THE FATES

2.邂逅(8)

「紅、紅!」
 由稀は体を捻って、後方の紅へ声をかけ続けた。地面に落ちる血の量を見て、由稀は気持ちを逸らせた。焦りから、愈良への警戒が揺らいだ。愈良は由稀の脛を踵で蹴りつけた。由稀は足を後ろへ踏み出して逃げる。二人の体に隙間が生まれ、由稀の腕は充分な力を発揮できなくなった。愈良は自らの肩の関節を外して、拘束を逃れた。逃すまいと伸ばした由稀の手は、肉で繋がる愈良の腕を掴んだ。妙な感触に由稀は思わず手を離した。
 愈良は体をくねらせて関節をはめると、由稀へ銃を構えた。
「形勢逆転だな」
 由稀は赤い靴を握り締めた。背後から紅の噎せる声がした。今になって自分の軽率さを恥じた。弱い自分に腹立った。鬼がいれば、そう思ってしまう自分がいた。
 壁際に視線をやると、少女の姿が見えなかった。愈良に気付かれないよう、目だけ動かして周囲を見渡す。愈良の足元に長い髪が揺れていた。由稀の視線に気付いた少女が顔を上げた。小さな口が強い意志を孕んでいた。由稀は愈良の顔に視線を戻した。愈良は眼鏡を指で上げ、粘り気のある目で由稀を見た。
「どこから来たのか知らないが、俺たちに喧嘩を売った心意気だけは誉めてやろう。相当の無謀だが、それもまた若気の至りだ。そうだ、せめて名前を聞いておいてやろう。ん、そのくらいの言葉は通じるだろう。名前だよ、なまえ」
 由稀は首を傾げた。愈良は苛立たしげに足を踏み鳴らした。銃口が下がる。由稀はそれを見逃さなかった。
「今だ!」
 由稀の声に合わせて、少女が愈良の手を掴み取って噛み付いた。愈良は無様な悲鳴を上げた。指先から銃がこぼれ落ちる。由稀は愈良の間合いに入って銃を拾い上げると、紅のそばにあった大きな木箱めがけて弾を撃った。繋ぎ目が吹き飛んで、木箱は中から爆発したように炸裂した。木の破片が降り注ぐ。十和の攻撃が思わず止まった。木片を払いのけようと紅から手が離れる。
 紅は朦朧とした意識のまま胸に爪を突き立てた。
「何をするつもりだ」
 指先がみるみる体に食い込んでいく。痛みはなかった。壁に手をついて、十和を見た。十和は言葉を失っていた。
「どうにかしやがれ、くそ野郎」
 紅の指先が龍仰鏡の縁に触れた。直後、十和の体が後方へ弾け飛んだ。砂埃を巻き上げて、十和の体は直角に交わる路地の辺りまで転がっていった。紅は呆然とその光景を眺めていた。腕は脱力して体から抜け落ちる。殴られた痛みまで引いていた。
「まじかよ」
 呟いて、紅はその場に座り込んだ。由稀は紅の背中に彼の喜びを見いだした。それは出会って初めて見た輝きだった。安心したのか、由稀の心には銃を撃った恐怖がじわじわと染み出た。手が震えた。自分にすら隠すように、両手で銃を持った。
 由稀は肩越しに愈良を振り返った。少女に噛み付かれた手を押さえ、起き上がろうとしない仲間の姿に顔を引き攣らせた。
「何者だ、お前ら」
「ごめん、何言ってるかわからないんだ」
 由稀は体ごと彼に向き直り、力なく微笑んだ。手の中の拳銃に視線を落とす。震えが止まらなかった。愈良はずった眼鏡を上げて、額の汗を拭いた。
「撃つのか、俺を」
「撃つのか、って聞いてるわよ」
 少女が由稀にわかる言葉で言った。由稀は顔を上げて少女の姿を探した。彼女は少し離れたところで身を縮めていた。小柄だが、由稀と歳は変わらないように見えた。
「撃たないよ。傷つけるつもりなんてないよ」
「助かるみたいよ、あんた」
 少女は愈良に向かって言った。愈良は細い目で少女を睨み返すと、由稀に手を差し出した。
「では、返してもらおうか」
「は」
 少女に通訳されなくとも、愈良の動きで何を言っているのか想像できた。
「なんでみすみす返すんだよ」
「弾を抜けばいいんじゃないの」
「あ、そうか」
