THE FATES

2.邂逅(4)

 由稀は淡く光を放つ青い硝子板に魅入っていた。覗き込むと鏡のように自分の姿が映りこむ。一瞬、まだ髪も瞳も青かった頃の自分を思い出した。表面には白く文字が浮き上がり、点滅したり文字自体が変化したりしていた。
「これで動いてるのか。てことは機械か」
「機械のような、そうでないような」
 瞬は長椅子に腰掛けて煙草を吹かした。由稀は振り返って瞬の背中を睨みつける。
「馬鹿にしてんのかよ」
「わけのわからないことを言うな。面倒くさい。この部屋は確かにそいつで管理してるが、厳密には機械じゃないんだ」
 そう言って瞬は指を鳴らした。由稀は眉根を寄せて、首を傾げた。瞬が背もたれに腕を置いて振り返る。
「見てみろよ、後ろ」
 由稀は瞬が指し示すままに壁を見た。そこに青い硝子板の姿はなかった。
「ちょっと、待てよ。今の今まであったじゃねぇか」
 由稀は壁に両手をついて、鼻先がこすれるほどに近付いた。しかし硝子板があった形跡はどこにも見られなかった。継ぎ目のない白い壁が素知らぬ顔で由稀の前に立ち塞がっていた。背後で瞬が笑う。由稀は肩越しに振り返って、半眼で瞬を見つめた。
 瞬は紫煙を吐いて、深緑の瞳を子供のように輝かせた。
「お前はいちいち面白いな。見ていて本当に飽きない」
「からくりを教えやがれ」
「簡単なことだ。それは俺の意思を形にしたものなんだよ」
 瞬は煙草を消して立ち上がり、由稀の横に並んだ。華奢な体に似合わない大きな手が、壁をなぞる。白い壁から俄かに光が浮き、硝子板が顔を出した。
「すげぇ」
「俺の考えたことや思ったことを、この中に記憶させて代わりに管理させているんだ。そうすれば俺は細かなことを考えず、こいつを動かす気波動さえ送っていれば済む」
「だったら瞬にしか動かせないのか」
「いや、俺が権限を与えればお前にも使える。ただ、こっちの言葉を使ってるから、画面を見にくいかと思うが」
「権限、画面。へえぇ」
 由稀は瞬を真似て画面に触れるが、白い文字は何の反応も起こさなかった。
「そうだな、しばらくこっちにいるんだから、お前と羅依のことは登録しないと俺が面倒だ」
「頼むよ。使い方は自分で見つけるから」
 そう言って由稀は画面に伸ばしかけた手をとめた。頭の中で瞬の言葉を繰り返す。
「俺と羅依、だけか」
 由稀は恐る恐る顔を上げて、瞬の横顔を見つめた。喉の奥に冷たい緊張が広がる。しかし瞬の顔色は何事もなかったように平然としていた。由稀は言葉を繋ごうと何度も口を開けるが、すぐそこにある恐怖に二の足を踏んだ。
 瞬が画面に手を伸ばし、指先で触れる。白い文字は星のように瞬いた。
 由稀はためらいを飲み込み、瞬の腕を掴んだ。
「紅は」
 声は張り詰めて細くなった。送風扇の動くかすかな音が耳についた。
「帰る場所があるやつを住まわす気はない」
 言葉は由稀の横をすり抜けて投げられた。瞬は振り払うことなく由稀の腕を解いた。
 由稀は言葉を追って、紅のいる中二階を見上げた。しかし階下から彼の姿は見えなかった。代わりに上で紅を見つめているであろう羅依の姿を確認できた。紅の様子を読み取ろうと、羅依の表情を窺う。由稀の視線に気付いた羅依が、階下に目を遣って唇を噛んだ。
「聞こえているなら返事くらいしたらどうだ」
 瞬は長椅子の背もたれに軽く腰をかけた。火付けの蓋を開け閉めしながら、微笑を浮かべる。薄い硝子の器を指で弾くような、透明度の高い音が繰り返される。由稀は彼の意図を測りかねて、苛立ちを覚えた。
「別にいいじゃねぇか。狭いわけじゃないんだし、俺だって紅と一緒の方が楽しいしさ。な、そうだろ羅依」
 由稀は顔を上げた。目に力を込めて羅依を見つめる。
「そ、そうだよ。人数は多い方がいいって」
 羅依は由稀の考えを汲み、慌てて紅の足を揺すった。しかし紅は宙の一点を睨みつけたまま微動だにしなかった。真小太がか細い声で鳴いた。
 瞬は煙草に火をつけて、ため息のように煙を吐いた。
「いつまで人に甘える気だ。由稀に護られ、羅依に庇われ、そうやっていつまでも過ごせると思ってるのか。確かに天水へ帰ることは俺が頼んだ。だがそれを受けた以上、お前の意思が一つも入っていなかったとは言わせない。これから先、どうするつもりか考えろ。今ならまだ喬宮(たかみや)央宮(なかみや)も健在のはずだ。陣矢(じんや)だってな。あいつらならお前を快く迎えるだろう。城へ帰れ」
