉に言い返せない。ばつが悪そうに黙ると、茜を抱えあげた。
「医者はどうした」
「今、兄貴が呼びに」
「遅い。こっちから行く」
「やめて、瞬。私、ここがいい」
 彼女の声は背中の傷を忘れさせるほどに、瞬に響いた。瞬は茜の強い意志に逆らえない。
「茜……」
 ゆっくりと、茜の体を元の場所に下ろした。脚と腕で上半身を支える。
 茜が何かを求めるように腕を動かした。
「どうした」
 瞬は苛立つ気持ちを抑えて、優しく問いかける。瞬の超越した冷静さは、亜須久には茜への気持ちの深さだと伝わった。
「上着のかくしに、あるから取って」
 茜に言われるまま、瞬は彼女の上着を探る。指先に硬く冷たい感触を得る。つまみ出すと、見覚えのある鍵だった。飾りはない。ただそれは少し捻れるように曲がっていた。瞬は鍵を手にしたまま、茜を凝視する。
「お前、これ」
 茜が辛そうに腕を上げるので、瞬は鍵を彼女に握らせた。
「覚えててくれて嬉しい。ずっとね、肌身離さずに持ってたんだよ。だって、ほら」
 そう言って茜は手を震わせながら瞬の前に鍵を翳す。
「あの頃が、全部詰まってる」
 瞬は茜の腕を支えながら、すぐそばに鍵を見つめる。目を逸らそうと思っても、何故かそれは叶わない。鍵の捻れが瞬の記憶の扉を叩く。
「どうしてこんな、曲がって……」
 体内を巡るざわめきが潮風となって、瞬の音をさらっていく。茜はまるで女神のように微笑んだ。
「大丈夫だよ、瞬」
『大丈夫よ、怖いことなんてなんにもないわ』
 頭の奥に、懐かしい声がこだました。
『半永久的に、黒をとても薄い茶色にするの』
 瞬は茜の手を強く握る。そうすることで迫り来る記憶から逃れようとしていた。やめてくれと何度も内側に懇願する。けれど開き始めた扉は、もう閉じることはない。
 瞬は茜の手から鍵を抜き取った。
「瞬は、何も悪くないよ。それが全ての巡りあわせだったんだから」
 茜は軽く咳き込む。その様子を瞬はぼんやり眺めていた。
『だからね、絶対に触らないでほしいの』
 瞬の中に、閃光のように記憶が瞬く。本能がそれを封じ込めようとするが、解放された扉は、もう誰にも埋められない。
『万が一かかってしまったら、この綺麗な黒髪がなくなってしまうわ』
 木洩れ日が降り注ぐ中に、彼女の笑顔が繰り返される。
 瞬は吐き気をこらえた。
 平穏などどこにもない。ここにあるのは自分で自分に仕掛けた幻だけだ。
「そんな顔しないで。誰もあなたを責めたりしない。私も全部わかってたから」
 茜の明瞭な声は瞬に届いているのだろうか。
 瞬はうつろな表情で鍵を眺めている。
『瞳の色がよく映えて、大好きよ』
「嘘だ」
 薄い唇が、言葉を紡ぐ。
「嘘じゃないよ」
 どこにそんな力があるのか、茜の声はますます強まっていく。
「私たちを信じて、瞬。そうしたら、怖くないから」
「嘘だ。やめてくれ」
「瞬……」
 青白い頬とは対照的に、茜の瞳には強い意志が宿っていた。瞬はそこにもう一つの濃紺の瞳を見た。
『あいしてるわ』
 記憶が残酷なまでに鮮明に蘇る。背中を真っ赤に染めて倒れていく茜の向こうに、銅色の髪が揺れる。転がり落ちた小さな鍵は、衝撃で歪んでいた。その鍵を拾い上げる指先は、もう色を作ることが出来なくなっていた。瞬はその時初めて、彼女の整った爪を見たのだった。
『あなた、自分のしたことがわかってるの』
 姉のような母のような強さで、言い迫られた。
 あの時の痛みが湧き上がる。
 風に舞う銅色の髪が憎いのと裏腹に、そこはかとなく恋しかった。
 叫びが胸の内で反響する。
 全てが、瞬の中で繋がった。
「染芙……」
 瞬の呟きに、茜は安心したように微笑む。
「本当はね、黙っていようって思ってた。だって、あの時の瞬はとても見ていられる状態じゃなかったから。だから忘れたままの方がいいって」
 瞬は徐に鍵から茜へと視線を移す。
「だけど、私がいなくなってしまったら、誰が思い出してあげるの。誰が染芙さんの思いに報いるの。あなたしかいないの。いないのよ」
「俺は」
 鍵を持つ手が震えた。雫が落ちる。瞬の絹のような肌の上を、涙が一筋流れ落ちた。
「ごめんね。悲しい辛い思いさせてごめんね。そんなつもりはなかったんだよ。だって、わかってたから。最初から、染芙さんが力をくれた時から、長くはもたないって」
「俺は、どうして」
「責めないで。お願いだから。あなたはもう一人じゃないんだもの」
 茜の視線は遠い空を眺めている。咳き込み、血を吐いた。白い肌に朱が差す。増し続ける痛みに耐えかねて、茜の顔は苦痛に歪んだ。それでもなお突き動かされるように彼女は話し続けた。染芙の命までも背負う、自分に課した使命だった。
「私ね、ただ愛していただけ。あなたのことが大好きで仕方なかっただけ。何に代えても、あなたを救ってあげたかったの」
 力なく、茜の手が瞬の頬に伸びる。瞬は顔を寄せた。
「茜……」
「もう寂しくないよ。大丈夫だよ。瞬は愛されてる。私にも染芙さんにも。でも」
 茜は瞬の頬にふんわりと触れる。
「つらい思い、させてごめんね……それだけが心残りだよ」
 掠れる声で言うと、茜はゆっくりと瞳を閉じる。涙が零れ、血に混ざる。瞬は自分に伸びていた茜の腕を取り、彼女の首筋に顔を埋めた。指を絡め、二人で鍵を握り締める。
 そうすれば、あの頃へ戻れるかのように。
「ごめんね」
 最期の言葉は、瞬の深緑の瞳から全ての涙を奪い取った。