THE FATES

2.邂逅(9)

 街は静かだった。それは不気味な静けさだった。
 部屋から出た羅依は、刺さるような視線を感じた。それは一つではなかった。全身を舐めるように見る多くの目に、羅依は強い嫌悪感を覚えた。見つめられるほどに、衣服が一枚ずつ剥ぎ取られていくようだった。羅依は先を行く瞬の背中に諭され、黙って後に続いた。
 聞き慣れた金属音がした。薄い硝子を爪で弾いたような高い音だ。視線たちが身を震わせた。羅依は周囲を見渡したい気持ちを抑えて、不自然なほど真っ直ぐ前を見据えて歩いた。瞬が背を丸くする。紫煙が瞬の背後に流れる。緊迫し凍りついていた街が、安堵をしてざわついた。
 羅依は周囲の敏感な反応に驚いて、その拍子に煙をまともに吸い込んだ。激しく噎せて咳き込む。
 瞬の手が伸びて羅依の腕を掴んだ。強く、引き寄せられる。横に並ぶと、煙は甘く香った。手の甲に瞬の服がこすれるほど近い。顔を上げると、眼鏡の隙間に深緑の瞳が見え隠れした。
「あいつらのことは気にするな。じきに失せる」
「誰なんだ」
「誰ってことはない」
 瞬の手が羅依から離れる。指の名残が腕に広がる。羅依は胸の前に腕を組む振りをして、消え行く微かな痛みを押さえた。
「俺が戻ってきたことを、よく思わない連中だ」
「色街、なんだろ。どうして」
 道の先は金網が張られ、行き止まりになっていた。遠くに錆色の重厚な建物が見える。瞬は路地へ逸れた。
「微妙に業界がずれてるんだよ。あそこは」
「ずれてるって」
「色街にすらいられない、そういう屑の棲む場所だ」
 瞬は小さな笑いを零した。道端に置かれた、水の張られた缶の中へ煙草を投げ捨てる。
「俺みたいにな」
 煙草は香りを遺して命を絶った。
 路地は途切れて、二人は明るみの中で眠りにつく絆景の中心へと足を踏み入れた。降り注ぐ光が子守り歌のように優しい。羅依は街並みを見渡して、刺さるような視線がないことに気付いた。瞬は鼻で笑って、先を行く。
「今ごろは、俺が帰ってきた話題で持ち切りだ」
「何か対応しないで大丈夫なのか」
「別に。そこまでする必要はない。ただ」
 道は緩やかに曲がっていた。街並みの陰から、再び錆色の建物が顔を出した。
「視線には慣れてもらう必要がある」
 瞬は静かに言った。彼の声音は風のない水面のように、静かで侵しがたいものがあった。しかしそうであればあるほど、靴音が息苦しそうに喘ぐ。今の彼には全てを隠し切る力がなかった。
 羅依はわざわざ言葉にした彼に妙な違和感を覚えた。羅依は瞬の言葉の裏を嗅ぐ。これは彼からの忠告だ。視線に慣れることの意味が、羅依には考えずとも直観された。彼と行動を共にすれば、危険は避けられない。しかしそれは自明のことだ。
「わかった。気をつける」
 そう返したものの、羅依は瞬を見ることが出来なかった。自分の焦燥を悟られる気がした。羅依は瞬の気遣いに、出所の知れない不安を感じたのだった。
 俯いて、足元を見遣る。羅依の歩調より幾分ゆったりと前へ出る瞬の足が見えた。革靴は黒く、控えめな艶があった。多少の傷は見られたが、状態はよかった。視線を上げると、薄茶色の髪がかかる瞬の首筋があった。白い肌が羅依の目には寂しげに映った。焦燥が答えを見つける。
「あ……」
 羅依は息をこぼした。
「どうかしたか」
「いや、なんでもない」
 羅依は小さく首を振った。瞬は深く聞くことはなかった。
 羅依は空に響く二人の靴音を聞きながら思考を馳せた。瞬は城へ行くと言った。理由は一つしかない。茜の死を伝えるため、彼は今この道を歩んでいるのだ。羅依はようやくその痛みに思い至った。空気を介して触れる肌で、彼の抱えきれない痛みを感じる。さきほどまでの羅依にはそれを見ようとする真摯さに欠けていた。我儘が過ぎた。羅依は浮き足立っていた自分の姿が恥ずかしく、腹立たしかった。
 ときに痛みは周囲への優しさを生む。しかしそれはこれ以上近付いてくれるなという、一線を画すための優しさである。すぐ隣にいるはずなのに、羅依には瞬が遠く感じられた。剣を交えている方が、もっとずっと近い気がする。
