THE FATES

1.出立(6)

 視線の先には、夕景を押し固めた羽根が力を失い地に伏していた。由稀は闇を凝縮したような黒い瞳で、じっと玩具の翼を見つめていた。風は熱を脱ぎ去り、由稀を避けて吹き抜ける。行き場のない部屋の隅で、隙間を探しては新天地を求めて消えた。灯りのない部屋は壁を闇に濡らし、由稀を仮の安らぎへと導き始めていた。
 何も考えたくなかった。由稀は思考をとめて、ただ在るものとして存在したいと漠然と思った。本心や傷や夢や情愛などは、思考が生み出した麻薬のようなものに思えた。手にとって嘗め回すことが出来ないから、誰もがこぞって語り合い真理を求めようとする。摩擦で生じた苦しみに幻想を感じようとする。それは、各人の中にぼんやり灯る神のようだった。自分の中に自分を作り上げ、さらにそれを神という至高の存在へ押し上げる。なんという愚行か。ならば全てを葬るように、全ての思考を断ち切ればよい。何事も五感に感じられるものが全てであり、その先に匂うものなどは自らの願望に過ぎない。きっと誰もがそうあれば、衝突することはあっても、不必要な詮索やそこから吐き出される底の知れない傷などは、生まれることがない。
 天井に夜の明かりが広がる。ゆらゆらと水面を真似て揺れる。地に堕ちた翼が空へと鼻先を向ける。由稀は頭を抱えて呻き声を洩らした。
 塞ごうとして塞げるのなら、人々はとっくに思考の穴を塞いでいたことだろう。奏でられる音楽を、輝く空を、蕾の芳しさを、舌に沁みる甘酸っぱさを、吹き抜ける風の触りを、人は無視して生きていけないのと同様に、またそこから広がる思考の海も泳がずにはいられないのだ。
 玲妥の本心を考えた。触れようとすることで伝わるものがあるはずと、由稀は無心に思考を馳せた。
 玲妥の傷を考えた。他人が考えたところで癒しにならないとしても、由稀は想像の限りを巡らせた。
 玲妥の夢を考えた。共に育ってきた景色の中に、彼女の笑顔が散らばっていた。繋げる鍵が未来によぎった。
 玲妥の情愛を考えた。それこそが由稀自身の情愛にもなった。
 由稀は翼を拾い上げて、部屋を飛び出した。迸る感覚は汗になって肌から滲み出た。握りしめた首飾りが心に食い込んだ。由稀は道が続くままに玲妥を探して駆けた。
『みんなね、玲妥とお兄ちゃんは本物じゃないから、玲妥がお兄ちゃんのことをお兄ちゃんて呼んじゃいけないって言うの』
 風を裂き、時を越える。
『お兄ちゃんは、玲妥のお兄ちゃんだよね』
『もちろん。何があっても俺は玲妥のお兄ちゃんだよ』
 記憶の中の玲妥はいつも嘘のない瞳で由稀を見つめていた。お互い幼い頃は、どこへ行くにも一緒だった。誰よりも透明な心で誰よりも聡明な玲妥は、由稀の自慢の妹だった。
『本物じゃなくても同じなの』
『ああ、本物じゃなくても』
『じゃあね、もしも玲妥がお兄ちゃんのことをお兄ちゃんって呼ばなくても、お兄ちゃんは玲妥のお兄ちゃんだよね』
『お前、俺のこと兄ちゃんだなんて思ってないのか』
 すれ違ってしまうのは、悲しいほど深い思いやりからだった。気付かずに彼女を責めた幼い自分もまた、今の由稀には責められなかった。
『だって、玲妥がお兄ちゃんて呼ぶから、みんな変に思うんでしょ。玲妥が言われるのは平気。でもお兄ちゃんまで何か言われたら、玲妥は』
『答えろ。どっちだよ、ちゃんと言え』
 あの時玲妥をぶって、自分の腕に響いた痛みに驚いた。自分よりも小さな妹は、もっと痛いだろうと思うと、事の重大さに動転した。それでも玲妥は涙を堪えて言ったのだった。
『お兄ちゃんが悲しいと、玲妥も悲しいもん』
 由稀の肌に故郷の雪が降った。思わず立ち止まり、南国の湿った夜空を見上げる。瞬く星から、真っ白な雪が舞い降りるようだった。五感よりも確かなものがそこにはあった。
「俺も、悲しいよ」
 思う気持ちが惰性に揺らいで、時折甘えに引き込まれる。そこから引き揚げてくれるのは、いつも小さな玲妥だった。五感が捉えるものは器に過ぎない。兄と呼ばれなくなったことが、より一層由稀に兄の自覚を促した。
