THE FATES

1.出立(4)

 玲妥は会議室の前に立ち、扉の向こうに憂いを感じた。伸ばした手は躊躇いに震えていた。
 三日前、船で迎えにきた弓菜(ゆみな)は、すぐにわかることだからと宮殿で起こった全てを玲妥に語った。返す言葉を失うほど、心痛める話ばかりだった。由稀のことも青竜のことも、そして竜族のことも、耳を疑いたくなるような真実だった。思わず息ができなくなるほどに理性が揺さぶられたが、由稀を信じる気持ちと、弓菜や葉利(はり)を気遣う心が涙を押し留めた。だが、ただ一つだけ、どうしても堪えられず泣き伏した話があった。
 茜が亡くなった。
 玲妥は聞いた直後のことをよく覚えていない。水面で跳ねた光が、弓菜の髪飾りを彩り輝いていたことだけが脳裏に鮮明に焼きついていた。
 玲妥が茜と過ごした期間は短かったが、彼女の真っ直ぐな背筋と海色の深い眼差しをよく覚えていた。茜には、陽光降り注ぐ中庭のように穏やかで、青天を目指す花の茎のように凛々しく、人には不可侵と思わせるような高貴さが漂っていた。そして何より、彼女のそばにあるときの瞬には、普段ある触れれば切れるような緊張感が微塵も感じられなかった。絶対の安心を得た充足感に満たされながらも、まるで何も変わらない平然とした顔をした瞬が微笑ましく、玲妥は気味悪がられるほど顔を緩めたものだった。
 誰から見ても茜の存在は、神のごとく欠けてはならないものだった。
 その彼女が亡くなった。
『玲妥ちゃん。優しい名前だね』
 茜に抱きしめられたときの温もりは、育て親によく似て心地よかった。
 玲妥は小さくため息をついた。幼い口元から洩れる息は、真似事にしては大人びていた。
 彼女のことが好きだった。だからこそ逝ってしまった彼女に非難の目が向けられる。
『彼を一人にしないであげて』
 約束を破られたという気はしない。けれど最初からそのような約束はなかったのではと思われてしかたなかった。胸の奥で毛の先ほどの小さな痛みが無数に跳ね回る。
 反故にされた方が、どれほど良かっただろう。
「うそつき」
 玲妥は直観を歪め、死者を悼んだ。
 手を伸ばし、扉に手をかける。途切れた時間を繋ぐように。

 玲妥が扉を開けるのを見て、由稀は歩調を速めた。すぐにも追いつき、重厚な扉を支えて玲妥の背中を軽く押した。玲妥は振り返って微笑むと、部屋の中へ飛び跳ねながら駆け入った。
「ただいま!」
「おかえり、玲妥」
 亜須久は玲妥の頭を軽く撫でる。
「元気そうでよかった」
「あーちゃんもね」
 花が咲いたような玲妥の笑顔に、亜須久もつられて微笑み返した。玲妥は満足げに頷くと、亜須久の手から離れ瞬の元へと駆け寄った。瞬は吸いかけの煙草を灰皿に強く押し付け、玲妥へ向かって両手を差し出した。
「おかえり、お姫様」
「ただいま、瞬。すごく会いたかったよ!」
 玲妥は瞬の胸に飛び込み抱きついた。瞬は視線を由稀に向けて、顎で壁の方を指した。
「は?」
「窓」
 瞬は指先を何度か曲げた。由稀には開けろと言っているように見えた。部屋に薄くかかる靄は、全て瞬の煙草から吐き出されたものだ。
「なんで俺が」
 釈然としなかったが、由稀は声を潜めて、重い足取りで窓を押し開けた。綿のような風が会議室の床を転がっていった。
「ちょっと大きくなったか」
 瞬は玲妥の背中をさすり、問うた。
「そんなにすぐに伸びないよ」
 玲妥は鈴が鳴るような声で笑った。
「そうか、それもそうだな」
 思わず零れた瞬の笑顔は、由稀の目に鮮烈な光として映った。玲妥は瞬から体を離して、指折り何かを数えているようだった。聞こうと思えば届く声も、今の由稀には遠かった。由稀はあらためて玲妥のすごさを思い知った。ここにいる誰にも、瞬にあのような笑顔をもたらすことは出来なかった。瞬の優しさをわかっているはずなのに、理屈で彼の本当の心を否定し、現実と折り合いをつけようとしていた。
