THE FATES

2.邂逅(7)

 少女は壁に背中を張り付けて、男を睨みつけた。二つの黒い陰が少女を追い詰める。行き止まりになっているとは知らなかった。男の縫い目だらけの顔が引き攣る。少女には笑ったように見えた。ただならぬ迫力に身がすくむが、嫌な感じはしないと思った。
「気の強いお嬢さんだ。どうしてもって言うなら、総統に会えるように都合つけてやらなくもないぞ」
「あんたみたいな下っ端に頼んで、叶うことなのかしら」
「行儀の悪い子だな」
 男は唾を吐き捨てた。大きな男だった。少女は男を見上げる。もう一人の眼鏡をかけた小柄な男は、通信機器に向かって話し続けていた。仲間を呼ばれては、逃げ場を完全に断たれてしまう。少女の息が上がる。体中から汗が噴き出した。
果南(かなん)を返して。友達なの。あの子は今どこにいるの」
「何度言ったらわかるんだ。そういうことは教えられねぇ掟になってんだよ。なんならお嬢さんもうちに来るか。きれいな顔だ、すぐに客もつくぜ」
 男の腕が少女の頬に伸びる。少女は躊躇なくその手を叩いて払った。男は乾いた笑いを漏らした。
「付け上がるのもいい加減にしろ!」
 少女が抵抗する間もなく、男は少女の胸倉を掴み上げて壁に体を押し付けた。少女は後頭部をしたたか打ち付けて、平衡感覚を失った。息苦しさに涙が溢れた。視界が歪む。全身を覆った汗が急激に冷えていく。
「離して」
 少女の口は動いたが、声にはならなかった。少女の零した涙が、男の手に落ちる。男は眉をひそめて少女から視線を逸らした。
「いいか、もう店には近付くなよ」
 男の腕から力が抜ける。少女の喉が緩まった。体は空気を欲して喘いだ。
「離すな、十和(とわ)
 十和の腕を上から掴み、もう一人が言った。男にしては高い声だった。男は通信機器を耳に当てたまま口元だけで笑う。
「そんな口約束で許したと知れたら、絆清会(ばんせいかい)の名折れだとは思わないか」
「しかし愈良(ゆら)、相手はまだ子供だ」
 十和は、もう片方の手で愈良の手を引き剥がし、少女を解放した。少女の体は壁に沿って崩れ落ちた。
「甘いな」
「子供相手にそこまでしなくてもいいだろう」
 十和は愈良の手を引いて、少女から距離を取った。少女は咳き込みながらも、二人から目を逸らさず、じっと身をかがめた。
「さぁ。総統がどう仰るかな」
 愈良は薄笑いを浮かべて、通信機器を爪でつついた。
「繋がってるのか」
「探しに行ってもらった。じき、出てくださるだろう」
「脅すだけで充分だ、そう思わないのか」
「不穏の芽は早々と摘むに限る」
 眼鏡の奥で木肌色の細い目が粘着質な笑みを浮かべた。十和は返す言葉を失った。
「それがたとえ女子供で――」
 そこまで言って愈良は息を呑んだ。気が付いたときには、赤い物体が目の前まで迫っていた。身をよじるが、それは愈良の手から通信機器を弾き飛ばした。銀色の機器は地面を滑って手の届かない場所へ消える。男たちの足元には、赤い靴が落ちていた。
 少女はもう片方の靴も脱いで、腕を振って投げつけた。しかし少女の願い虚しく、愈良が手を上げ、靴を掴み取った。布製のやわらかい靴を握り締め、愈良は眼鏡を指で上げた。
「ここで死ぬか」
 冷たい声が少女を恐怖で縛りつけた。愈良は靴を後ろへ投げ捨て、上着の裏から銃を取り出した。銃口が少女に向けられる。
「命乞いをするか」
「果南はどこ。果南に会わせて」
 少女の声は震えていた。
「言いたいことはそれだけか」