 由稀は玲妥の声を追って走った。感覚も思考もいらない。ただ互いを呼び合う無音の声に耳を澄ませばいい。由稀の爪先には一寸の迷いもなかった。青く染まる壁を抜けると、目の前には中庭が広がった。由稀はその奥に小さく震える光を見つけた。玲妥は長椅子の上で膝を抱えていた。
「玲妥!」
 呼び声に振り返った玲妥は、泣くことも笑うことも忘れていた。由稀は駆け寄って彼女を抱きしめた。
「ごめん。俺、自分のことでいっぱいになってた。玲妥のこと見てたつもりだけど、結局はお前を通して俺自身を見てたんだ。ごめん、本当にごめん」
 腕の中で玲妥は激しく首を振った。由稀の頬に玲妥の細くしなやかな髪が当たる。由稀は彼女の頭をやわらかく撫でた。
「俺のことを心配してくれたんだよな」
「だけど私が心配することは由稀には関係ないもん。私が勝手に由稀のこと思ってるだけ」
「そんなことないよ。ごめん。ひどいことした」
 由稀は腕を解いて玲妥の顔を覗き込んだ。少女は赤い唇を固く閉ざして、言葉の欠片を瞳に浮かべた。由稀は隣に腰かけて目を細めた。
「みんなには黙っててやるから、泣いてもいいよ」
 微笑んで、肩を寄せる。記憶の雪が二人の距離を縮めた。玲妥の大きな瞳から、堰を切ったように涙が零れた。
「だってひどいよ。まるで由稀を物みたいに考えてるじゃない。青竜と由稀のお父さんに何かあったとしても、由稀には関係ないことだし、久暉って人のことだって、まともな人ができるようなことじゃないよ。体と心がばらばらなんて、そんなの」
「うん、そうだな」
「青い髪のせいで由稀がどれだけ傷ついたのか、わかってないんだよ。今更黒くなったって、由稀が受けた傷はなくならないんだから」
 玲妥は両手で顔を覆って、体を曲げた。由稀は静かに玲妥の背中をさすった。まるで過去の自分を慰めている気持ちになった。
「玲妥は青い方がよかったか」
 由稀の問いに玲妥は首を振った。
「じゃあ、黒い方がいいか」
 先よりも大きく髪を揺らして少女は否定し、くぐもった声で何事かを言った。聞き取ろうと由稀も体を曲げて、玲妥に顔を近づけた。
「どっちも由稀だもん」
 由稀は満面に笑みを浮かべた。
「そうだよ。俺は俺だよ」
 その声はまるで南国の丘に吹く風のように、玲妥の中を走り抜けた。玲妥は顔をあげて、すぐ近くに由稀の黒い瞳を見つめた。たとえ色が違っても、そこにある光は同じ安らぎを湛えていた。玲妥は乱暴に顔を拭き、笑った。
「で、向こうで何があったんだ」
「何にもないよ」
 玲妥は風に遊ばれる服の裾を伸ばしながら、少しずつ由稀から離れた。
「そろそろ話してくれてもいいだろ」
 由稀は警戒する玲妥の腕を掴んで、意地悪く口を歪めた。子供の頃から由稀の強引さに辟易することは多かったが、玲妥はその度に兄の純粋さを感じてきた。観念して大きく息を吐き出すと、玲妥は髪を耳にかけた。
「相変わらずしつこいなぁ」
「そう言うなよ。俺はお前のことが心配でだな」
「もう、わかったよ。わかったからそんなに睨まないでよ」
 玲妥は横目に由稀を見た。闇に溶け込む黒髪は、廊下の灯りを受けて濡れる。俯きがちに小言を呟く兄を見て、玲妥は心を弾ませた。
「あのね、本当は精霊界に入れてもらえなかったんだ」
「え」
 由稀が振り向くと、玲妥は思いのほか和やかに目を伏せた。視線は表面のぼやけた石畳に泳ぐ。
「混じった血は、入れないんだって」
「じゃあ、昼間の話は」
「あれはね、結界越しに男の子が教えてくれたんだ。すごくきれいな目をしてね、楽しそうに話してくれた」
 そう話す玲妥の瞳は、記憶の少年を愛でるようだった。由稀は追及する言葉を呑み込んだ。
「私、悔しかった」
 玲妥は微笑みを絶やさず、静かに呟いた。風は足元を転がり、二人のそばを遠慮がちに過ぎていく。由稀は暗がりに染まる玲妥の頬を視線で撫でた。
