THE FATES

14.覚醒(6)

 誰もその場を動くことは出来なかった。羅依は凍りついた空間に息を呑んだ。近付く足音に振り返ると、そこには加依と軍医が立っていた。加依が無言で様子を聞く。羅依は俯いて首を振った。加依の口から、自責にも似たため息がこぼれた。
 瞬は茜を抱きしめ、鍵を握り締めていた。彼の細い体が一層華奢に映る。加依は一切の疑問を胸の奥に押しやった。
「茜さん……」
 弓菜の涙声が潮風になびく。彼女は地面に座り込んだまま、顔を覆って泣いていた。亜須久は腕を組み、顔を伏せる。まるで地面に沈み込んでいきそうなほど、彼の首筋には闇がとり憑いていた。奥歯を噛み締めると、顎が震えた。
 羅依はぼんやりと周りを眺めていた。手の届く位置に皆がいるというのに、遠い世界にいるように感じていた。足元に温もりを感じて見てみると、真小太が寄り添ってうずくまっていた。上からでは表情が判別しづらいが、じっと瞬を見つめる眼差しには、生き物としての無情さがあった。
「ああ」
 まだ実感が湧かないんだ。
 羅依は心の中で呟くと、真小太の背中を撫でた。
 弓菜のすすり泣きと微かな波音が流れる。
 おもむろに瞬が顔を上げた。
 頬は茜の血で濡れ、瞳の深緑はまるで夜の森のようだった。陶器のような肌がくっきりと浮かび上がる。
 彼が、死と生に塗り分けられていた。
「外してくれないか」
 官能すら感じさせる唇が、辛うじて言葉を紡ぐ。想像していたよりもしっかりした声に動揺しつつも、羅依は弓菜の元まで駆け寄り体を引っ張り上げた。そばで見る瞬の髪は、光を浴びて輝いている。触れれば、きっとやわらかい。羅依は一度ぎゅっと目を瞑って、亜須久とともに弓菜を肩に担いだ。
 振り返った先、瞬が茜を強く抱きしめる。空気を介して伝わる声無き声に、羅依は胸を詰まらせた。後悔と自責と愛情が氷を頑丈にしていく。投げ出された茜の脚から逃れるように、羅依は前を向いた。
 格技場の陰まで行くと、弓菜は声を上げて泣き出した。髪が乱れるのも化粧が崩れるのも構わなかった。亜須久は弓菜が座り込んで泣くのを見つめながら、険しい表情になった。
「そのくらいにした方がいい」
「そんなこと言ったって」
「俺たちが泣いたところで、どうにもならない」
 亜須久の声に抑えられた感情を悟り、弓菜は泣き声をひそめた。
「わかってるけど、わかってるからって止められないのよ」
 言いながら、彼女の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
「どうにかするために泣いてるわけじゃないんだから」
「本当に、どうにもならないんですか」
 加依の発言に、亜須久は目を丸くした。
「何を言って……」
「詳しいことはわかりませんが、みんな気付いてるんでしょう。いなくなったのは茜さんだけじゃないんですよ」
 落ち着き払った加依に対し、亜須久は一瞬怒りを覚えたが、正鵠を射た言葉にただ瞠若とした。
 そして加依が次に言おうとしていることに気付き、慄然とした。
「瞬がいなくなれば、茜さんがいなくなれば」
 続く言葉は言えなかった。亜須久はあまりの恐怖に声を飲み込む。加依はゆっくりと頷いた。
「いつ鬼使が現れても、おかしくありません」
「じゃあもし、鬼使が来たら……」
 声を詰まらせながら、弓菜は必死に現実を取り戻そうとしていた。
 羅依の脳裏に、鬼使の姿が甦る。
 頭上に広がる星空が、彼の髪を優しく撫でる。走り込んで薙いだ剣先は、虚しく空を切った。目の前に倒すべき賞金首の姿はなく、羅依は思わず舌打ちをした。
 背後から腕が伸びて、体を引き寄せられた。
『寂しい色だね』
 羅依は弾かれたように顔を上げた。明るい空の下、背中にじんわりと汗を感じた。失われていた記憶が、ようやく繋がった。そしてその時に得た感情が、まるで今のもののように湧き上がって来る。
「瞬を一人にしちゃいけない……」
 羅依の突然の言葉に、一同は怪訝な顔つきで首を傾げた。
「あいつは、まるで子供みたいなんだ」
 そう言い残すと、踵を返して羅依は格技場の前へと走り出す。
 涙が出るうちはまだいい。自分が寂しいと自覚できているから。
 でも、泣くことすらできなくなったら、自分の心が痛くても、寂しいとは感じられない。
 鬼使の言葉が、瞬のやわらかな髪に重なる。
 冷ややかな建物の角を曲がり、羅依は石床に散らばった砂に足をとられる。辛うじて顔を上げる。
 強い潮風が頬を削ぐ。
 赤い水溜りに、空が映り込む。
 泣き声と叫びにまみれても気高い男の姿は、残り香もこぼさずに消えていた。
「伝えなきゃ……」
 呆然と立ち尽くす羅依の足元に、神経を尖らせた真小太が進み寄る。低い唸り声を上げ、周囲をくまなく見回していた。
 加依は何事かと声をかけようとしたが、羅依の無言の背中に拒まれる。
 真小太が短く吠えて、階段へと走り出した。その先には海が広がっている。
「一人じゃないって、伝えなきゃ」
 羅依の呟きは、兄に届かず風に砕けた。