 彼を一人にしてはいけないという信念のもと、羅依は海へ飛び込んだ。自らの命も投げ出す覚悟で彼を追った。その手を取った。息を繋いだ。
 そして、今ここに彼を見つめる。
 けれども、瞬の心はあの海に漂ったままなのではないか。だとしたら、今から彼がしようとしていることは、あの海を、自分の存在ごと葬ってしまうものではないのか。残った体は肉のはりぼてになる。息吹も血潮も忘れ去り、瞬の内から何かが芽生えることもない。
 羅依はひどい不安に襲われた。そんなものを望んで彼を追ったのではない。だが、あがくことすら出来ずに立ち尽くしてしまう自分がいた。そして、事実何も出来ない。羅依の胸の奥で、もどかしさが悲鳴を上げた。
 羅依は死に際の茜を思い返した。激しい痛みがあったろうに、間際の彼女は満足げに微笑んでいた。強い女性だと思った。それだけ深く瞬のことを愛していると突きつけられたようでもあった。だが今になって振り返ってみると、それは茜の高い自尊心が作り出した隠蔽の笑顔に思えた。肉体的な痛みよりも、家族を置いて逝く悲しみよりも、あの時の彼女を占めていたのは、もう一歩のところで瞬に追いつくことが出来なかった無念さであったのではないか。羅依は自分の考えの恐ろしさに身をすくめた。しかし心の卑しさを恥じる一方で、茜の無念が感覚的に理解できるような気さえしていた。
 景色は色街から簡素な住宅街へと変わっていた。空っぽな毒々しさが失せ、ささやかな連帯感が漂っていた。家族という小さな社会を営む幸福感が、窓や煙突から漏れ出ている。羅依は息を呑んだ。
 なぜ、この安心感を望むことすら出来ないのだろう。
 羅依の背中に瞬の手が触れた。驚いて、肩を震わせた。脇道に逸れるよう軽く押された。民家の間には三十段ほどの上り階段があった。勾配はゆるやかで、一段も縦幅が広い。横幅が狭いので、瞬が先立って進んだ。
 すぐ横をすり抜けて離れていく彼の手を羅依は目で追って、掴み取りたいと思った。茜にすら手の届かなかったところへ到達したい。あの海で息を紡いだように、魂を重ねたい。
 触れたい。
 羅依の中に次々と欲望の花が咲く。花は花弁を蜜に濡らした。滴り落ちる甘い露は羅依の首筋から匂い立った。彼女はあえて瞬の手を握ろうとはしなかった。
「瞬」
 呼びかけに瞬は立ち止まって羅依を振り返った。羅依はゆるやかに体を寄せた。裾が擦れ合う。肌が触れないように、羅依は両手を服に隠した。
「屑なんかじゃないから」
「羅依」
 瞬は瑞々しい羅依の瞳に、確信的なものを悟った。静かに微笑む。
「ありがとう」
 言葉とは裏腹に、瞬の顔に淡い影が差した。羅依はそれを見逃さない。
「嘘じゃない。ほんとに」
 そこまで言ったとき、瞬は羅依を制止するように手を上げた。視線が遠くへ向けられる。瞬は羅依の背後の壁、そのもっと向こうを見ていた。
「紅」
 瞬の薄い唇がそう動いた。眼鏡に透ける、底が見えないほど深い瞳に拍車がかかる。瞬から流れ出る力の波が一気に増す。羅依は細かく震える大気の中で、立っているだけで精一杯だった。風が唸り、窓が一斉に鳴き始めた。世界と隔離されてしまうような高音が耳を塞ぐ。羅依は息をとめて体を固くした。そうしていないと、体が千切れてしまいそうだった。
 煙草の香りが不意に記憶の中で甦る。羅依は息を吸った。瞬が指を鳴らした。世界は弾けて、波が引いていく。
 瞬の手は羅依の髪を撫でて、一切の感慨もなく離れていった。黒い革靴が階段を上がっていく。羅依は瞬が階段を上りきって見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。

 階段を上がると、右手に賑やかな市場、左手に錆色の建物が迫っていた。羅依は人込みを掻き分け、瞬に追いついて問うた。
「あれは」
 瞬は煙草に火をつけて、顔を上げた。
「あれが水輝城(みずきじょう)。天水王家の住居および中枢機関がある場所だ」
