THE FATES

2.邂逅(13)

 城の裏門からは丘陵地のなだらかな斜面に沿って、段差の甘い階段が伸びていた。それは王家代々の廟へ続く道である。黄ばんだ石が敷き詰められ、両側には緑が広がっていた。手付かずのまま、伸び行くままに根を張っている。芝は先まで続き、断崖で切り落ちた地面の端まで覆っていた。
 階段の先には空から僅かに降る光を、全て集めたような白さで、リノラ神殿に似た石造りの建造物が聳えていた。見下ろす屋根に含まれた硝子が光を弾く。瞬は目を細めて強い風を嫌った。初めてここへ来たときの戸惑いが思い出されて、瞬は足を早めた。自分は生き人で、相手は死に人で、自分は彼らを見下ろし更に自由で、彼らは常に頭上を眺められて更に崖へ追いやられているというのに、なぜか優越感の欠片も感じられなかった。むしろ跪かずにはいられない焦燥に駆られた。
「死の優位」
 瞬は小さく呟いた。声は風に消されて、羅依に届くことはなかった。瞬は兄に対して抱く一種の憧れを、この廟に抱くのだった。
 崖の向こう、地平線は果てしない砂の大地に占められていた。石畳の上には吹き上げられた砂が薄く積もり、靴に踏まれてきしきしと鳴いた。瞬は地面を蹴り上げるたびに、砂を噛むような心地がしていた。
 肩越しに城を振り返る。城壁の向こうに旗が抗っていた。
 いつでもこの世界を掌握できる。
 その昂ぶりが却って瞬に、王家に対する畏怖を植え付けたのかもしれなかった。折角手に入れたものだ。卑小なものでは割に合わない。誰よりも何よりも尊く強いものであってほしかった。
 輝宮の依頼を受けたとき、すでに王家に対する恨みはなかったのかもしれない。瞬はあらためて自分の心を顧みて、再び廟へ向けて歩き出した。
 龍羅飛が総攻撃を受けてから、もう二五〇年近くが過ぎていた。土地を荒らされ、家族を殺され、生きることを阻害され、尊厳も人格も人生も何もかもを踏みにじられた。瞬はこの世に満ちる全ての憎悪を貪って、王家に復讐することだけを考えた。
 生き延びることを考えたのは、自分が死んでは最後の望みが絶たれると思ったから。強くなろうと考えたのは、そうでなければたった一人で太刀打ちできる相手ではないと思ったから。そのためには何でもした。どんな辱めを受けようとも、どんな罪を犯そうとも、その先に一族の無念を果たす旗があるのなら、全ては些細なことに思えたのだった。
 だがいつしか旗は霞み、自分の中に巣食う寂しさを紛らわすだけの日々が訪れた。夜を越えるために女と肌を重ねるたび、刹那的な快感に溺れて虚しさを募らせた。悪に手を染めるたび、記憶に咲く母の笑顔はしぼんでいった。人を一人殺めるたび、心の旗は風に千切れた。
 今ではもう母の笑顔はおろか、輪郭も声も優しさも思い出せなくなっていた。父の威厳も兄の眼差しも師の聡明さも、全てが時間の流れに飲み込まれて消えた。それからだった。瞬の王家を憎む気概は徐々に削がれていった。
 階段を下りきると、頑丈な石で造られた塀が行く手を阻んだ。見上げた廟は灰色の空を背負い、瞬の視界を占めた。空との境目から、弾けた光がこぼれる。瞬は俯いて煙草をくわえた。しかし強い風に、なかなか火はつかなかった。視線を横に流すと、地平に見えていた砂漠は崖に遮られていた。芝の先には空が繋がっていた。まるで世界の果てにいるようだった。
 塀の手前には献花台が設えられており、摘んだばかりと思われる瑞々しい生花が供えられていた。羅依がそこへ花を置こうとしたので、瞬はそれを制した。不思議そうに見上げてくる羅依を横目に、瞬は目線より高い塀に登った。
「ちょっと」
 羅依は慌てて周囲を見渡した。
「誰も来ないよ」
 瞬は塀の上に悠々と腰掛け、羅依へ手を伸ばした。
「花、邪魔だろ」
「あ、うん」
 羅依は爪先立ちをして、なるべく花が傷まないようにそっと花束を手渡した。受け取ると、思っていた以上に重かった。茎の切り口を包む部分は花から染み出す汁に濡れ、淡く染まっていた。布全体には、抱いていた羅依の温もりが残っていた。突風が体に開いた穴を吹き抜けていく。羅依は身軽に塀へ登ってきた。
「先に行け」
 そう言うと、羅依は黙って飛び降りた。振り返って瞬を待つ。瞬は花束を再び羅依に託し、塀から降りた。塀の上から見た景色は、昔に見たものよりも穏やかだった。
