THE FATES

1.出立(2)

 それから鐘は二度鳴った。三度目も近かった。
 比古は窓際から動くことなく、じっと神殿へ視線を注いでいた。この距離では神殿で何が起こっているのか、知ることも感じることも叶わなかった。それでも見ずにいることは出来なかった。彌夕は比古の足元に座り、珪月を抱いていた。揃えたつま先を見据える。お互いの息遣いが聞こえるほど静かだった。
 静寂の音色が大気を震わす。彌夕はきらびやかな彩色の爪を見つめて、凍るように硬直していく自分の体を、中から眺めていた。比古の苛立ちが恐ろしかった。普段の穏やかで親近感のある物腰が、より一層の恐怖を彌夕に植えつけた。
 差し込む光に照らし出された塵の影に、激情の欠片が浮遊し、彌夕の周りを忍び足で取り巻いていた。床板の模様が炎のように揺らめき、あたかも意思あるもののように這いずり回る。散りばめられた木目は、やがて業火に苦しむ人面になった。鼓膜の底に悲鳴と喘ぎが波打った。足の裏が火傷しそうなほど熱い。燃え盛る炎に砂が焼かれていた。死体の焼ける匂いが鼻をつき、彌夕は舌を歯に挟んだ。柔布のように巻きつく煙が、彌夕から意識を奪う。
『来るか』
 霞み行く視界の中で、とっさに掴んだものがあった。
 差し伸べられた手の冷たさが、初めて感じた彼の熱だった。
青竜(せいりゅう)……」
 記憶の傷に苦しむ時は、胸に抱いた珪月の固さが、いつも彌夕を今へと呼び戻した。
 部屋の外を走る靴音が響いて、彌夕は顔を上げた。扉を開けて入ってきたのは顔色を失った志位だった。
「遅い」
 比古の一喝に、彌夕は肩を震わせた。額に掛かる銀髪は光に透け、白い肌に赤い瞳が浮き上がるようだった。志位はその横顔に息を飲んだ。比古のこんな表情を見るのは、久暉が倒れたとき以来だった。その時のことを思い出し、志位は顔を歪めた。
「す、すまない」
「ねぇ、何か飲むでしょ。お水が」
 彌夕は珪月を抱えたまま立ち上がり、志位に歩み寄った。
「先に話をしろ」
 窓辺から矢のような声が刺さる。彌夕は体をこわばらせた。記憶の中の恐怖が、符号を見つけて今へと這い上がってくる。目の前が血色に染まった。彌夕は声を詰まらせた。
「彌夕」
 肩に大きくあたたかい手がかけられる。
「あとでもらうよ」
 見上げると志位が眉を下げて微笑んでいた。彌夕は安堵の息をついた。志位の手が離れていく。彌夕は志位の大きな背中を見つめた。焼け死んだ父に似ていた。
「比古、落ち着いて聞いてくれるか」
「俺はいつでも冷静だ」
「そうは見えん。彌夕がかわいそうなほど怯えている」
 比古は神殿から視線を逸らし、彌夕を捉えた。彌夕は口を引き結んで耐えた。相手の羞恥心に構うことない深紅の瞳は、徐々に光を失い曇っていく。自分で管理できないほどの黒い感情が喉の奥を行き来する。比古は奥歯を強く噛んだ。
「彌夕を盾に取るわけか」
「そうでもせんと、お前が話を聞けるとは思わん」
 志位の言葉に比古は目を瞠った。すぐに自分の姿を省みて、乾いた笑いを見せた。
「まったく、やり方がずるいんだ。この中で誰が彌夕に勝てると思う」
 比古は全身から力を抜いて、背もたれに倒れこんだ。泡が弾けるように緊張が解ける。彌夕は呆気にとられて目をしばたかせていた。
「すまなかった。話を聞かせてくれ」
 比古は咳払いをして椅子に座りなおすと、頬を引き締めて微笑んだ。彌夕は安心して床に座り込み、珪月に爪をかけた。志位は窓から差す光の強さに気付き、布を引く。眼が霞むような薄暗さに彌夕は目をこすった。
 志位は青竜から指示され、竜樹界(りゅうじゅかい)にあった久暉の体をここまで運んでいた。他に同行者は二名おり、彼らが台車を引いていた。
 ちょうど大通りを抜け、脇道に入ったときだった。とぐろを巻くように渦巻いた風が彼らを襲った。風は彼らだけを狙い、息する間も奪った。苦しい時は長く感じられた。解放されたとき、久暉の体が乗っていた台車は、木っ端微塵に砕けていた。久暉の姿もなかった。
 志位は竜巻の残留気を追って、リノラ神殿へ向かった。そして神殿で起こった全てをその目に収めたのだった。
 話し終えて、志位は口髭をさすった。彌夕の差し出した器を、黙って受け取る。一気に飲み干すと、酒だったことに気付いた。
 外光を遮断する布は、夕陽を受けて赤く染まっていた。比古はそれを背に負って、黒く塗り潰されていた。形を失い、塊となっていく。部屋には珪月の浮世離れした調べが流れていた。