 天井へ立ち昇る煙は光を受けて色を得る。明け方、淡い紫に染まる雲を小さく千切って撒いたような色と質感を伴っていた。微風に揺られて、たちどころに消える。
 梯子の軋む音がこぼれた。紅は確かな足取りで階下へ降りる。首筋には倦怠感が漂い、青年らしい精気は全く感じられない。幽鬼のように振り返った紅からは、人としてあるべき表情が欠落していた。虚ろに瞬の背中を見つめる。
「紅」
 二人の間に入ろうと由稀は足を踏み出した。しかし紅の迸る激情に気付き、立ち尽くした。表情がないように見えたのは、無尽蔵に溢れ出す感情を、紅の本能が反射的に覆い隠したからだった。だが粘り気を帯びながら隙間を見つけて情動は滲む。鮮やかな新緑の瞳に影が差した。
「どこまで身勝手なんだ」
 紅は腹の底から声を絞り出す。歯の間から熱のこもった息が漏れる。
「邪魔になれば、人生だろうと人格だろうと命だろうと、簡単に踏みにじるのか」
 親譲りの端正な顔に苦味が走る。派手やかな髪が震えた。
「お前はそうやって茜を見殺しにしたのか」
 拳を握って、理性を保つ。紅の全身が弾けそうな衝動に打ち震えていた。
 瞬の手元から、燃されて生まれた灰が落ちる。白い床に盛られた灰は、脆く風化した骨のようだった。瞬の整った横顔から、すでに微笑みは消えている。怒りも苦しみも憂いも喘ぎも悔いも、芽生えうる痛み全てが内に向かっていた。飲み込んで、飲み込んで、瞬は懸命に未来と向き合おうとしていた。由稀はそれを目にして、瞬の思考に追いついた。途端に由稀の目に瞬が哀しく映った。
「言い過ぎだ、紅。お前はあのときの瞬を」
 そこまで言ったとき、瞬がゆらりと立ち上がった。瞬は体を曲げて、低い卓の上にある灰皿へ煙草を押し付けた。部屋の中に満ちていたはずの芳しい茶の香りは、すでに枯れ果てていた。
 瞬は髪をかきあげて壁の方へ歩く。向かう壁には細い溝が彫られていた。溝は硝子板と同じ海色だ。ちょうど人が通れるほどの四角い囲みを作っていた。真ん中には金属の部品が取り付けられ、部屋の明りを受けて白く反射していた。瞬はその銀色に触れる。壁は溝に沿って音もなく左右に開いた。外は暗く、窓から覗く景色とは異なっていた。ぼんやりと黒みがかった煉瓦の影が見えた。
 壁に手をついて、瞬は顎で外を指す。
「ほら」
 瞬は寸分も紅から視線を逸らさず、じっと目を据えた。紅は完全に射すくめられて俯いた。瞬の恐ろしさを知る由稀には、真剣さが肌を斬るように伝わった。
 由稀は確信を抱いて沈黙を守る。中二階から羅依が下りようとするが、由稀は目でそれを制した。目顔でなぜと問う彼女に、由稀は首を振った。
「人格だ人生だと喚く前に、自分で人生決めてみろ。由稀は軽い気持ちで青竜を追ってない。そこに首を突っ込むってことを考えて来い。今のお前はただの荷物だ。鏡を持ってるとしてもな」
 瞬は壁を指で叩く。それは紅を急かしているようであったが、由稀には瞬自身を慰めているように見えた。
「うるせぇ」
「何だ。小さくて聞こえないな」
「うるせぇって言ったんだよ」
 紅は俯いたまま、声を荒げた。大股で扉まで向かう。その背中は幼い子供のように泣き叫んでいた。瞬の横で立ち止まる。
「由稀が帰るとき、どうすんだよ」
「そんなのはお前の心配するところじゃない。奢るな」
 瞬の深緑の瞳は、氷が張ったように冷たく鋭かった。紅はおもむろに瞬を見上げて小さく首を振った。
「てめぇと同じ血が流れてると思うと、ぞっとするよ」
 瞬の頬が色を失う。紅は暗い世界に消えた。扉が二人を隔てた。瞬は力尽きたように額を壁に押し付けた。
「由稀」
 呼ぶ声に先ほどまでの勢いはなかった。由稀は苦笑して腕を組んだ。
「わかってるよ。追えばいいんだろう」
「悪いな」
「悪すぎる。甘えてるのはどっちだよ。もしも俺が気付かなかったら、本気で収拾ついてないからな。恩に着せるぞ」
 急激な喉の渇きに襲われ、由稀は器に残っていた茶を一気に飲み干した。羅依が梯子を下りる。
「一体どういうことだよ。悠長に茶なんか飲んでる場合じゃないだろ」
 羅依は由稀の腕を引き、口早に言った。由稀は最後の一滴まで惜しみ、器を傾けたまま横目に羅依を見て笑った。
「単純な紅くんは、瞬の挑発に乗ってしまわれたのだよ」
