THE FATES

2.邂逅(10)

 格子扉から城まで、芝生を貫いて道が続いていた。木目鮮やかな板張りだった。かかとを下ろすたび、小気味いい音を立てる。瞬はその音を懐かしく踏み締めながら、城へ向かった。
 緩い風に木がさざめく。見上げると、城の尖頭に刺さった旗が、激しく波打っていた。上空は風が強い。
『ねぇ、瞬。どうしてお旗があんなに揺れるの』
 記憶の中の幼い茜が大きな目を輝かせて問う。瞬は旗から目を逸らした。
 城壁のくすんだ赤さが、灰色の空に滲んでいた。まだ青さの残っていた空を思い出し、城の景色に重ねた。そこかしこに思い出が甦り、瞬は自虐的になっている自分にようやく気付いた。
 釘を打ち込むように響いていた足音が、鈍いものに変わる。芝生と板が途切れ、城内へと踏み込む。建物外周には回廊が巡らされていた。瞬はそこを進んだ。足元には黄色がかった石が敷き詰められている。砂漠の砂を押し固めて作った人工石だった。天然の石より軟質で欠けやすいが、転倒による怪我などが軽減できるとして、輝宮が改修したものだ。きっかけは、茜の怪我だった。勢いよくこけて、膝を切った。瞬が目を離した隙のことだった。
 回廊の外には庭園が広がる。ネリオズ宮殿にも負けないほどの華やかさだった。後ろから、羅依の感嘆が聞こえた。
「すごい」
「天水で花が見られるのは、ここだけだ」
「どうして。こんなにきれいなのに」
「ここ以外では育たないんだ」
 瞬は立ち止まって庭園を眺めた。赤い花は首を傾げて上目遣いに空を見る。白い花は群れて風にそよぐ。黄色い花は目いっぱい花弁を広げ、紫の花はそれらの陰にひっそりと佇んでいた。曲線状に組まれた柵には、蔓が這い、器用に巻きついていた。ところどころ、髪飾りのように花を咲かせている。花は淡い紅色で、少女の唇のように清艶だった。
 服の中で拳を握る。目を閉じると、茜の笑顔がよぎった。
「もっと、光があればいいのにな」
 羅依の声に、瞼を押し開いた。彼女の横顔を盗み見る。淡紫色の瞳は、初めて会った頃とは比べものにならないほど、女になっていた。彼女の人生を自分の闇に巻き込んでしまったことが申し訳なく、瞬には重かった。
「天水が晴れることはない。季節が、変わることもない」
「そういう気候なのか」
 問いに、瞬が応えることはなかった。瞬は胸の痛みを堪えて庭園を見つめた。なぜここに茜がいないのか、ひどく不思議でたまらなかった。疑問は全て自分の過ちに撥ね返る。指先に金属の冷たさが触れる。二人の果てにはこの鍵だけが残った。
 遠く、足音がした。振り返ると、一人の男が彼らへ向かって歩いていた。髪は白髪が混じり、灰色になっていた。歳は国崎とかわらないように見える。男は瞬の顔を見て、声を上げた。
「瞬!」
 声は回廊に響き渡った。手を上げて、ゆっくりと歩み寄ってくる。瞬はそれに応えるように、小さく手を上げた。
 男は濃灰色の上下に身を包み、清潔感のある身なりをしていた。中に着た白い服も、釦をきちんとかけていた。すぐ近くで見ると、顔立ちはまだ若々しかった。それでも、とうに五十は過ぎているようだ。額には皺が刻まれ、一重の落ち着いた目元が一層の深みを増す。鼻筋は程よく、顎はよく引き締まっていた。激情からは程遠い面差しだった。多少、神経質な印象は否めなかったが、相手を不快にさせるものではなかった。瞬は男の相貌に嫉妬を覚えた。老いるということを初めて羨ましいと思った。
 男は近くまで寄ると瞬の陰に隠れていた羅依に気付き、彼女の手を取った。
「ようこそ、水輝城(みずきじょう)へ」