 水輝城は全身を錆色の煉瓦で覆っていた。遠目にはわからなかったが、微妙に違うひとつひとつの煉瓦の色が羅依にはあたたかく映った。大きな包容力を感じさせる重厚さだった。その手前には高い城壁が築かれており、鉄扉が堅く閉ざされていた。ゆるやかな坂をのぼり、鉄扉のそばまで行くと、城の姿は見えなくなった。瞬はすぐ脇にある小部屋へ近付いた。小窓がついており、中には制帽をかぶった若い男がいた。
「少し聞くが」
 瞬は小窓を覗き込んだ。中にいた男は顔色を変えることなく、じっと瞬を観察しているようであった。羅依は来た道を振り返って、坂の下に広がる円形市場を見下ろした。街には活気が溢れていたが、何か物足りない気がした。羅依は導かれて空を見上げた。きっと、光が足りない。
国崎(くにさき)は、まだいるか」
「あ、はい」
 男は不審に思ったのか、声を低くした。
「呼んできてもらえるか」
「差し支えなければご用件を」
「とりあえず呼べ」
 瞬はそう言うと、窓の内側にあった灰皿を取った。男は眉をひそめたが、四角く手の平に収まる銀色の物に向かって話し掛けた。
「今日は国崎さん、出勤ですよね。あ、国崎さん。すみません、城門まで来てもらってもいいですか。あの、呼んでほしいっていう人が。はい。すみません」
 男は通信機器を机に戻して、瞬を睨みつけた。
「少々お待ちください」
「悪いな」
 瞬は灰皿を元に戻して言った。
 小部屋の横には鉄格子の扉があった。大きさは一般的なもので、間から敷地内の様子が見えた。淡い緑の芝生が広がっている。ネリオズ宮殿の中庭に比べると質素な庭だった。
 城の方から、初老の男が近付いてきた。頭髪は真っ白だが、足取りはかくしゃくとしている。瞬は男へ向かって軽く手を上げた。気付いた男が、小走りになる。小部屋の中にいた若い男が出てきて、格子扉の鍵を外した。
「瞬、瞬じゃないか」
 息を切らせて、男は格子を両手で掴んで押し開けた。
「もう会えないのかと思っていた」
「久しぶりだな」
 瞬は眼鏡を外して、手を差し出した。国崎はそれを両手で握って、激しく上下させた。瞬の細い体が勢いに揺すられる。羅依は彼が目を回さないか心配になった。国崎は気に留めることなく、皺にかこまれた小さな目を輝かせた。
「無事だったんだな、良かった。一時期、よくない噂が流れていたんだ」
 国崎は感極まって、声を詰まらせた。俯いて、肩を震わせる。
「ずっと後悔していた。あの日、あの夜、この扉さえ開けなければ、私が開けさえしなければ、と」
「それは違う」
 瞬は国崎の肩に手を置いて、体を起こさせた。涙こそなかったが、顔を上げた彼は目を真っ赤にしていた。
「国崎、お前たちには何の責任もない。もちろん大臣たちにもない。全て、俺が決めたことだ」
「瞬」
「すまなかった。何も言わずに」
 瞬は消え入りそうな微笑を浮かべた。
「あの時は、扉を開けてくれと言うだけで精一杯だった。理由を話す余裕はなかった」
 薄く形のいい唇が、何かを付け足そうと躊躇して閉ざされた。その横顔に羅依は体の奥を捩じ上げられた。瞬の視線はひとところに留まることなく、決して目を合わせることなく、国崎の周辺をさまよう。国崎は顔に彫り込まれた皺を崩して笑った。
「かまわない。こうやって生きていてくれたなら。きっと央宮(なかみや)様も喜ばれるだろう」
 老いが国崎を自由にしていた。瞬は眩しいものを見るようにして国崎の白髪を見遣った。
「会ってもらえるだろうか」
「当然だろう。何を差し置いても会われるに決まってる。執務室へはここから連絡しておこう」
「何から何まですまない」
「馬鹿なことばかり言わないでくれ。場所は、どこがいい」
「そうだな。頼めるなら、東の回廊で」
「わかった。それも伝えておこう」
 今にも泣き出してしまいそうな瞬の頬を軽く叩き、国崎は格子の扉を開けた。
「おかえり、瞬」
 その時、羅依は偽りのない瞬の笑顔を見た。それは静かでささやかなものだったが、心が詰まるほどに切なく、切り取って飾りたくなるほど美しいものだった。