THE FATES

2.邂逅(3)

 背後からの潮風に、長い髪が吹き流される。羅依(らい)は神殿から望む街をその目に焼き付けようと強く見つめた。広く青い空の下、街は朝市で賑わっていた。
 羅依は移動法の光輪を振り返った。先に中に入った由稀を追って、真小太(まこた)が駆けていった。俄かに膝が震えた。母を亡くしたときから、ずっと一人で各地を渡り歩いた。それでも同じ惑星(ほし)の上だった。不安も恐怖も全て自分の力で押しのけることが出来た。しかしここから先は、文化も言葉も時の流れまでも違った世界になる。自ら志願したこととはいえ、足が竦んだ。果たしてどこまで自分が通用するのか。どんなに客観的に自分を見ようとしても、羅依には全てが過信のような気がしてならなかった。
「羅依」
 風に冷えた手指が、羅依の腕に吸い付いた。玲妥(れいだ)が体を寄せて微笑んだ。羅依ははにかんで玲妥の頭を撫でた。
「ありがとう」
 羅依は玲妥の不安を自分の力に変える。顔を上げて、黄色い光に足を踏み入れた。
 肌に触れた光の端には質量があり、綿のようにやわらかかった。瞬の背を見上げる。羅依は覚悟を腹に据えた。壁は次第に厚みを増し、不透明になっていく。由稀の声が聞こえた気がしたが、ひどい耳鳴りに掻き消された。
 体を引き絞られるような感覚が、羅依の全身を巡った。痛みはないが、妙な吐き気が胸をざわつかせた。真小太の存在を感じ取る余裕もなくなる。目を固くつぶり、手で耳を押さえ、息をとめる。砂のこぼれるような不快な音が耳の底に沈んだ。瞼の向こうは幕が下りるように暗くなった。
「もう、ついたのか」
 訝しげな由稀の声に、羅依は目をしばたかせた。けれど、目を開けているのかどうかもわからないほどの暗闇だった。
 足元に温もりがじんわりと広がる。少し速い脈を感じた。羅依は屈みこんで足元にいる真小太の横腹を撫でた。真小太は羅依にすり寄ったまま、立ち上がった。次第にぼんやりと物の輪郭が浮かんだ。
「すぐに明りをつける」
 瞬がそう言って靴音を響かせた。肌に触れるかすかな風もわかるほど、神経は研ぎ澄まされていた。室内だと羅依は思った。耳をそばだてても、外の様子は窺えない。
「なぁ、何かわかるか」
 前方から由稀の声がした。羅依は首を振ったが、これでは伝わらないと思い直し、軽く息を吸い込んだ。
「全然」
「そうか。暗いと、待つのが長いな」
 由稀はため息混じりに言った。
 聞き慣れた火付けの音が鳴る。金属のぶつかり合うこの音が、羅依はあまり好きではなかったが、今は彼の声がしたようで安心した。少し先に煙草の小さな明りが脈打っていた。
 瞬は壁に埋め込まれた硝子板に手を滑らせた。表面は青く発光し、瞬の整った横顔が映える。海の底にいるようだった。羅依は海の中の息苦しさを思い出した。
 瞬の後方から俄かに暖色の明りが灯る。奥行きが羅依の不安をさらう。真小太が激しく吠えた。
「大丈夫」
 羅依は真小太の体を上から抱え込み、押さえつけた。一回り二回り大きくなった真小太は、羅依の腕力では抱き上げられないほどになっていた。真小太は喉を鳴らし、しきりに警戒する。
 明りは次々と芽吹き、その周辺から部屋の様子があらわになっていく。神殿とよく似た白い石造りの床は、ほのかに光を放っていた。
 由稀はその場でゆっくり回り、感嘆の声を漏らしていた。その視線が羅依の背後で立ち止まる。羅依は由稀の視線を追って振り返る。斜め後ろには(こう)がうずくまっていた。鏡を使ったためか、息が上がっている。羅依はすぐに由稀を振り仰いだ。由稀は今にも駆け出しそうだったが、深い息を吐いて視線を逸らした。
「由稀」
 羅依には紅を元気付けるすべがない。由稀にも見捨てられたら、誰が紅を励ますのか。呼び声に振り返った由稀は、力のない優しい笑みを浮かべた。羅依に由稀の真意は汲みきれなかった。ただ、彼らを信じるしかなかった。
 赤味のある優しい光は、部屋の四隅から天井を濡らすように揺らめいていた。
「ここは」
 由稀は目の前に現れた布張りの長椅子を撫でながら、瞬に尋ねた。瞬は返答することなく、ぼんやり光る硝子板に向き合っている。羅依が問いを重ねようとしたとき、頭上で虫の羽音が聞こえた。とっさに顔を上げる。天井では、木目の刻まれた流線型の送風扇が動いていた。四枚の樹木の羽根がゆっくりと回る。羅依は見たことのない優雅な動きに口を開けて見とれた。
「何か飲むだろう。すぐに用意する」
「いや、ちょっと。ここは一体」
 由稀は瞬を追いかけようとして、長椅子に足を取られた。前のめりになって、椅子の背もたれに突っ伏す。羅依は由稀を指差して吹き出した。由稀に睨みつけられ、羅依はそっぽを向く。真小太もそれに倣った。
「お前らっ」
 由稀は間抜けな声を上げて、上体を起こす。視界の隅で、瞬は下を向いて忍び笑いをしていた。
「瞬まで」
「緊張感がなくて結構なことだな」
 瞬は手をひらひら振ると、横に続く部屋へと消えた。すぐに色も形も不揃いな器を持って戻ってくる。
「適当に座れ。羅依、真小太は」
「今はいらないみたいだ。それより瞬、ここは」
 羅依は床に座り込んで真小太の背を撫でる。
「俺の家だ」
 瞬は脚の短い卓の上へ器を置くと、くわえていた煙草を手に持って再び隣の部屋へ入っていった。
「へぇ」
 そう呟いて、羅依は黙り込んだ。由稀は長椅子の背もたれに顎を乗せて、横目に羅依を見遣る。
「少しは嬉しそうにしろよ」
 由稀は薄笑いを浮かべて言った。羅依は冷ややかな視線を由稀に向け、真小太の背中を軽く叩いた。
「懲らしめてやりな」
 大砲のように真小太が由稀へ飛びかかる。由稀は楽しげな悲鳴を上げた。
「むきになるなよっ」
 由稀は長椅子に倒れ込み、見下ろしてくる真小太の首に腕を回した。真小太は尾を振り、期待の眼差しで由稀をまっすぐ見つめる。由稀は両手で真小太の顔を挟み、激しくさすった。真小太は甲高い声で短く鳴いて、由稀の手を何度も甘噛みする。鋭いはずの牙がしなやかにも感じられた。
「真小太、手加減するなよ」
 羅依は由稀と真小太のじゃれ合いに、目元を細めて笑った。胸の底に、認めるのが恐ろしくなるほどの高揚感がある。自分の中からこんなにも大きな気持ちが生まれるものかと、妙に不思議な感覚でもあった。体の中が無限大の宇宙に繋がっているようだった。大きすぎて、現実感が失われていく。自分の笑い声までも遠かった。
 確かなものを求めて、羅依は真小太の尾に手を伸ばす。それを遮るように、背後から激しく咳き込む声がした。振り返ると、紅がうずくまって小さく丸くなっていた。
「大丈夫か」
 真小太へ伸ばしていた手を、紅の背中に回す。何度かさすると、咳は止まった。
「水か何かねぇか」
 紅の声はひどく掠れていた。
「ああ、今ちょうど瞬が用意してくれてるよ」
「そんな毒入り飲めるかよ。頼むわ、羅依」
 紅はそう言い残して、力尽きたように仰向けに寝転がった。その姿を見て、羅依は自分の心が強い緊張に縛られていたと悟った。それは恐怖にも似た緊張だった。
 部屋の中には、芳醇な茶の香りが満ちていた。