 続けて男は羅依の手の甲に口を寄せた。羅依はあまりにも自然な動作に、驚きを忘れて思わず見とれた。すぐに我に返り、失礼にならない早さで手を引くと、深く頭を下げた。そうさせる力が男の周りから流れ出ていた。
「お名前を伺ってもいいかな」
「あ、えっと」
 羅依には男の言葉が理解できない。返答に困り、助けを求めるように瞬を見た。瞬は男の肩に手を置いた。
「古い言葉でないと通じない」
「そうか。困らせて悪かったね」
 ぎこちない発音だったが、男は羅依にわかるように言った。羅依は首を振った。
 穏やかな眼差しから、父性が漂う。その大きさはネリオズ宮殿から望む海原を彷彿とさせた。深い濃紺の瞳は、夜の海によく似ていた。
 羅依の頬が火照ったように赤く染まる。苛立ちを覚えた瞬は男の前に進み出て、羅依の腕を取った。
「羅依、花を摘んでおいてくれないか」
 庭園を指差して言う。羅依は目を丸くして瞬を見上げた。
「あとで、御廟へ上がる」
 瞬の声が話す内容にそぐわない色香を帯びる。羅依は視線を泳がせて最後には顔を背けた。
「ああ……」
 羅依は体をこわばらせて庭園を見つめた。
「わかった」
 庭園へ向かう羅依の背中に、瞬は犯したくなるようないじらしさを覚え、掻き消すように煙草をまさぐった。
 この場所がいけない。この景色が瞬の心を狂わせる。
「思ったより、早かったな」
 男は瞬に手を差し出した。瞬は取り出した煙草を男へ渡した。火をつけてやる。男は目を細めて煙を吐き出す。それを横目に見ながら、瞬は自分の煙草にも火をつけようとしたが、寸前で躊躇した。
「俺が生きている間には、帰ってこないかもしれないと思っていた」
「そのつもりだった」
 瞬は火をつけようと上げていた手を下ろした。
「なのにお前は帰ってきた。理由は大体わかっている」
 男が遠い眼差しで見つめる先には、花を選ぶ羅依の姿があった。
「手で切れるかな」
「え」
「茎だよ」
「ああ、大丈夫だ。短刀を持ってる」
「城門で身体検査を受けていないのか」
 男は笑いながら言った。
国崎(くにさき)が入れてくれた」
「聞いたよ」
 男の煙草から灰が落ちた。風に流されて土に舞うさまは、細かく刻まれた花吹雪のようだった。目を閉じると、自分の体が灰になって風に流されてしまいそうだった。髪をかきあげて幻想を打ち消す。瞬は決意を込めて唇を舐めた。
央宮(なかみや)様」
 姿勢を正して、瞬は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「よしてくれ」
 央宮は吐き捨てるように言った。視線を遠くへ投げて、口を歪める。
「姉さんが選んだことだ」
「しかし、央――」
「央宮様、というのもよしてくれ。お前にそう呼ばれるのは気持ちが悪い」
「俺なりの、けじめのつもりだ」
 一向に頭を上げない瞬を見て、央宮は肩をすくめた。
「けじめか」
「茜を死なせたのは、俺の責任だ」
 央宮の手元から立ち昇る紫煙は、曖昧な空に混じって消えていく。強い風が地上の塵をさらう。だが瞬と央宮の間には沈黙の塵が積もった。厚い層になり、二人を阻む。
 瞬は息を殺してじっとその圧迫に耐える。逃げそうになる心を必死に引き止める。
 もう何も手放したくなかった。全てを受け止めて生きたかった。重いと知っていても、苦しいと知っていても、そうすることが償いだと思った。あんなにも逃げていた自分が今はもう嘘のようだ。瞬は体の奥から湧き上がる熱に気付いた。正体を見極めることなく、躊躇なく握る。それは焼けるような痛みと生きている心地を与えた。
 央宮は眉を寄せて、口に残る煙草の苦味を飲んだ。
「瞬、言うはたやすい」
