THE FATES

1.出立(5)

 海の果てに昼が吸い込まれる。空には幾重もの雲がなびき、それぞれの色に移り染まる。金属的な水面は沈んだ揺らめきで、じっと夜の訪れを見上げていた。由稀は自室の窓に腰かけて、立てた片膝に頬杖をつき、去りゆく光を眺めていた。豊かな海原は混ざりたいと夜を呼び、小さな由稀は行かないでと光に懇願する。腹の底から音を立てて膨らんでいく不安と期待に、由稀は内側から押し潰されそうだった。
 天水へ行きたいと望んだのは自分だったが、己の本心から逃れようと装った感覚が、腕から、肩から、頬から抜けなかった。由稀はようやく馴染んだ黒髪を握りしめ、うな垂れる。
「人に真っ直ぐ、自分に正直に」
 呟きは海鳴りにかき消される。幼い頃から諭され続けた言葉が、理性と感情と本能の間で落ち着きなく彷徨っていた。志位と安積の笑顔が脳裏に浮かぶ。
『あなたは本当に真っ直ぐな人だ。志位と安積の教育に感謝しなければいけませんね』
 鼓膜に湧き立つ低い声は、由稀の息を詰まらせた。潮の香りも届かないほどに、世界と繋がる全ての器官が塞がれていく。
 本当の親子ではなくても、相応の信頼関係を築いていると由稀は信じていた。男としての逞しさを、人としての優しさを、志位と安積の姿に見ていた。それが、なりたい自分の姿になった。いつかはあんな大人になりたいという気持ちが、そして憧れの二人から大切にされていることが、由稀の自己存在を支えていた。
 青竜が明言したことは少ない。けれども自分の置かれていた状況を推測するには、充分だった。体に刻まれた志位と安積の愛情には、すぐにも影が差した。十五年という歳月で培われた、自尊心の砦も自己愛の濠も、建つ足場を失って不揃いな積み木のように崩れ落ちた。
 手の平に額を押し付け、由稀は散っていく憧憬に見えない涙を流した。精神を蝕む痛みは、肉体的なものとは異なり、目を背けることが出来る。だがそれをできないように育てられた由稀には、ただ光に晒されて二人を思うことしか出来なかった。
 昼間、瞬に言った。青竜に聞きたいことがあると。それは決して嘘ではない。しかし本当に話を聞きたいのは、志位と安積に対してではないかと何度も考えが巡った。
 自分は本当に愛されていたのかどうか。
 会いたい。二人の優しさに包まれたい。けれど失うことに怯えて、踏み出す足は震えた。瞬が茜と別れてアミティスへ来た理由が、初めてわかった気がした。
「逃げ、になるのか」
 沈黙を貫いた瞬に比べて、真面目ぶった言い訳を並べた自分が、小賢しく愚かに思えた。
 由稀は立てた膝を抱え、色めき、世界と溶け合う空を眺めた。
 部屋の扉を叩く音がして、由稀は顔を上げた。咄嗟に表情を作ろうとするが、間もなく開いた扉から玲妥が顔を覗かせた。玲妥には由稀の顔が逆光で見えず、小さく微笑んで後ろ手に扉を閉めた。
「どうした」
 由稀は自分の声が、何重にも布を巻かれた機械から発せられている気がした。玲妥は由稀のそばまで歩み寄って、握った手を突き出してきた。
「手、出して」
 言われるまま由稀が手を差し出すと、玲妥はその上に羽根のついた首飾りを置いた。故郷では旅立つ者の幸運を願い、羽根のついた装飾品を渡す習わしがあった。特に渡り鳥の羽根が使われ、帰る場所を見失わないようにとの祈りも込められていた。
 海に呑まれて喘ぐ光が、羽根を金色に塗り上げる。濡れたように艶めく表面が、由稀の視線を捉えて離さなかった。
「気をつけて行ってきてね」
 玲妥は眩しさに目を細めて呟いた。
「いいなぁ、この部屋。すごく眺めがいいんだね。由稀が出て行ったら、私がここ使おうかな」
「ああ」
 由稀は彼女の大人びた横顔を見て、唇を噛んだ。
「だってね、私の部屋って窓から何にも」
「どうして、お前も行くって言わなかった」
「え、何が」
 玲妥は由稀を見上げて、次の言葉を失った。由稀は見透かすように、静かに玲妥の奥を見つめる。玲妥は幼い顔に不釣合いな後悔を漂わせた。
「なんだ由稀ってば、私がいなくて寂しかったんでしょ。離れたくないんだね」
 玲妥は早口で続ける。
「でも、私はこっちにいたいんだ。なんかね、そんな気分なんだよ。久しぶりに帰ってきたからかな。だから」
「玲妥」
 由稀の呼びかけに玲妥は肩を震わせた。
「玲妥、俺の目を見て、同じこと言ってみろ」
 玲妥は黄金の光を受けて、頬をこわばらせた。
「瞬が好きにしろって言った意味がわかってないのか」
「そんなの知らない」
「俺はお前が手を挙げるのを待ってたのに」
「私、行きたいなんて一言も言ってない」
「玲妥」
 由稀は玲妥の腕を掴んで、強く引いた。彼女の大きな瞳には黄金の光が揺らめいていた。零れそうになるのを必死に堪える。
「勝手に私の心覗いて、勝手なこと言って」
「勝手だと。俺にはお前が苦しんでるようにしか見えない。そんな顔でこれをもらっても、俺は素直に喜べない。心配で仕方ない」
 かざされた羽根は風に揺られて踊った。沈黙を嫌うように、光は沈み、絞られていく。
「俺はそんなに頼りないか。解決してやるとは確かに言えない。でも痛みを共有してやることも出来ないのか。なぁ、教えてくれ玲妥。向こうで何があった」
 玲妥は俯いて黙り込んだ。由稀は仰々しくため息をついて、海へ視線を投げた。
「由稀は、どうして。どうして天水へ行くの」
「今の話に関係ないだろ」
「そうかな。そんなことないよ。だって、どうしてそんなに怖い顔するの」
 由稀は玲妥を振り返った。部屋に満ちる悦楽の嬌声とも末期の叫喚ともつかない、身を裂くほどの鮮やかな輝きが、玲妥の瞳に乗り移った。彼女は由稀を貫くように見つめていた。由稀は居丈高に睨み返すことしか出来なかった。
「お前が何も話したくないなら、それでいいよ」
「なによ、それ」
 玲妥は由稀の袖を引く。由稀は乱暴に振り払い、持ったままだった首飾りを突き返した。
「戻ってこられるか約束できないから」
 由稀の指から革紐がすり抜けていく。玲妥は首飾りを奪い取って、部屋の壁に投げつけた。由稀は突然のことに窓枠から降りた。
「おい、玲妥」
「私が欲しかったのは、そんなのじゃないもん。こんな由稀からの約束なんて、いらないもん。何もわかってないよ。わかった振りしないで」
 玲妥は押し殺した声で訴えると、由稀を一瞥することもなく部屋から立ち去った。残された由稀は判然としない衝動を持て余し、顔を歪めた。
「わかってほしいなら、わからせようとしろよ!」
 扉に向かって吠えるも、聞こえるのは寝息のような波音だけだった。窓を振り返ると、すっかり陽は落ち、世界が闇の平等に安らいでいた。由稀は壁にもたれてそのまま座り込んだ。