 瞬が自分の家だと言った部屋は、一人で暮らすには少し広かった。壁や床は白を基調とし、長椅子や卓や送風扇などの家具は、生成りや樹皮の自然色を用いていた。
 その中で、中二階への梯子に使われている深みのある赤が目を引いた。梯子を登った先には大人二人がゆったり寝られる空間がある。床は他と違って板張りだった。直に触れると、心なしか温かかった。
 寝そべると、ちょうど目線の高さに、この部屋でただ一つの窓があった。紅はそこから外を覗いて、顔をしかめた。
絆景(ばんけい)かよ」
「街の名か」
「そう。ここでたった一つの色街だよ」
 紅は羅依にそう返して、窓から離れた。気分が未だすぐれないのか、横になって目を閉じる。羅依はしばらく紅の寝顔を見つめていたが、短く嘆息して、真小太とともに窓の外へ視線を戻した。
 街並みは雑然としていて、色街にあるような艶っぽさは欠片もなかった。建物はどれも煤けた濃い灰色をしており、空までもがその粉をばら撒いたように薄灰色だった。三筋向こうになると、白く霞んで何も見えなかった。屋上には景色から取り残された極彩色の看板が、冷たい眼差しで佇んでいる。正面に見える建物には、窓が一つも見当たらなかった。覗き込んだ真下の細い路地に人の姿はなく、羅依には街が生きているのか死んでいるのかわからなかった。
 思えば羅依は、天水(てんすい)がどのような所か聞いたことはなかった。だが彼女の心には確かな落胆があった。知らぬ間に、天水に理想を見ていた。突き抜けた青空、活気ある街、そして機械文化がもたらす快適な生活。国王であった茜の清廉さが、羅依にそのような先入観を持たせたのかもしれなかった。
 真小太が羅依の首筋に鼻先を埋めてすり寄った。羅依は小さく微笑んだ。
「ごめんね」
 呟いてから、礼を言うべきだったと後悔した。顎を撫でてやると、真小太は軽く目を伏せて横臥した。羅依はうつ伏せのまま肘で体を支え、階下へ顔を向けた。部屋の中にだけ、羅依の描いた天水があった。