THE FATES

2.邂逅(5)

 扉が閉まる気配を背中で感じながら、由稀は黒い煉瓦に囲まれた通路を進んだ。数歩先の左手が、明るみに包まれている。由稀は光の射す方へ爪先を向ける。そこはもう、屋外だった。光が弱々しいので、特に眩しいと感じることはなかった。吹き抜ける風の強さが心地よかった。アミティスと違う世界だとは言っても、光や音や匂いで変わるところはなかった。しかし由稀は別の違和感に耐えられず、思わず声を上げて振り返った。
「えぇっ」
 背後に聳える建物を口が開くほど見上げる。灰色の壁には窓が見えず、一階には黄泉への道のごとく暗い入り口があった。由稀は建物の中ほどの高さを睨み、首を傾げた。
「下った感触ねぇんだけどなぁ」
 部屋の窓から見えた世界と煉瓦通路の勾配に、由稀は繋がりを見出すことが出来なかった。
「ま、いっか」
 由稀は呟いて、辺りを見渡した。道は左右に真っ直ぐ伸びている。人影は全くない。正面の建物の横には、細い路地が窺えた。由稀はそちらへ足を向けた。見上げた空は薄灰色に霞んでいた。
 両脇に立つ建物が高いので、狭い路地には光が届かず薄暗かった。由稀は路地の奥を覗き込んで、呆れ果てた。派手やかな橙色の髪は、少ない光の中でもはっきりと見えた。座り込み、俯いているようだった。由稀は足音を立てないようにして、そっと近付く。手を伸ばせば触れられる位置まで来て、由稀は悪戯をする子どものように笑った。大きく足を踏み出し、投げ出された紅の脚の上に躊躇なく下ろす。由稀のごつごつとした革靴が無防備な脚を踏みつける。
「ひっ」
 紅は突然のことに悲鳴を上げた。とっさに脚を抱え込み、自分の前を横切っていった友人を睨みつける。
「由稀、てめぇ」
「あぁ、これは紅くんじゃないですか。じっとしたままうじうじと動かないから、置き物かと思ってた。悪い悪い」
 由稀は歯切れよく言って、快活に笑った。そうして紅からの反撃を待ったが、むしろ紅は小さくなって頭を抱え込んだ。由稀は苛立ちを押し込めるようなため息を吐き出し、紅のそばにしゃがみ込んだ。
「何してんの、お前」
「関係ないだろ。そっちこそ言葉も通じねぇのに、なんで一人で出てきてんだよ」
「一人じゃねぇし」
「はぁ?」
 紅は腕の中から顔を上げて眉をひそめた。由稀の来た方を見て、鼻を鳴らす。
「誰もいないじゃねぇか」
「お前がいるだろ」
 由稀の言葉に紅は目を丸くして振り返った。
「そういうこと言ってるんじゃなくてだなぁ」
「紅がいれば俺が喋る必要なんかないだろ。全然大丈夫。問題ねぇよ」
 由稀は目を細めて屈託なく笑う。紅は脚を抱える腕に顎を乗せて、小さく首を振った。
「お前んとこは、玲妥ちゃんといい、ほんと強引だよな」
「愛だよ、愛」
「はぁ? 玲妥ちゃんの分だけ歓迎」
 紅は立ち上がり、服についた埃を手で払った。さらに由稀の頭の上で埃っぽい手を叩く。由稀は逃げるように体を引いて立ち上がった。
「ばか、埃だらけになるだろうが」
「狙ってんだよ、ばか」
 そう言って紅は口を歪めて笑った。由稀はそれを見て、静かに微笑んだ。
「なぁ、天水案内してくれよ」
「どこも大したことないぞ」
「いいよ、市場とか学校とか、そんなところで」
 由稀が声を弾ませる。紅は無愛想に相槌を打って、通りを見た。窓から覗いた時には一面に靄が広がっていた場所だ。今ではもう前が透けて見えていた。
「朝か」
 紅は小さく呟いて、そちらへ歩き出した。由稀には紅の声が心なしか嬉しそうに聞こえた。

