THE FATES

1.出立(3)

 一つの花が枯れると、夢を繋ぐようにまた違う花が咲き初める。ネリオズ宮殿の中庭には、色とりどりの花が絶えず咲き誇った。
 噴水から光が弾け飛んだ。由稀(ゆうき)は食堂の大きな窓から光の源泉を眺めて微笑む。視界の真ん中で向かいに座った玲妥(れいだ)が、同じように笑みを見せた。
「ねぇ、精霊界ってどんなところだった」
 羅依(らい)はセイル茶を口に運びながら聞いた。玲妥は菓子をつまみ、視線を天井に向けた。
「あのね、すごく広かったよ。それにきれいなの。天国みたい。空はどんなとこよりも青くて透明で、川は底の小さな石まで全部見えるくらいなの。一面に草原が広がってたり、すごく安心できる森があったり。みんなはね、その中で色んな自然と共存してるって言ってた」
「玲妥ちゃん一人、楽しいとこ行ってきたんだなぁ」
 机に突っ伏して(こう)が寝ぼけ眼で呟いた。起き上がって伸びをすると、煙草をくわえる。しかし火をつけるよりも早く、玲妥が身を乗り出して紅の口元から煙草を抜き取った。
「ダメだよ。空気悪くなっちゃう。お菓子にもお茶にも匂い移るんだから。相変わらず気配りに欠けるのね、紅くんってば」
「大丈夫、大丈夫。それあんまり煙出ないやつだから」
 紅は椅子から腰を浮かせて手を伸ばすが、玲妥が応じることはなかった。諦めたのか紅は再び白い机に頬を押し当てた。
「よかったね、玲妥」
 羅依の言葉に玲妥は眉を下げてはにかんだ。しかし由稀はその微笑みに差した影を見逃さなかった。それは、中庭の光を背に受けて抱えたものとは、異なる深みを帯びていた。玲妥の頬には光と影の溝が生まれ、すぐに色のない影が光を覆いつくした。瞬きするたび玲妥の笑顔が剥がれ落ちていくように感じられ、由稀は羅依から白い茶器を横取りした。

 食堂は昼食時で人が増えていた。由稀が場所を変えようと立ち上がったとき、扉の方を見遣った玲妥が顔を輝かせた。
加依(かい)! こっちだよ、加依」
 玲妥は席を立ち、大仰に手を振った。周りが一斉に振り返るが、玲妥は構わず飛び跳ねた。由稀が振り返ると、加依は小走りで駆け寄ってきた。
「俺が恥ずかしいですから」
 口早に言うと、加依は隠れるように椅子に座った。
「ごめんね。でも久しぶりだから」
「そうですね。元気そうでなによりです。また向こうでの話も聞かせてくださいね」
「今は聞いてくれないの?」
 玲妥は首を傾げながら菓子の皿を加依の前に滑らせる。加依はそれを軽くいなして由稀の前に置いた。由稀は勢いで一つつまんだ。砂糖の甘さと果実のすっぱさが舌の上に踊った。羅依が由稀の方へ手を伸ばしてくる。
「お前、茶ばっかり飲みすぎだよ」
「だって喉渇くんだから、仕方ないだろ」
 由稀は自分の器になみなみと注いでから、羅依の方へ茶器を押しやった。
「今は会議の最中なんですよ。紅が入用になったので借りに来ました」
「は。何で俺なの」
「そうあからさまに嫌な顔しないで下さい。俺の良心が痛みますから。瞬が呼んでるんですよ」
「あ、いないって言っといて」
「捜せと言われるのが目に見えてますから、言いません」
 加依は型に填まった笑顔で椅子から立つと、紅の胸に下がる首飾りを背後から握った。金具が喉に食い込み、紅は思わず立ち上がった。
「ばか、絞まる」
「ああ、すみません。俺も瞬に睨まれたくないんですよ」
「俺は人身御供か」
「そんないいものだといいんですがね」
「ふざけんな」
 紅は加依の腕を振り切り、喉を押さえた。自分の肌の触れ合う感触がひどく奇妙なことに思われ、紅は初めて見る物のように手の平を見つめた。
「兄貴、なんで紅だけ呼ばれるんだ。文献とか難しい話なのか」
 羅依は茶器を持ったまま、加依に視線で詰め寄った。そのぎこちなさは玲妥を驚かせる。由稀は混乱を避けようと口を開いたが、玲妥は小さな手を口元に当てて考え込んでしまった。
 加依は一瞬顔をしかめたが、すぐに普段のにこやかさで微笑んだ。
「いえ、そうではないんですよ。ここで話していいものかどうかわからないんですが」
「そこまで言ったら、最後まで言えよ」
 紅は椅子の背に片手を突いて、由稀の背後から皿の菓子へと腕を伸ばした。胸に下がった銀色の小さな望遠鏡が、由稀の目の横で揺らめく。
「それもそうですね。実は瞬が天水(てんすい)へ帰ることになったんですよ」
「へぇ、帰るのかぁ。ってマジかよ!」
「でっ!」
 勢いよく由稀が立ち上がると、頭の上に紅の顎が当たった。骨のぶつかる生々しい音に加依は顔を歪めた。二人は患部を押さえて痛みに呻く。
「うー、いつまでも子供みたいに菓子食ってんじゃねぇよ」
「つか普通いきなり立つかよ。あー、いてぇ。舌噛むとこだったじゃねぇか」
「今のは避けられたでしょう」
 加依は呆れて肩を落とした。
「ぎゃー! 羅依、何してんのよ!」
 玲妥の悲鳴に顔を上げると、羅依が茶を注ぎながら呆然と宙を見つめていた。その間にも琥珀色の液体が白い器を乗り越えていく。
 鏡面仕上げの白い机には、すぐに飴のような輝きをもってセイル茶が広がった。