 央宮は静かに言葉を紡ぐ。瞬はうろたえて顔を上げた。
「誰もお前を責めない中で、お前が謝ることはそう難しいことではないはずだ。むしろそうすることで、お前の不幸が浮き彫りになり、哀れみも同情も増すだろう」
「俺は別に」
「今この城に残っている人間は、全てお前の味方だ。あの頃の中枢はみな死んだ。もう誰も、姉さんの死を掘り返すようなことはしない」
 央宮は煙草を手放し、靴で踏み消した。最期の煙が立つ。
「それぞれ意見はあるだろう。だがこれだけは言える。誰もお前に姉さんのことを引きずってほしくはないんだ」
 央宮の顔に、昔の面影がよぎる。あまり前に出る子供ではなかったが、誰よりも負けず嫌いで、誰よりも聡明で、事態を上から俯瞰できる能力を持っていた。器用な反面、規範からはみ出せず、没個性的なところがあった。自由で奔放だった茜や、独創的な感性を持っていた弟の喬宮(たかみや)安己(あき)に対する劣等感は、子供にしては毒々しいほどだった。だがそれを攻撃性に転じることは決してなかった。人に危害を加えることを何よりも恐れた。少々、情に希薄なところはあったが、それは彼なりの愛情表現だった。央宮は瞬が面倒を見た子供たちの中で、最も瞬と似た不器用さを持った子だった。
 瞬はほとんど黒に近い央宮の濃紺の瞳を覗く。その奥に揺らぎはない。強固な意志だけが湧き上がっていた。央宮は鼻に皺を寄せた。
「だが、それはつまり、お前の拠って立つ場所も消えるということだ」
 央宮は瞬に背を向けて、首をのけぞらせて空を見上げた。
 瞬は後悔した。喉の奥が張り詰めた。これは央宮に任せるべき役割でないと思った。彼は仕事を誰よりも如才なくこなす。だがその分、誰よりも痛みを身篭る。
 傷が癒えないまま、瞬は自分の悲哀に鞭打った。自分を守るために誰かを傷つけるようなことはしたくなかった。もう何も繰り返したくなかった。避けられないならば、いくらでも傷を受ける覚悟はあった。
「勘違いするな、築己(きずき)。俺は最初から、ここが自分の居場所だとは思っていない」
 瞬は素っ気なく嘯く。央宮を癒すには、彼を突き放すしか瞬には手立てがない。体は大きくなったが、涙を隠す背中は、子供の頃のままだった。瞬は煙草に火をつけた。その音を聞きつけて、央宮は瞬を振り返る。柱に背を預けた瞬は、上目遣いに央宮を見た。
「聞いているだろうが、俺はお前たちの教育係として城へ来たわけじゃない」
「ああ、父上が逝かれる前に聞いた。天水の時間流操作の話だろう」
輝宮(てるみや)がいなくなったんだ。俺も晴れて自由の身だ」
 瞬は煙草を持つ手を軽く広げた。央宮は瞬の芝居に困惑しながらも乗った。顔を軽く撫でて、吐息まじりに微笑む。
「確かに。お前をここに繋ぎ止めるものは、もう何もない」
 央宮は暗涙の余韻を断ち切り、花摘みに精を出している羅依を見つめた。
「だがな、瞬。いつでも顔を見せに来いよ。お前が来てくれないと、姉さんにも会えない気がするんだ」
 空に鳥が舞う。花壇の上で何度か旋回し、歌いながら城の向こうへ消えた。服の中で鍵を握る。もう二度と、央宮と茜の話をすることはないと思った。
「国崎がいなくても城門を検査なしで通してくれるなら、考えてやってもいいかな」
 無表情に言ってのける瞬に、央宮は哄笑し手を叩いた。瞬はそれを横目に見て、口元を歪めた。吸い込んだ煙に身を委ねる。
 世界の上澄みを舐めて、時間が流れていく。無意味だと嫌悪していた社交も、今はすんなり受け入れられた。
 瞬は自分の変化に驚きながら、真正直な孤独と揺らめく楽園に挟まれて、生きる心地を噛み締めていた。