THE FATES

2.邂逅(2)

 久暉は崩れた家や道端、投げ出された武器などを手にしながらゆっくりと歩いていた。横に伸びる筋を覗くと、小さな黄色い花が敷き詰められていた。道の水溜りには黒く硬い虫が泳ぐ。必死に足を動かし、もがくように水際へ向かう。久暉は水の中に手を入れて、虫を掬いあげた。虫は鈍色の羽を広げて、森へと飛んでいった。風が服に潜り込む。久暉は再び歩き出した。
 道は真っ直ぐ砦の中心に向かっていた。延々続く煉瓦の山の向こうには、天を覆うように木々が茂っていた。砂漠での景色が幻のように青竜は思えた。
 青竜は立ち止まって、遠ざかっていく久暉の背中を見つめていた。汗が首筋を流れる。青竜は上着の留め具を一つ外した。暑さより息苦しさが先に立った。体が水を欲していた。一体どのくらいの間歩いているのか、見当もつかなかった。振り返っても瓦礫ばかりのずっと同じ景色だった。鉄扉のそばで見た戦車は、影も見えなかった。
 青竜は砦に触れた手を見つめた。境目が滲んだ自分の影が掌に落ちる。指を曲げると、骨が軋んだ。青竜は拳を握った。この場所には自分が生きていることを疑わせる力があった。共鳴と感じたものは錯覚で、本当は死への恐怖だったのかもしれない。そしてここは死後の世界かもしれなかった。
「慶栖」
 久暉の呼び声に青竜は顔を上げた。とっさに声が出ず、青竜は広場に佇む久暉を見遣った。久暉は薄灰の煉瓦で出来た塔の足元を見つめていた。彼の背中には一切の警戒感がない。青竜は己のふがいなさに自ら落胆した。たとえここが死後の世界だとしても、自分の責務は変わらない。託された久暉の背中をただ護り抜く。再びの失敗は許されなかった。
 青竜は気を引き締めて周囲に視線を配りながら、小走りで久暉に追いついた。近くで見る塔の壁には、至るところに銃弾の穴が開いていた。青竜は久暉のすぐ後ろに控えて、塔を仰いだ。塔の先端から空が生まれて広がっているように映った。
「見覚えがある。お前の言葉じゃないか」
 久暉に促され、青竜は足元の銅板に目を向けた。そこには文字が打ち込まれていた。青竜は表面に被った砂を払いのけた。
「これは、私の」
 一度全てに目を通して、読めることに驚いた。所々で傷みが見られたが、解読に支障はなかった。青竜は銅板を持ち上げようとしたが、瓦礫に挟まれ動かすことは出来なかった。
竜族(りゅうぞく)の言葉とほぼ同じです」
「やはりそうか。何と書いてある」
 久暉は塔の壁に手を伸ばした。氷のように冷たかった。
繋紲(けいせつ)の塔、光陰は千切れず土に眠り、朝日は絶えず塔に登る。二つの世界を繋ぎしこの地は、侵しがたき神の拠り所。我ら龍羅飛と」
 そこまで読んで青竜は口を閉ざした。
「どうした」
 久暉が銅板を覗き込む。青竜が指差した。
「ここから先は、もう読めません」
 続きは瓦礫の下に埋もれていた。
「まぁいい。とりあえずここが龍羅飛跡だということは確かになった」
 久暉は顔を上げて、塔を仰ぎ見た。青竜は立ち上がり、妙に嬉しそうな久暉に向き直った。
「久暉様、まだそこまで決め付けるのは早計かと」
「おかしなやつだな。最初に天水と言ったのはお前だろう」
 久暉は無邪気に笑い、瓦礫の山から下りていく。
「一つの可能性として申し上げたまでです」
 青竜は声を張って後を追った。背後から、崩れた石塊が転がり落ちてきた。
「決め付けても大丈夫だよ」
 若い男の明るい声がして、二人は振り返った。瓦礫の上に座る男を見て、青竜は小さな声を漏らした。
「あなたは」
「ここは龍羅飛跡だよ」
 象牙色のゆったりした衣服が風にはためく。少しくせのある黒髪が揺れた。
 青竜はランカースでのことを思い出していた。皆が悪鬼に怯え、どうする手立ても見つけられず立ち竦んでいた中で、唯一彼はにこやかに鬼使の暴走をとめると言った。
「覚えていてくれたんだね。ありがとう、青竜さん」
 男は麦色の瞳を細めて微笑んだ。