 由稀の中に潜んでいた醜い自己陶酔が崩れていく。心のどこかで自分が誰よりも傷ついていると誇っていた。窓から手を伸ばせば、陽光が肌を斬りつけ、風が腕を滑り落ちていく。
「らしくない」
 友の背中に重ね見た痛みを否定するわけではない。だが痛い痛いと肩を寄せ合うのは、自分が最も厭う行為だと悟った。由稀は窓を全開にして、暴れ馬のように流れ込む風を受けて頭を軽く振った。
 部屋を振り返ると、加依が椅子にかけたところだった。玲妥は瞬から離れて羅依の手を繋ぐ。羅依は呆然と突っ立っているだけだった。足元には主人を守るように真小太(まこた)が陣取っていた。玲妥は羅依の顔の前で何度も手を振るが、一向に反応はなかった。
 紅の姿が見当たらないので開け放した扉まで歩み寄ると、背を扉に預けて紅が座り込んでいた。
「往生際悪いなぁ」
「関係ないだろ」
 紅は唇を尖らせて由稀から顔を逸らした。
「俺は全員連れて来いとは言ってないが」
「連れて来たわけではないですよ。ついて来たんです」
 普段の声音に戻った瞬にも、加依は物怖じすることがなかった。瞬もそれ以上追及することはしない。
「紅」
 瞬は紅のいる方を確実に捉えて呼びかける。しかし紅は外を向いたまま応えない。
「いるんだろう、紅」
 厳しさはなく静かな声だった。
「なんだよ」
 紅は歯切れ悪く応えた。吹き込んでいた風も阻まれるような沈黙が降りる。瞬は大仰なため息を吐いた。
「加依から話は聞いたか」
「何が」
「天水へ帰る話だ」
「なんとなく」
 その返事で、瞬は加依を見た。加依は眉を上げて目顔で心外だと言った。
「そろそろお前も天水へ帰りたいだろう」
「別に」
「帰りたいと思い込んだ方がお前のためだと思うんだが。信念はどんな苦境も乗り越えると言うからな。それでも違うと言い張るか」
「は?」
 紅はようやく顔を上げて部屋の奥を見た。机が邪魔をして、瞬の姿は見えなかった。
「わけわかんねぇ」
「状況をよく考えてみろ。青竜を誰が迎えに」
「なぁ、瞬。その話なんだけどさ」
 由稀は厚く垂れ込めた雲を払うように、二人の間に割って入った。瞬は頬杖を突いて、怪訝そうに目を細めた。
「その話の最中だ」
「いや、皆まで話さなくってもわかってるって。むしろわかってないのは瞬の方じゃないか」
 由稀の思いがけない言葉に、瞬は目を丸くした。瞬だけではなく、事情を理解している亜須久や加依も驚いて由稀を見た。
 由稀は得意げに胸をそらすと、親指で自分の胸元を指した。
「どうして誰よりも当事者な俺を天水へ連れて行かないんだよ」
「無茶を言うな。こっちと天水では時間の流れも言語も違う。慣れないお前が行ったところで足手まといになるだけだ」
 瞬は呆れかえって、追い返すように手を振った。
「そんなこと言ったって、その違うとこから瞬と紅も来てんだから、俺が天水行ったって問題ねぇよ」
「どうしてそう断定できるんだ」
「先に断定してるのは瞬だろう。もうちょっと可能性広げていこうぜ。どんなに反対したって、俺は鞄の中に入ってでもついていくからな!」
「由稀が入るくらいの鞄はなかなかないと思いますが」
「うるさいよ、加依!」
 由稀はなかなか得られない賛同に苛つき、足元に座り込んでいる紅を引っ張り上げた。
「ほら、俺が行くとなったらこいつだって」
「別に誰が一緒だろうと変わら、ごほっ」
 紅はみぞおちに由稀の肘を食らい、体を曲げて咳き込んだ。由稀は何事もなかったように続ける。