 会議室へと向かいながら、由稀は瞬の決定が自然な流れであることに気付いた。それは加依の口から聞いたときにすでに気付いていたように思う。それでも思わず驚いたのは、帰るという言葉が不用意に由稀の中に入り込んできたからだった。瞬と紅が本来はここに住む者ではないという事実を突きつけられ、疾風のように芽生えた寂寥感をどうすることもできずにいた。
 由稀は斜め前を歩く紅の鮮やかな髪を見つめた。出会ってから初めて、紅の天水での生活が気にかかった。学校はどうだったのか、どんな友達がいたのか、恋人はいたのか。思い返してみても、紅は天水での自分のことをほとんど由稀に語ろうとはしなかった。自分が友達として信用されていないのか、それとも紅が全てを捨ててきたからなのか、由稀にはどちらの答えも残酷で選ぶことが出来なかった。紅の刺々しい背中に、由稀は自分の心を重ねて見る。まるで触れているかのように友の痛みが伝播した。由稀は呼びかけようと伸ばした手を引きとめ、宙を握りしめた。
「決めた」
「は?」
 由稀の呟きに紅は振り返り、眉間を寄せた。由稀はおもむろに頷いた。
「変な奴」
 そう言った紅の新緑の瞳には、大人びた諦念が漂っていた。由稀は満足げな笑顔で紅の肩を叩くと彼を追い抜き、前を歩く加依に並んだ。肘でわき腹を突付く。
「なぁ加依。加依は俺らの味方だよな」
 由稀は小声で加依に耳打ちした。加依は怪訝そうに由稀の顔を窺う。
「何の話ですか」
「いやだからさ、味方だったら俺が何言いだしても弁護してくれるよな」
 加依は由稀の愉しげな笑顔を冷ややかに受け流し、疑念に目を細めた。
「なんとなく、由稀の考えてることが読めてきたんですが」
「そうそう、そういうこと。助け舟出してとまでは言わないから、せめて黙っててくれよ」
 親指を立てて、由稀は快活に笑う。
「そうですね。問題は由稀だけならまだマシだということですね」
 加依は肩を竦めて前を見つめた。先頭を歩いていた玲妥が、会議室の扉に手をかけたところだった。

 会議室の天井は煙草の煙で霞んでいた。瞬はため息の代わりに深々と紫煙を吐いた。斜め向かいに座る亜須久(あすく)には、肌が痺れるほど瞬の緊張が伝わった。
「怖いのか」
「何がだ」
 瞬は短くない煙草を灰皿に軽く押し付けた。折れ曲がった煙草からは白く細い魂が立ち昇った。瞬は亜須久を一瞥して小さく笑った。
「そんなふうに映るのか」
 瞬の笑顔は終末の落日に似て儚かった。崩壊の予感すら取り込み自らを輝かせる瞬が、亜須久には不憫に思えた。鬼使にはあった猟奇的なある種の生命力は、すっかり影を潜めている。それでも滅多に笑わない彼がこぼした微笑みは、亜須久の気持ちを和らげた。
「紅がすんなり行くとは思えないからな。お前だってああも拒まれれば辛いだろう」
「それだけのことをしてきたから、骨が折れることはあっても辛いとは思わない」
「そうなのか」
 亜須久は窓の外を見遣る瞬の横顔を見つめた。光の筋が涙に見えた。
「本当にそうなのか、瞬」
 荒げるわけではなく、ただ強く亜須久は言葉を重ねた。瞬は机に放り出された煙草に手を伸ばそうとするが、先に亜須久が掴んで遠ざけた。
 瞬は顔を上げて、真正面から亜須久を見据えた。
「亜須久」
 静かな声で、瞬は手を差し出す。亜須久は息を呑んで耐えた。
「思わないようにしているだけなんだろう。本当はお前も親として」
「そこまでにしろ。血を見たいか」
 瞬きする間に、目と鼻の先に瞬の深緑の瞳があった。幻術とわかっていても、亜須久は刺すような視線に喉を押さえられ、体を固くした。一段と深みを増した彼の瞳には、見る者が窒息するような圧迫感がある。亜須久は瞬の促すまま、彼の手に煙草を差し出した。すぐにも殺人的な瞳の魔力から解放された。何事もなかったように瞬は亜須久から視線を外し、花を愛でる手つきで煙草に火を点す。亜須久の体は恐怖の名残に脈打った。
「俺と紅の問題だ。わざわざお前らが首を突っ込むことじゃない」
 瞬はうな垂れる亜須久に向けて、煙草の箱を指で弾いた。
「いるか」
「いや、いい」
「そうか」
 瞬は脚を組み直し、壁へ視線を投げた。見つめる先はその向こうへ伸びていた。
「だが、天水へ行くのはまた違う話だ。それも承諾できないような男なら、俺はあいつから鏡を抜くつもりだ」
 瞬の瞳は、たとえ誰にも届かないほど深みを増したとしても、決して濁ることなく、常に彼自身の強さによる透明感を伴っていた。