 路地から見えていた通りもまた人気がなく、閑散としていた。しかし裏の通りとは違って、そこにはたくさんの色が溢れていた。看板や外壁などに、店ごとの様々な絵や文字が並んでいた。道の端には破れた雑誌が、風に急かされるように回転しながら飛ばされていた。
「天水って、人が少ないんだな」
 由稀は通りの真ん中に立って、辺りを見遣った。よれた紙の、地面を転がる音だけが響く。
「ここは、この時間はな」
 紅は立ち止まらず由稀の横を通り越していく。由稀は慌てて紅を追って、さきほどよりも少し幅のある路地に入った。大人三人は並んで歩ける。靄はすでに掻き消えていた。
「一応、色街だからな」
「なるほど。でも極端だな」
「人目がないわけじゃねぇけど、俺たちみたいなのが歩いてても相手にされねぇよ」
 路地も中ほどまでなると、向こうの通りから人の声が届いた。さらに細い路地が直角に交わり、脇に立つ建物は一変した。由稀は壁に触れた。
「煉瓦だ」
「そのくらいあるに決まってるだろ」
「でもほら、さっきは」
「ああ、絆景だけは違うんだ。理由は俺も知らねぇよ」
 紅は今来た道を指した。
「へぇ、絆景っていうのか。きれいな名前だなぁ」
「そうか」
 路地は黒く塗りつぶされたように暗い。端には木箱や樽が積み上げられている。由稀は上を見上げた。光が増していた。しかし晴れたのは靄だけで、空は今も灰色の雲に閉ざされていた。雲に漉された光が地上に舞う。由稀は先に行く紅の背中を見た。輪郭が光の侵入で曖昧になる。部屋を出たときには、もっと率直な話をしようと思っていた。しかし彼の顔を見ると、どうしても瞬の名前は出せなかった。どうすることが紅のためになるのか、由稀にはわからなくなっていた。
 煉瓦に置いた手を軽く握る。爪がこすれて音を立てた。由稀は紅のあとに続いて歩いた。足元に光が舞い込む。紅は突然立ち止まり、前触れなく振り返った。由稀はのけぞるようになって立ち止まった。
「急に止まるなよ」
「やばい。やばいって」
 紅は光の届かない場所まで戻り、顔を押さえた。
「なんだよ、どうしたんだよ」
 苛立ちを抑えて由稀は問うた。紅はおもむろに顔を上げる。元々下がり気味の目尻が、眉とともに一層下がっていた。
「眼鏡がねえ」
「は」
「この目を晒して歩けねぇんだよ」
 そこまで言われて由稀はようやく、ああと声を上げた。
「見られたら」
「たぶん、役所に連れていかれる」
 紅は壁に背を預け、そのまま座り込んだ。調べれば紅の身元はすぐにわかる。むしろ連行した役人が厳罰を受けるような身分にいる。まさか紅がそれらをわかっていないとは思えなかった。由稀は紅の本心が別にあると感じた。
「あー、くそ。羅依め」
 荒々しく髪を掻き回して、紅は肩を下ろした。
「一生、ここから出られねぇんだ。俺はずっとこの絆景で生活していく運命なんだ。ああ、どうしてくれよう、どうしてくれよう」
「キャラおかしくなってるぞ」
 由稀は紅を見下ろして腕を組んだ。表通りに視線を投げると、通りを挟んだ正面に一軒の店があった。硝子に囲まれた店内は、光が反射して見えにくかった。由稀は腰をかがめて高さを変える。白い台の上には、いくつもの眼鏡が並んでいた。
「なぁ、紅」
「どうにかして知り合いを捕まえるしかねぇな。だっていつまでもこんなところにいられないぜ。そうだな、ここから一番近いのは」
「おいってば」
「なんだよ」
「あそこに見えるあれは、眼鏡じゃねぇのか」
「マジか!」
 紅は由稀と同じ高さになって、正面の店を覗き込んだ。すぐに感嘆の声を上げた。
「すげぇ、すげぇよ由稀!」
 由稀ですら滅多に聞かないような嬉々とした声で紅は叫び、由稀の肩を強く叩いた。由稀は顔を歪めて体を逸らした。
「感謝しろよ」
「でもこんなところで眼鏡を売ってた記憶は、俺にはねぇんだけどな」
 紅は乗り出した体をまた闇に引きずり込んで、壁にもたれて店を睨みつけた。端正な顔が閃きに一瞬上向いたが、すぐにも影を帯びた。
「そっか、あれから何十年も経ってるんだよな」
 呟いて、紅は腰に下げている鞄をあさり始めた。由稀は紅と天水の間に横たわった時間の溝を考えると、何も言えなかった。巻き込んでしまったことを、あらためて申し訳なく思った。
 紅は由稀を一瞥して、わざとらしい咳払いをした。
「別に、心配することねぇよ」
 いささか低い声で紅は言った。由稀は顔を上げずに、紅の手元をじっと見ていた。そこには丸められた紙幣が握られていた。紅は一枚ずつ丁寧に皺を伸ばしていく。
「さっきは見栄張ったけど、俺は別に頼りにできる友達なんていねぇから」
 紙幣を由稀に押し付けて、紅は再び鞄の中に手を入れた。数枚の硬貨が出てきた。それも由稀の手の上に乗せる。
「この金が使えるといいんだけどな」
 そう言って、紅は硬貨とともに取り出した手帳に、文字を走らせていた。由稀はそんな紅の様子をただ眺めていることしかできなかった。それを望まれているように感じていた。紙に踊る紅の文字は、瞬のものより小ぶりで、角の丸いものだった。
 紅は手帳から二枚千切り、由稀に渡した。
「こっちはこの金が使えるかどうかで、こっちは眼鏡を買うっていう内容。これだけあれば金が足りないってことはないと思うから、それは心配すんな。もし不審がられたら、咳でもしてごまかせよ。とりあえず、何があっても喋るなよ。頭のおかしいやつと思われて、警邏でも呼ばれたら厄介だからな」
 鞄に手帳を戻し、紅は力ない笑顔を浮かべた。瞬きのあとには、その表情はもう消えていた。由稀にはその真意が掴めなかった。
「お前のセンスに賭けてるからな」
 紅は片眉を吊り上げて、小馬鹿にするように笑った。安心には程遠いが、由稀には紅を信じるしかなかった。金と紙を握り締めて、服に仕舞った。
「まかせとけよ」
 路地の薄闇など蹴散らすほど、強く濃い闇色の瞳が細くしなる。由稀の笑顔に、紅は思わず心を解いた。
「ありがとう」
 小さな声で呟くと、由稀に背を向けて、人目に付かない奥へと姿を消した。由稀は表通りへ駆け出した。