THE FATES

1.出立(1)

 南国アシリカの陽射しは、比古(ひこ)にとって凶器に近かった。容赦ない熱が肌に張り付いて離れなくなる。比古は部屋の窓から恨めしそうに空を見上げた。空は比古に構うことなく、爽やかな風を従え街を見下ろしていた。
「これがなければ、いい場所なんだがな」
 床に座り込んで彌夕(みゆう)珪月(けいげつ)を爪弾いていた。
「皮肉な体ね」
「まったくだ。久暉(ひさき)の願いが叶ったら、俺は一生あの格好なんだからな」
 壁にはいつも比古が羽織っている外套が掛けられていた。比古は窓枠に頬杖をついて、深くため息を吐いた。彌夕の笑い声が旋律に乗る。
「笑いごとじゃないぞ。俺だってもっと軽快に街を闊歩したいもんだ」
「すればいいじゃない」
 彌夕は手をとめて笑っていた。比古は彼女を振り返る。
「だから、そんなことをしたら」
「命をかけて闊歩すればいいわ」
 そう言うと彌夕は大笑いして、再び珪月を弾き始めた。
「お前とは話にならん」
 比古は呆れて窓の外に向き直った。赤い目を細めて街並みの奥を見据える。青い空に反撥するように、白い神殿が遠く聳えていた。降り注ぐ清廉さは、比古が幼少時に夢見た世界とよく似ていた。澄み渡る空も、凛々しい神殿も、賑やかな街も、清らかな水も、全て故郷にはないものだった。
『俺と組んでみないか。ここから連れ出してやる』
 ただ、そう言った少年にだけ、この空はあった。野心とも希望ともつかない空色の瞳の輝きは、比古の心を一瞬にして捕らえた。夢が動き始めた瞬間だった。
 記憶が空に吸い込まれていく。震える胸の内に歳月の流れを感じ、更に熱いものが込み上げてきた。長い時が掛かったが、落ち着いたら青竜に礼を言おうと、比古は口元を歪めた。窓に彌夕の姿が映り込む。奏でるのは悲歌ばかりだが、今日だけは頬に仄かな赤みが灯るようだった。
 背景が揺らぎ、比古は外へ視線を戻した。どこまでも続く晴天に、神殿の上空だけが薄い雲を擁している。比古はそこに判然としない違和感を覚えた。見る間に雲は厚みを増し、色濃く染まっていく。比古は椅子から立ち上がって身を乗り出した。
「おい、彌夕」
 呼んでも返事はなかった。比古は構わず続けた。
「お前が橙亜(とうあ)で見た雷雲ってのは、あれじゃないのか」
「どれ」
 珪月の音が途切れた。彌夕は比古のそばに立つ。甘い花の香りが比古を包んだ。彌夕は比古の見つめる方を眺めて小さく頷いた。
「似てるわ」
「つまり、鬼使(きし)で間違いないな」
「ええ」
 彌夕は比古を振り返り、彼の白く透く肌を見つめた。鮮血を固めた瞳は鬼のように鋭くしなっていた。軽口でも言おうものなら噛み殺されてしまいそうな気配を感じ、彌夕は黙り込んだ。
「次の鐘まであとどのくらいだ」
「そう、ね。そろそろだと思うけど」
「あいつらはまだか」
「予定には少し早いわ」
 比古は短く罵声を吐くと壁を蹴りつけた。
「どうして今、鬼使が動く。またあの男に邪魔をされるのか」
「待って。まだ何が起こったわけじゃない」
「そうは言っても、あれを見て何もないと思う方が不自然だ。久暉の身に何かあったらどうする。なぜ今なんだ。なぜ久暉を運んでいる今なんだ。偶然か。俺の思い過ごしだというのか。だったらこの嫌な予感をどう説明してくれるんだ」
「取り乱すなんて、らしくない」
 彌夕は比古の腕を掴み、無理矢理椅子に座らせた。恐怖がないではなかったが、状況が彼女を強くした。比古は目を丸くして彌夕を見つめ返す。朝日のごとく輝かしい彌夕の瞳はいつになく真摯だった。
志位(しい)が一緒なんだから、大丈夫よ」
 そう言って彌夕は微笑んだ。比古の苛立ちは花の香りに溶けて消えた。
「さすが、青竜に育てられただけはある。冷静だな」
「みんなに育てられたのよ。慌てても何も始まらないわ。待ちましょう、帰りを」
 彌夕は比古の手を握り、唇を噛んだ。比古は彼女の不安に気付く。
「悪かった。俺はいつも自分のことばかりだな」
 比古は彌夕の細い指を握り返した。
「青竜に限って抜かることはない。安心しろ」
 珪月から離れた彼女の指先は震え、汗ばんで冷たくなっていた。