「空間移動の気配を感じたから、瞬が帰ってきたのかと来てみたんだ。まさか、また会えるとは思っていなかったよ。それも、こんな場所でね」
 男は青竜の背後に佇む空色の髪の少年を一瞥する。
「あのとき、由稀くんの中にいたのは君だね」
「誰だ」
 久暉は青竜より一歩前に進み出て、男を睨み上げた。触れれば切れるような久暉の殺気に、青竜は思わず体が凍った。しかし瓦礫の上で胡坐をかく男は、にこやかな笑みを崩さない。それどころか声を上げて笑った。
「ごめんね。そうだよね、気味が悪いよね。俺の名前は凍馬(とうま)。天水二大種族、蓮利朱(れんりしゅ)の出身だよ」
 凍馬は腰を上げて、羽があるようにふわりと下へ降りた。久暉の正面に立ち、手を差し出す。久暉には凍馬の存在が奇異なものに思えた。反射的に伸ばしかけた手が本能的に止まった。穏やかな凍馬の微笑みに、天水の空のように澱んだ雲がよぎる。
「興味深いね。一体どんな治癒法を使ってもらったんだい」
 瞳の底には闇より黒い塊が見えた。青竜は戦慄を覚えて、久暉の肘を掴んで強く引いた。久暉は息を呑んで振り返る。お互い、言葉は出なかった。
「瞬も強引なことをしたね」
 凍馬は失笑して、差し出していた手を何事もなかったように下ろした。垣間見えた物恐ろしさはもうない。青竜は渇いた喉に唾を押し込んだ。
「鬼使の意図がわかるのですか」
「付き合いが長いし、まぁ大体はね。ああ見えて単純な男だから。そりゃ、あれから何があったのかがわかれば、もっと確実な話が出来るとは思うけど」
「それは取引、ということですか」
 青竜は噛むように唇を舐めて言った。
「そんなに堅苦しいことを言ってるわけじゃないよ」
 凍馬に動揺するような様子はなかった。青竜は黙って凍馬の顔を見返した。
「信用ないのかな」
 目尻を下げて凍馬は髭のない顎をさすった。この場所は埃に混じって鉄の匂いがした。打ち捨てられた戦車からか、捻じ曲げられた生活用品からか、浴びるほど血を吸い込んだ土そのものからか。そのどれもが混ざり合い、また反撥しているような匂いであった。凍馬は青竜と久暉の向こうに見える薄灰色の空を眺めた。その景色の中に、大昔に見上げていた青空が割り込んだ。
「信用など必要ない。ただ、取引にしては条件が釣り合わないだけだ」
 小柄な久暉は目線を上げて凍馬を見据えた。凍馬は目を丸くして向き合った。五感は研ぎ澄まされ、青竜の耳には滴るしずくの弾ける音までが届く。青竜には介入できない緊張が二人を取り巻いていた。
 凍馬は頬を綻ばせて風上を見遣った。鉄の匂いが濃い。視線の先には鎮守の森があった。黒髪は風を孕んで膨らんだ。
「何にせよ、瞬に見つかるのは好ましくないんだよね。だったら、匿ってあげるよ」
「え」
 驚きの声を上げたのは青竜だった。久暉は表情を崩さずに凍馬の言葉を待った。
「天水はほとんどが瞬の監視下みたいなものだから。君たちが不用意に街を歩けばすぐにも見つかるよ」
「そこまでする利がお前にあるのか」
「じゃなきゃ、こんな提案はしないよ」
 凍馬は軽く首を傾げて朗笑した。青竜には凍馬の朗らかさこそがすでに畏怖の対象となっていた。けれど久暉の背中に臆するところは見受けられなかった。
「わかった。話に乗ろう」
「久暉様、彼は鬼使の友人ですよ。相手の懐に自ら飛び込むようなものです」
「いいか、慶栖。余すところなく、全てを話せ。これは俺の命令だ」
 久暉は青竜を振り返り、目線にある胸に拳を押し付けた。上目遣いに見上げてくる久暉の空色は、思わず縋りたくなるほど大らかで頼もしかった。青竜の心はたちまち畏まった。
「そこまで律儀にしてくれなくてもいいんだよ。俺は全部なんて強要するつもりはないから」
「対等にさせないつもりか」
「そんなんじゃないよ」
 凍馬は顔の前で大仰に手を振った。久暉は頬に笑い皺を刻む。
「久暉だ」
 そう言って久暉は凍馬に手を差し出した。凍馬は口を曲げて笑い、久暉の手を握った。
 森から木々のざわめきが響く。青竜は外していた上着の留め具をはめ直した。