 言われてみて拳銃を眺めてみるが、由稀にはどこに銃弾が装填されているのかわからなかった。愈良の手がゆっくりと近付いてくる。
「仕方ないな」
 由稀はそう言って、まだ残っていた木箱に向かって撃った。全て撃ち切る頃には、指が痺れていた。おかげで震えは止まった。軽い引き金を何度も引いて確認したのち、由稀は拳銃を愈良に向かって投げた。
「はい、返すよ」
 愈良は拳銃を受け取って、黒い表面を撫でた。眼鏡の奥の目が笑う。
「予備の弾を持っているとは考えないのか」
「きっと持ってないわ。吠えてるだけよ、みっともない」
「黙れ」
 愈良は少女に向かって怒鳴りつけると、由稀に背中を向けないよう壁に背中をこすりつけて歩き、ようやく起き上がった十和の元へ駆け寄った。
「何やってるんだ!」
「いや、今のは驚いた。愈良もそう思わなかったか。おい、小僧。名前は何ていうんだ」
「そんなことどうでもいいだろう。行くぞ」
 愈良は十和の腕をひき、由稀を睨みつけて、絆景の方へと去っていった。
「仕事に困ったら、うちに来いよぉ」
 遠ざかっていく十和の声が響いた。由稀と紅は顔を見合わせて笑った。紅は口の中に残った血を吐き捨てて立ち上がった。
「変な奴ら」
「大丈夫か、紅」
「とりあえず」
 紅は顔を上げて由稀を見た。その向こうに靴を片方はく少女の姿が見えた。
「おい、お前何したんだよ」
「関係ないでしょ」
「関係ない、って。よくそんなことが言えるな。こっちは血まで吐いたんだぞ」
「頼んでないもん。勝手に首突っ込んできて威張らないでよ。しかも、てこずってたし」
「はぁ? はぁ? 何言ってんすか」
 紅は少女に向かって歩き出した。由稀は正面に立って、進路を塞いだ。
「まぁまぁ、そう怖い顔するなよ」
「ばかじゃね。お前さ、俺たちがいなかったら完璧拉致られてるよ。それでも頼んでないなんて、しゃあしゃあと言うのかよ」
「頼むから、俺にわからない会話を進めるのはやめてくれよ」
「こいつ、助けてもらったくせに事情話さないって言ってるんだよ」
「よほど深い事情があるかもしれないじゃん。つかお前、渋々来たじゃん」
「いいか、由稀。俺は血を吐いた。お前も危険な目にちょっとは遭った。礼の一つくらい言ってもらう権利はあるだろ」
「そりゃまぁ、そうだけど。人それぞれ色んな主義主張が」
「そんな主義主張通るかよ」
 紅は由稀に額を突き合わせて声を上げた。由稀は激昂する紅を宥めながら、いつも以上に不安定な紅の気持ちを量りかねていた。
 横を少女が走り抜ける。由稀は紅の体を押しのけて、彼女の腕を掴んで引き寄せた。顔立ちがよくわかるほど近付く。少女の目は、天水の空のように灰味の強い白銀色をしていた。由稀は初めて目にする瞳の色に見とれた。
「離してよ」
 少女は由稀の手を激しく振りほどいた。
「えっと、あの、靴」
 由稀は持ったままだった少女の赤い靴を差し出した。少女の顔に朱が走る。ひったくるように由稀から靴を奪い取る。少女はすぐに背中を向けて走り出した。木片が散らばっている辺りで立ち止まって靴を履くと、一度も振り返ることなく、表通りの方へ去っていった。
「なんだ、あれ」
 紅は腹をさすりながら、唾を吐いた。そこにはまだ少し赤みが混じっていた。由稀は足元に落ちていた薬莢を拾って曇り空にかざした。
「お前に似てたよなぁ」
「はぁ? やめろよ、あんな常識知らず」
 先に歩き出した紅だが、すぐに立ち止まって靴を脱ぎ、中に入った砂を落としていた。
「いや、だからなんだけど」
 由稀は紅に聞こえないような小さい声で呟いた。
 手の中に金色とも銀色ともつかない薬莢を包んで、服に押し込んだ。不安になるほどの軽さだが、上から触ると確かなふくらみがあった。服ごと握る。
 由稀は脳裏に少女の瞳を思い返す。見上げた空は、速い風に流れていた。