THE FATES

14.覚醒(7)

 走り出した先に、当てがあるわけではなかった。紅はただ、道が伸びるままに駆け続けた。一度立ち止まってしまえば、胸の奥から沸き起こる情動に呑み込まれてしまいそうだった。
「茜……」
 噛み締めた奥歯は砕けそうだった。それでも紅は緩めることをしない。もっと痛い場所があることに気付いてしまうから。
 できるなら、いつまでも自分は平気だと嘘をついていたかった。
 爪先が段差に躓く。とっさに踏み出して転倒は免れたものの、紅は大きな石柱に倒れ込む格好になった。
 膝が震えて、再び走り出すことはできなかった。呼吸が浅い。視界が歪む。その時初めて、逃げ出した自分に気付いた。
 床を握り締めるように爪を立てる。
『瞬……』
 茜の声がこだまする。
 瞬と重ねて見られていることくらい、紅自身にもわかっていた。幼い頃、頬を撫でる彼女の温もりを感じながら、どこか遠くを見つめる青い瞳に、たとえ子供であっても踏み込んではいけない領域があるのだと直観していた。
 それでもなお、その温もりだけを信じていたかったのだ。
 感じるもの全てとは言わない。一部分だけでもいい。自分に向けられていたのだと、愛されていたのだと思っていたかった。
 それが彼女を守ることにも繋がると、疑わなかった。
 彼にできなかったことを自分が成し遂げることで、彼に勝てるような気がしていたのだ。
 紅は身を縮めて、額を石床に押し付けた。呼吸が上がり、息が冷やされて撥ね返ってくる。嗚咽があとを追う。
「母さん……」
 最期まで、彼女の瞳に映ることはなかった。
 悲しくはなかった。彼女の痛みを考えると、とても悲しむことは出来なかった。
 紅はただ、自分の手の平に落ちる雫を眺めていた。
「なんだ、これ」
 茜のそばで感じた死臭が、ふと肌に蘇る。
 曲げようと思えば、指は曲がる。声を出そうと思えば、掠れた音が石に響く。
 泣こうなどと思っていなかった。なのに溢れてやまない涙は、次々と染みを作る。石の冷たさが、心地よかった。吹く風が髪を揺らす。耳を塞ぐと、血潮が聞こえた。胸が詰まる。
 生きている自分が、申し訳なかった。
 彼女は、母はちゃんと泣いただろうかと、紅は想いを馳せる。
 思い出が、映画の場面のように脳裏に広がる。繰り返される母の姿は、どれも気高く、どれも優しかった。
 映像は何度も巡る。紅の血潮も巡っている。そうやって生きていく。
 茜の狡さや我儘をも、紅は呑み込んでいく。いつまでも思い出の映像に翳りが生じないように。二人の記憶に幸せだけが残るように。
 紅はうずくまるように体を抱え、声を噛み殺した。

 由稀は時折立ち止まっては辺りを見回し、見失った紅の背中を追いかけていた。すれ違う人に聞いて回るが、紅の行き先は全くわからなかった。
「どこ行ったんだよ」
 由稀は馬小屋の近くまできて、深いため息をついた。小屋を覗いたが人影はなく、仕切りごとに馬が繋がれていた。
「まさか、お前たちが知るはずないよなぁ」
 疲れた笑顔で馬の頬を撫でる。馬は鼻を鳴らして尾を振るだけだった。
「身代わり、か」
 由稀は地下書庫に通い始めてからの紅の姿をよく知っている。何かに取り憑かれたかのように、本と向き合っていた。普段はものぐさな紅が、あんなにも真剣に物事に取り組むとは思いもよらなかった。それだけ、由稀は彼の想いを感じざるをえなかった。
「なんとかしねぇと」
 このまま、紅の時を止めてしまってはいけない。
 一刻も早く、茜の元へ連れて戻らねばならなかった。
 由稀は馬小屋から出て、思いを巡らせた。どうしようもなく傷ついたとき、紅ならどんなところへ行こうとするか。人気を嫌い、静かな場所を選ぶことは容易に想像できた。しかし宮殿内にはそのようなところはいくらでもある。闇雲に走り回ることは賢明とは思えなかった。
「広すぎるんだよ」
 由稀は小屋の前を行ったり来たりしながら、腕を組み考えていた。あらゆる可能性を思い浮かべてみるが、何か違和感を覚えてしまう。
 誰よりも紅の近くにいると思っていたのに、大事なときに何もできない自分が悔しかった。こんなとき自分に、もっと力があればいいと思ってしまう。紅の気を感じられる能力があれば、こんなにじれったい時間を過ごさずに済む。
「くそっ」
 由稀は足元にあった石を蹴り飛ばした。拳よりも小さい石は何度も飛び上がりながら、向こうまで転がっていく。その乾いた音に由稀は気を取り直して、もう一度心当たりを探そうと一歩足を踏み出した。石が視界の隅に映る。勢いを失って止ろうかと見えた瞬間、石は音を立てて消えた。
「え」
 由稀は思わず石の転がった方へと走り寄った。よく見ると、砂地の上に硝子の粒が落ちていた。石が蒸発したのだ。
 怖々、硝子の上に手を翳す。生暖かい風が流れていた。不意に、体の奥から湧き上がる力があった。鬼が胸を叩く。風は右の方向から吹いていた。先には、普段は使われない第二広間がある。
 由稀は鬼に賭けた。

 走り出すと、空気が急激に濃密になったようだった。息苦しく、由稀は口からも空気を吸い込んだ。砂地が粗い石畳になり、やがて光沢のある石床へとかわった。大きな柱が何本も見えた。第二広間だ。
「紅! いるのか、紅!」
 締め付けられて痛いほどの空気になっていた。由稀は顔を腕で覆いながら、紅の姿を探す。視界が狭まり、満足に息もできない。
「返事してくれ! 紅!」
 由稀は苦しさに咳き込みながら、手探りで足を踏み出す。胸が熱くなる。由稀が鬼の気配に気付いたときには、すでに息苦しさから解放されていた。
 今は何故と問う余裕はなかった。
 由稀は自由になった体で、柱の陰を覗く。しかし何もなかった。落胆する暇なく、死角になっている場所をくまなく探す。
 陽光を受けて光るものがあった。駆け寄ってみると、それは紅が持っていた煙草ケースだった。由稀はそれを拾い上げる。握り締めて、目を凝らした。
 一本の柱の根元が、ひどく溶け出していた。生き物が這うように、石はゆっくりと滲み出す。
 その陰に、手が見えた。
「紅っ」
 駆け寄ると、紅は地面に倒れたままぐったりとして動かなかった。じわりと迫る溶けた石から遠ざけるため、腕を引いた。意識のない人の体が想像以上に重く、由稀は歯を食いしばった。
「紅! どうしたんだよ、何があったんだよ!」
 何度呼びかけても、紅から返事はなかった。由稀は紅の頬を赤くなるまで叩いたが、返される沈黙にじっとしていられなくなった。
 紅の上半身を両腕で抱え、引き摺るように広間から這い出る。
「誰か、誰か」
 辺りに人影はない。由稀は腕にのしかかる重みを糧に声を張り上げた。
「誰か! 助けてくれ!」