 愈良は口を歪めて首を傾げた。少女は体を震わせた。顎が震えて歯が鳴った。愈良の指先に力がこもる。十和は目を逸らした。少女は強く目を瞑った。しかしいつまでたっても、銃声が響くことなく、銃弾が彼女を襲うこともなかった。
「ぐ……」
 愈良の声が漏れた。
「誰だ、貴様」
 十和は、愈良の体を背後から羽交い絞めにする少年を見て驚いた。
「いつの間に」
「ごめん、わかんない」
 そう言って由稀は十和に向かって微笑んだ。十和は妙な言葉を使う由稀に、同僚を助けることを忘れて眉をひそめた。
「おい紅、見つかったか」
「あった、あった。あー、もしもし」
 紅は弾き飛ばされた通信機器を耳に当てた。
「すみません、さっきのは間違いです。はい、はい。申し訳ないです」
「おい! 勝手に何をしてる」
 十和は紅の手から機器を取り返そうと手を伸ばした。紅は体を翻して、由稀と背中合わせに立った。
「あ、はい。今後は気をつけます。はい。それでは失礼します」
 紅は通信を断って、機器を地面に投げ捨てた。十和が慌てて拾う。
「あ、回路一本抜いちゃった」
 紅は細く赤い銅線を指でつまんで見せた。
「なんだと」
「悪いね」
 紅は嬉しそうに笑って言った。十和は小さな通信機器を触るには大きすぎる指で、あちらこちらをいじったが、機能が復活する兆しは見られなかった。
 由稀は壁際でうずくまる少女に目を遣った。ゆるやかに胸にかかる髪は震えていた。
「小僧、正義の味方のつもりか」
 愈良の声は掠れていた。由稀は視線を戻した。男の頭を見下ろす。
「この国にもまだ頭の悪いのがいたもんだな。うちに喧嘩を売ってくるとは」
 愈良は喉を震わせて笑った。由稀には彼が何と言っているのかわからなかったが、何を言いたいのかはよくわかった。由稀は愈良の手をさらに捻り上げ、首にかけた腕を絞めた。愈良の口から言葉らしい言葉が出ることはなくなった。
「お前ら、愈良から離れろ」
 十和は上着を脱ぎ捨てて袖をまくりながら、紅の前に立ちはだかった。
「どこのどいつか知らないが、俺もこのまま引き下がるわけにはいかん」
「あんまりやりたくねぇんだけどなぁ」
 紅の呟きを無視して、十和は拳を握り紅に向けて走り出した。そのまま避けては由稀に危険が及ぶ。紅は由稀の背中から離れて、向かってくる十和の懐に潜り込んだ。紅の無駄のない動きに十和の勢いが削がれた。その隙を突いて、下から顎を殴りつける。骨と骨がぶつかり、重い音がした。紅は確信を持って十和の顔を見上げた。しかしそこに痛みにうめく男の表情はなかった。余裕の笑みを浮かべた十和の瞳が、紅を見下ろしていた。
「まじで」
 殴った腕が肩まで痺れていた。紅は危険を感じてすぐに十和から離れようとする。しかし服を掴み取られた。
「逃がさん」
 体を引き寄せられ、腹を殴られた。鉄の塊を投げつけられたようだった。息が止まった。体の中の何かが弾けた。紅は口から血を吐き出した。
「紅!」
 由稀の声が、紅には遠く聞こえた。紅は十和に何度も腹を殴られながら、手近に武器になりそうなものを探した。しかし他の路地と同じく壁際に木箱が積み重なっているだけだ。一瞬、足を止めることは出来ても、それを使って攻撃できるようなものではない。そもそも、十和の太い腕から逃げられる算段がなかった。当たり所が悪ければ骨が折れてもおかしくなかった。けれど十和の拳は的確にそれを避けているように感じられた。紅は殴られながら、これ以上ひどい目には遭わないだろうと感じた。しかしその思考も次第に遠のいて、口からこぼれる血をぼんやり見ていた。