「俺さ、ずっと考えてたんだ。どうして青竜があんなことしたのか。でもどんなに考えてもわからないんだ。情報が足りないわけじゃない、むしろ充分整ってるのに。それで思ったんだ。これは本人に聞くしかないって。青竜はちゃんと答えないかもしれない。でもそんなことは俺には関係ないんだ。面と向かってもう一度話をすることが必要なんだよ。一刻も早く。そうしないと、俺の中に残った久暉の欠片が死んでしまう気がするんだ。俺は死なせたくない。もう誰も」
 由稀の黒い瞳には一切の揺らぎがなかった。色は違っても、彼の瞳には空が宿っていた。高く透く青天そのものだった。
 深い輝きを帯びる至宝の瞳を閉じて、瞬は組んだ手に口を寄せて押し黙った。思い出したように忍び入る潮の香りが、瞬の頑なな思考を解きほぐしていく。
「行くからには戻れなくなる覚悟はあるか」
「もちろん、どんな事態も受け入れる」
「お前が行くことで」
「しつこいよ、瞬。いつからそんなに年寄り臭くなったんだよ。俺は俺の責任くらいちゃんと取るよ。結果が俺の望んだものとは違っても取り乱したりしない。まぁ、何としてでも目指した場所に辿り着いてみせるけど」
 由稀は頬を引き締めて笑った。それは誰にも曲げられない、意志の連なりだった。瞬は整った顔を嬉しそうに歪め、背もたれに体を預けた。
「聞き捨てならないことを軽く言ってくれる。いいだろう、そこまで言うならついてこい。あとで泣きを見ても知らないからな」
「まさか。きっとあとから感謝することになるよ、俺がいてよかったって」
 由稀は嫌がる紅の肩に腕をまわし、晴れやかに笑った。紅は由稀の腕を払いのけようと体を折り曲げた。
「だといいけどな」
「なんだよ、お前。俺たち友達じゃねぇのかよ、ぐえっ」
 由稀は胸倉を掴まれ、潰れた声を上げた。その隙に紅はすり抜けて、真小太の横に座り込む。
 目の前には羅依の淡紫色の髪が風にそよいでいた。彼女は出会った頃のような鋭い眼差しで由稀を睨み上げ、腕に力を込めた。拳の裏が由稀の喉を締め上げる。
「羅依、く、苦しい。つーか誰か助け」
「面白そうだから観察です」
「わぁ、由稀の方が大きくなったんだねぇ、良かったじゃん」
「しかも羅依の靴は昔のままだからな。俺も由稀くらいのときは背が伸びた」
「あーちゃんは子供の頃から大きかったんじゃないんだ」
「大きい方ではあったが、今よりは小さかったよ」
「これでも俺も伸びたんですが、誰も気付いてくれませんね」
「へぇ、そうだったんだぁ。やだ加依ってば、いじけないでよぉ」
「いや、ちょっ本気で、くるし」
「由稀」
「な、なんでしょ」
 歯噛みの音が聞こえるほど間近に羅依の顔が迫り、由稀は片足を大きく後ろに踏み出した。
「あたしたち、友達だよな」
「は」
「友達だよな」
「あ、はい。友達です。すっげぇ仲良しです」
 由稀が掠れた声で叫ぶと、羅依は獲物を捕らえた獣のようにおもむろに笑みを浮かべた。
「じゃあ、あたしも連れてって」
「はあぁ?」
 眉をひそめた途端、さらに喉は苦しくなった。
「ちょ、俺に言うな。決定権ないから」
 言いながら、由稀は部屋の奥で優雅に煙草を吸う瞬を指差した。由稀は涙目になって瞬を凝視するが、向こうは全く気付かない振りをして楽しんでいた。
 羅依は由稀の指を辿って一度は振り返ったが、すぐに向き直って詰め寄った。
「あたしだって青竜に言いたいことくらいある」
「くらいってなんだ、くらいって。待て待て、話おかしくないか。いや、その前に手を離せ。ていうか、そこの四人! 瀕死の俺を無視して盤戯してんじゃねぇ!」
 由稀はあまりの苦しさに、羅依の手を上から強く掴んだ。けれどその程度で羅依が引くわけもなかった。
「おい、瞬! なんとか言え!」
 瞬は煙草をくわえると、立ち上がって窓に寄った。
「お前の好きにしろ」
 羅依の手は由稀を突き飛ばすようにして離れた。