「鬼使の話では久暉と青竜は天水にいることになる。追うことはおろか、自力で戻ってくることも難しい」
「それでも何か方法はあるんでしょう」
 彌夕は弾く手をとめずに、志位を見上げた。志位は彌夕の視線から逃れるように、うな垂れて息を吐いた。珪月の弦が力みで切れる。彌夕は胸を掻き毟られるような焦燥を感じて、比古に救いを求めた。
「ねぇ、比古。そうなんでしょう」
 比古は固く組んだ両手に額を乗せて、黙り込んだ。
「答えて」
「今の俺たちでは、かなり」
 そこで比古の言葉は途切れた。部屋の外で話し声がして、周防(すおう)が入ってきた。彼は鼻で笑いながら部屋の中を見回した。
「辛気臭い部屋だ。人死にでも出たような顔をしている」
 黒い襟巻きを優雅な手つきで外し、周防は椅子の背に投げた。上着の釦を外しながら、整えた髪を荒く乱す。
「話は表で桟李(さんり)から聞いた。たまにはあいつも仲間に入れてやれ。裏切ったらその時に処分すればいい」
 周防はそう言って、開いたままの扉から廊下にいる桟李の顔を見た。浅黒く焼けた肌に朱が走る。桟李は周防に言い返そうと口を開いたが、周防の冷たい眼差しに喉を絞められ声は出なかった。
「待つしかない」
 志位は吐き出すように言った。
「こっちから行くことはできないが、久暉ならもしかしたら戻ってこられるかもしれない」
「そうは思わんな」
 周防は椅子に腰掛け、背もたれに腕をかけていた。比古は弟の様子を上目遣いに睨む。気付いた周防は見下した笑いを見せた。
「どうして確実な方法に目を向けない。鬼使や亜須久(あすく)に頼み込めばいいことだろう」
「何を言ってる」
「兄さんも志位も、由稀(ゆうき)に嫌われたくないから気付かない振りをしているだけだ。だから言ったんだ。あいつらに情けはかけるなと。どうせ駒なんだ。親しくなる必要性なんかどこにもない」
「お前とは環境が違う。怨みで束縛するのは独裁者がすることだ。梗河屋(こうかや)でしかできない」
「ならば皆、こちらに入れればよかったな。最後には利用するくせにきれいごとを言うな」
 周防は喉の奥で笑った。比古が立ち上がった。周防は似ても似つかない容貌の兄をじっと見つめる。
「確実な方法とは何だ」
 比古は低く唸るように問うた。周防は嬉しそうに微笑んだ。
「鬼使に天水へ連れて行ってもらうのさ。そして久暉と青竜を見つけてこちらへ連れ帰ってきてもらう」
「そんなふざけたこと」
「出来ないなら、本当に待つしかない。もう一度、待てるか」
 周防の目は子供の頃のように真っ直ぐ比古に向けられていた。
「兄さんは充分待っただろう。それでもまだ待つのか」
 比古は返す言葉を持たなかった。周防の言うとおりだった。自分にはもう一度待つ自信はなかった。
「それに今回は、いつまで待てばいいのかもわからない。俺たちにただ諾々と待つような時間はないはずだ」
 周防の眼差しを受け止めきれず、比古は瞼を閉じた。
「だが向こうがこちらを連れて行くと思うか」
「そこを口説くのが志位の役割だろう。だから言ったんだ。由稀に嫌われるのが」
「わかった」
 比古は手を挙げ、会話を断ち切った。皆の期待と不安が比古に向けられる。
「なんとか由稀を懐柔したとしても、鬼使が頷く可能性は低い。現実的に考えて、俺たちには久暉の帰りを待つしか出来ない。だったら待っている間に、全ての準備を整えておこう。いつあいつらが帰ってきてもいいように、動く基盤を作っておこう。それが一番建設的なんじゃないか」
「具体的には」
「取り急ぎ必要なのは、最近の斎園(さいえん)の情報だ。一体どういう情勢になってるのか知っておきたい。志位に行ってもらいたい。安積(あづみ)と桟李を連れて行ってくれ。怪しまれにくいだろう」
 志位は黙って頷いた。
「あとは竜樹界の整備だな。これは引き続き周防、お前にやってもらう。人員を増やしても構わない。そのくらいの準備はしてあるんだろう」
「当然。いつでも動かせる」
 周防は俯きがちに肩を揺らして笑った。比古は弟の機嫌が直ったことに、胸を撫で下ろした。
「ねぇ、私は」
 彌夕が片膝を立てて身を乗り出した。意志の強そうな面差しに似合わず、言葉は上ずって空回りしていた。比古は出会った頃の幼かった彼女を思い出し、その成長を嬉しく思った。自然と笑顔が浮き上がってきた。
「彌夕は俺と一緒に指示班だ。いいだろう」
「役に立てるかしら」
「大丈夫。青竜も誉めてくれる」
 比古の言葉に彌夕は静かに微笑んだ。その笑顔は珪月の音色のように哀切に満ち、穏やかな波のように揺るぎなかった。