「挑発って、なんの」
「そりゃお前、あいつが無自覚のまま流されないようにだな、学校での研究のこととかをもう一度考えさせてだな、てか、話聞いてたんだろ」
「聞いてたけど」
「そういうことだよ。なぁ、お前のも貰っていいか」
「あ、ああ」
 羅依の返事を受けて、由稀は横にあった器をも呷って飲んだ。張り詰めて凝り固まっていた体が、ようやくほぐれた。
「よし、じゃあ行きますか」
「あたしも行く」
 羅依は由稀から手を離さない。見上げてくる目には助けを乞うような色があった。由稀は勘を働かせて、瞬を振り返る。小さな紙に筆を走らせていた。
「大丈夫だって」
 由稀は羅依の肩に手を置き、あっさり微笑んだ。羅依は必死に首を振るが、一笑に付されて終わった。由稀は彼女の肩を叩き、背を向ける。
「どうすればいい」
 瞬に歩み寄り、手の中を覗き込む。青い硝子板に白く浮かんでいた文字が並んでいた。天水の言葉だ。
「俺も行くところがある。ここで落ち合おう」
 瞬は小さな紙を由稀に渡した。由稀は目線に掲げて口を曲げた。
「読めねぇじゃん」
「読めるやつに読ませろ」
 そう言って、瞬は扉の銀色に手を伸ばした。由稀は慌てて瞬の腕を掴む。
「俺にやらせて」
 由稀は手にかいた汗を服で強くこすって拭い、震える指先を銀色に近づけた。わずかに触れたその瞬間、扉は滑るようにして開いた。
「おぉ!」
 思わず声を上げると、驚いたのか真小太が続いて吠えた。由稀は瞬に向かって快活に微笑んだ。
「んじゃ、またあとで」
「ああ」
 瞬の返事を聞くや否や、由稀は暗い外へと飛び出した。扉はそれを待っていたようにすぐに閉じられた。
 瞬は深く息を吐くと、立ち尽くす羅依の横をすり抜けて、中二階の下にある部屋へ入った。背後で扉の閉まる音を聞いて、羅依はようやく我に返った。瞬の消えた扉を見つめる。足元に真小太が寄ってきて、羅依をじっと見上げていた。
「お前、いつから由稀とグルになったんだよ」
 指先で真小太の耳を軽く弾く。真小太は尾を振って歩き、長椅子の裏へと隠れてしまった。覗き込むと床に横たわり丸くなっていた。どうせ狸寝入りだろうと、羅依はしゃがみ込んで真小太の腹をつつく。
「あまりいじめてやるなよ」
 上から降ってきた声に驚いて、羅依は勢いよく立ち上がり振り返った。瞬は上着を肩にかけ、手には遮光眼鏡を持っていた。羅依は激しく首を振った。
「ち、違う。そんなんじゃない」
「どうする。真小太と留守番するか」
「え」
「お前が真小太といたいなら、それでも構わない。ただ、飯が遅くなるが」
 瞬は卓の上に放り出されていた煙草と火付けを上着に入れた。真小太を踏まないように乗り越えて硝子板の前に立ち、画面を操作しながら問う。
「残るなら、使い方くらい説明しようか」
「なぁ、瞬はどっちがいい」
「は」
 瞬は口を開けて羅依を振り返った。羅依は自分の発言に驚いて、慌てて言葉を重ねた。
「いや、違うんだ。もしもあたしに役に立てることがあったら、いくらでも協力するよってことでさ。何かと人数が必要になることもあるかもしれないからな、ほら、そういうことだよ」
「はぁ。あまりそういう事態は考えられないんだがな」
「そ、そうか」
 羅依は小さく呟いて俯いた。瞬は羅依のしなやかな髪を見つめて、腕を組んだ。
「窓から眺めてるだけじゃ、つまらないだろう」
「え」
 羅依は言葉の続きにつられて顔を上げた。瞬が口元だけで笑った。
「城へ行くから真小太はつれていけないが、それでもいいな」
「う、うん!」
 力強く頷く羅依を見て、瞬はすぐに遮光眼鏡をかけた。目元が隠れるだけで、彼の表情全てが覆い隠されたようだった。それでもなんとか読み取ろうと、羅依は硝子板に向かう瞬の背中を見つめたが、確からしいものは何も得られなかった。
「行こうか」
 瞬は上着に腕を通し、髪を軽くかきあげた。薄茶色の髪が指の隙間からこぼれ、眼鏡の縁にかかる。
 羅依は胸に広がる妙な痛みを、出来合いの期待にすりかえた。
「真小太、留守番よろしくな」
 規則的に上下する真小太の腹を軽く撫でて、羅依は小さく呟いた。鼻先を持ち上げたようだったが、真小太はすぐに寝入った。羅依は部屋を出て行く瞬を追って、小走りで扉へ向かう。音もなく扉は閉まった。
 二人の姿が部屋から消えると、真小太はすっと立ち上がって、大きく背を伸ばした。