THE FATES

2.邂逅(6)

 ひんやりとした店から出て、由稀は小さな袋から買ったばかりの眼鏡を取り出した。縁はいぶした銀色で、存在感のある太さだった。輪郭は滑らかで、直線はほとんど見られない。由稀は目の前に眼鏡をかざした。向こうに透ける世界が鮮やかな淡紅色に染まる。振り返ると、対応した女の店員が小さく会釈した。色々と話し掛けられたが、由稀には何一つ意味がわからなかった。ただ、彼女が由稀を気遣ってくれているだろうことはよく伝わった。由稀は同じように頭を下げると、紅の待つ路地へと戻った。店の中と外の気温差に、汗が滲んだ。
 光が途切れて、つかのま盲目になる。由稀は目をしばたかせて、顔の周りについた光の欠片を振り落とした。
 暗さに目が慣れて、由稀は紅の姿を探した。さきほど別れた場所には見当たらないので、由稀は路地を奥へ入る。
「おーい、紅」
 抑え気味の声で呼びかける。聞こえてくるのは表通りの喧騒だけだった。
「どこに行ったんだよ」
 由稀は振り返って、来た道で陰になっているような場所を覗き込む。しかし虫一匹すら見つからなかった。表に出ることはないだろうと、由稀は再び奥へと向かった。
 真っ直ぐ見つめた先で、切り取られて見える絆景の佇まいは、写真のように一定で変わることなく、由稀から時間と空間の感覚を奪った。体の中を風が通り抜けていく。
 由稀の中にぽっかり空いた鬼の棲家は、今もまだそのままになっていた。代わりに埋められるものなど見つかるはずもなかった。鬼が残していった痛みも苦しみも悲しみも優しさも由稀は手をつけることなく、変質してしまわないように遠くからただ見守っていた。外側から眺めてその本質を知ろうと、思考を何度も巡らせた。時折、掴み取って皮を剥いで、中身を晒したくなることもあった。しかしそういう時はいつも、温かかった鬼の存在を思い出し踏みとどまった。由稀は、そんなことはあるはずもないのに、心のどこかで、鬼が戻ってくることがあるかもしれないと思っていた。そしていつ戻ってきてもいいように、鬼の棲家を塞ぐことはしたくなかった。しかしそうするたびに、自分の孤独を突きつけられるようでもあった。
 脳裏に過去の自分の姿がよぎる。それは神殿で見た久暉の姿だった。
 顔中が無表情のまま歪んでいく。次に会うときが来て、自分は正気のままでいられるか、由稀には自信がなかった。
 憎しみも寂しさも、雪のように胸に降り積もる。凍える風のやまないそこでは、全て根雪のように積み重なった。積もって、積もって、積もり続けた。
 固い地面が、押し固められた雪道に思えた。由稀は幻覚を打ち消そうと、足をすって歩いた。固い感触と這い上がるような寒気が少し和らいだ。
 いつの間にか俯いていた顔を上げて、由稀は眼鏡の入った袋を手の平に確かめた。足を踏み出すと、服の裾を引っ張られた。躓きそうになるのを、腕でもがいて堪える。見下ろすと、紅がしゃがみ込んでいた。文句を言おうと口を開けた由稀に向かって、紅は口元に人差し指を立てた。
「何してんだよ」
 由稀も紅に倣ってしゃがみ込む。そこはちょうど、路地に直角に交わっていた、さらに細い路地の角だった。紅は壁に身を寄せて、細い路地の奥を覗き込んでいた。
「喧嘩っぽい」
 そう言って紅は一層暗い路地を指差した。由稀は袋を押し付けるように渡した。紅は無言で受け取ると眼鏡を取り出して、すぐにかけた。短く口笛を吹いて、由稀を見る。
「いいじゃん」
「はい、釣銭」
 由稀は差し出された紅の手の平に、余った金を置いた。紅はそれを数えて、声を出さずに笑った。
「なるほど、いいわけだ」
 紅は金を鞄に放り込んだ。由稀は紅の体にのしかかって、路地を覗き込んだ。
「誰かいそうには見えないけどなぁ」
「重いよ」
「ほんとに喧嘩か。見たのか」
「怒鳴り声が聞こえたんだよ。いかにもな感じの」
「いつ」
 由稀は紅から離れて、膝に頬杖をついた。表通りの賑わいは時間の経過とともに高まっていた。少々の声では聞こえにくくなっていた。
「お前が戻ってくる、ほんの少し前。仲間呼んでるっぽかった」
「男か」
「そう」
「首突っ込んどくか」
 由稀は肘で紅を突く。紅は大仰に腕で払った。
「ばか言え。俺が何のために見張ってたと思ってんだよ」
「何のためって、俺待ちしてたんだろ」
「大きく勘違いしてる。巻き込まれないように様子見てたに決まってんだろ。なんでお前を待って知らない喧嘩に参加すんだよ。しかもこんなややこしい場所で。ばかだ。ばか以外ありえねぇ」
「えー、いいじゃねぇか。ぱーっと行こうぜ」
「行かねぇ。全然ぱーっとしなくていい」
「何だよ、つまんねぇな」
 由稀は口を尖らせて、紅の横顔を睨んだ。気付いた紅は心外とばかりに首を振った。
「大体なんだってお前は――」
 紅がそこまで言ったとき、二人の横に路地の奥から飛んできたものがあった。由稀と紅は、同時にそちらへ目を遣って思わず黙り込んだ。紅は嫌な予感に頬を引き攣らせて、由稀の顔を盗み見た。案の定真剣な表情の由稀を見て、紅は諦めのため息をついた。飛んできたのは、明らかに女物とわかる小振りで赤い靴だった。
「なんでって言ったよな」
「言いました。はい、言いました」
 紅は首の後ろに両腕を組んでうな垂れた。由稀は立って、真っ赤な布靴を拾い上げた。
「これが理由でいいだろ」
 そう言って由稀は歯を見せて笑った。紅はそれを仰ぎ見て、もう一度長いため息を吐き出した。渋々立ち上がる。
「いいよ、なんでも」
「じゃあ決まりだ」
 由稀は靴の飛んできた方へ、迷いなく突き進んでいく。紅は肩を落としてその後に続いた。