「ただそれだけのことで弾かれるのも、中にいる子の幸せそうな顔も、ただどうすることもできなくて葉利に心配かけたことも。私には何もできないって、真正面から突きつけられて、悔しかった」
「悲しいんじゃなくてか」
「うん。悔しかった。だって、マスターとママのことを自慢したとしても、相手には負け惜しみにしか聞こえないでしょ。葉利だって、余計心配するだけ」
 声は震えていたが、泣いているようには見えなかった。由稀は頭の上で腕を組み、背を後ろに預けて体をそらした。
「ばか。気ぃ遣いすぎだ」
「だって、私たちにはマスターと」
「なぁ、玲妥。弓菜からはマスターたちのこと聞いたか」
 身を乗り出していた玲妥は、いつになく冷たい由稀の声に思わず手を引いた。
「どういうこと」
 不安げに眉を寄せる玲妥を見て、由稀は息を吐くように頬を緩めた。吐息と共に感傷が零れていく。由稀は自分の心が他人の物のように感じられた。
「二人は青竜と繋がってたんだ。俺たちは青竜たちの都合で生かされてきたんだよ」
 由稀は脚に肘をつき、組んだ両手に額を押し付けた。喉が渇き、剥がれ落ちそうだった。喉の奥にある感情も、指でつまめば崩れて粉々になりそうだ。由稀は玲妥を慮る余裕もなく押し黙った。
「それで由稀はマスターとママのことが嫌いになったの」
「これは好きとか嫌いとかいう問題じゃない。俺たちの感性とか存在とかそういうものが、育てられたんじゃなく作り上げられたものだっていう、すごく重大な問題だ」
 首を振り、肩を落とす。由稀は足元を歩く、小指の爪ほどの虫を見つめた。
「俺たちが自分の個性と思ってるものは、本当は存在しないんだよ」
 風が吹いて、由稀は衝動的に虫を踏み潰した。
「どうして玲妥までそういうことになったのか、俺にはわからないけど。少なくとも俺は久暉のために」
「なんだ。好きなんじゃない」
「え」
 思わぬ玲妥の言葉に、由稀は顔を上げた。玲妥は脚を抱えて、膝の上に顎を乗せる。大きな瞳が由稀を見上げた。
「由稀はマスターのこともママのことも大好きなんだよ。良かった。安心した」
「だからそういう次元の問題じゃないって」
「どうして。好きだから苦しいんでしょ。好きだからこそ、そうやって悪者にしようとするんでしょ。さっき由稀は育てられたんじゃなくて作り上げられたって言ってたけど、そんなの大した差じゃないと思うよ。だって二人に愛されてたことは、育てられた私たちが一番よく知ってるもの。今更何か言われたところで、その事実が変わることはないよ」
 玲妥は脚を抱え直す。衣擦れの音が、いやに大きく鼓膜に響いた。由稀には返す言葉がなかった。
「正直に話すとね、私も天水へ行きたいって思ったよ。だって、由稀と離れ離れは寂しいから。でもね、精霊界へ行ってから、すごくマスターとママに会いたくなっちゃったんだ。会いたくて、会いたくて、悲しくなるくらいに」
「玲妥、お前」
 由稀は沈んだ声で呟いた。想像していたよりも深い思いに、由稀は自分の奔放さが恥ずかしくなった。
 玲妥は爪先を上下させて遠い波音を泳いでいたが、辿り着く先のない思考を嫌い椅子から降り立った。
「どうしたらいいかなんて、誰にもわかんないよ」
 玲妥の小さな背中は、風を受けた帆のようにぴんと張っていた。
「ただ私は、可能性を見ていたいだけ。どんなに小さな可能性も無視したくないの。寂しさに縋るより、二人に会えることを信じていた方が救われるもの。だから残るって、そう決めたの」
 後ろで組んだ細い指が、白くなっていた。由稀は目を細めて、軽く息をついた。彼女の無茶な優しさに甘えようと決めた。
「玲妥」
 呼びかけに玲妥は振り返る。光が彼女の周囲を彩る。由稀は目の前に首飾りをかざした。
「これ、ありがとう。大事にする」
 玲妥は一瞬首を傾げたが、すぐに零れんばかりの笑顔で頷いた。
 羽根は二人の間で風車のように回り、しなやかに飛び立つ日を夢見ていた。

1章:出立・終