 瞬は羅依に先立って歩き、廟への階段を上った。階段には廟自身が陰になり白い輝きはなかった。
「なぁ、瞬。ここは」
 羅依の靴の踵が磨かれた石によく響いた。数段の階段を上った先にも、上から見たときのような光はなかった。柱や壁の合間から回り込んだ光が、床をところどころ照らすだけだった。
「天水王家代々の御廟だ。王家筋の者と、稀に側近なんかも入る」
 強い風と大きな空間に、声はすぐにも消え入りそうだった。自然と二人の距離は縮まった。
「だけど、どこにも墓らしいものは」
 瞬のすぐ横で羅依は周囲を見渡した。中は柱が狭い間隔で立ち並び、見通しは悪かった。瞬はすぐ横に立つ柱の下部を指差した。ちょうど羅依の膝の辺りに、文字が彫られていた。
「これが、そうなのか。この柱が」
「そうだ。生きている間は国を支え、死んでからは屋根を支える」
 脳裏に、階段から見下ろした廟の屋根が甦る。瞬は羅依に言いながら閃いた考えに、思わず戦慄した。
 だから、あの屋根はあんなにも輝かしいのか。神々しいのか。
「この字だけどの柱にもあるな。王家筋ってことか」
 羅依は柱をいくつか見て回り、刻まれた宮の字を指でなぞった。
「ああ」
「これ、何かで見たことある気がする」
「当然だろう。ほとんどの文字はお前たちと共通しているからな」
「あ、紅の名前」
 羅依は小さい声で言った。瞬は聞こえない振りをした。
 腹の底から欲望が湧きあがる。理性がこれ以上他人を巻き込むなと冷たく諭す。逡巡を嘲笑するように、風が強く啼いた。潮の香りが、甦った。
「羅依、お前はどう思った」
「何が」
「紅のことだ」
 瞬が振り返ると、羅依は俯き押し黙って歩いていた。懸命に言葉を探す彼女に、瞬は口元を綻ばせた。彼女の素直さが瞬にはありがたかった。花を介して伝わった優しさが瞬の体に満ちていく。胸に温もりが広がった。
 瞬は城内での自分を思い出し、妙に納得した。何度も感じた苛立ちや憤りを抑えることが出来たのは、彼女のこの実直さがすぐそばにあったからだと思えた。一人立つ世界の中にあって、確固たる安心を感じていた。そして同時に、彼女の存在が瞬を必要以上に感傷的にもさせていた。
「悪い、無理をさせた」
「そんなことない。だってこれは大事なことだ」
 羅依は横に並んで見上げてくる。瞬は彼女を一瞥して首を振った。
「お前には誰も非難することができないだろう。聞いたのは酷だった」
「またそうやって、一人になろうとするのか」
 羅依は声を大きくして、瞬の袖を引いた。瞬は思わず立ち止まった。真っ直ぐ見つめてくる瞳に、胸の奥の塊が脈打った。もしも自分に前だけを見ることが出来たなら。それが許されるならば、彼女を抱きしめたいと思った。衝動に指先がわずかに痙攣した。だが瞬には、羅依である必要性が見つからなかった。
「だったら、お前に背負えるのか」
 言ってから、瞬はひどく後悔した。顔を歪めて、羅依の手を振り払った。彼女の顔を直視することが出来なかった。瞬は背を向けて再び歩き始める。羅依が背負うと言ってくれるのを、心の隅で待っている自分がいた。どこまでも都合のいい自分に反吐が出た。自分で自分を背負うことすら出来ないくせに、彼女の真っ直ぐすぎる気持ちを疑い、信じきれず、傷つけるまで試そうとする自分が哀れだった。
 ただ無性に寂しさが込み上げた。何がそうさせるのかわからなかったが、胸が凍え、喉が潰されるほどの寂しさが体中を占めていた。泣けるなら、大声を上げて泣きたかった。だが茜が死んだあの瞬間から、一粒の涙も流すことが出来なくなっていた。
 しばらく途切れていた足音が追いついてきた。瞬は心を閉ざして、背中を固くした。羅依はそれに気付きながらも、変わらずついてきた。
「紅は、由稀といたがると思う。あいつら、仲いいから」
「俺がすぐ近くにいてもか」
 瞬は羅依に歩調を合わせた。羅依は小さく頷いた。
「それでも、最後にはそうすると思う。だってあいつ、友達ほしいって言ってたから。気持ちがわかるんだ。離れたくないはずだよ。由稀もね、そう言ってたし」
「少なくともお前は、それが紅のためになると思うか」
「うん。きっと由稀も同じこと言うよ」
 羅依は自信を持って頷いた。
「瞬が怖がったら、紅には行き場がない」
 瞬は羅依の横顔を見下ろした。淡紫色の髪が風に靡いて瞬の服に触れた。
 親を亡くした子の気持ちは自分が一番わかっているつもりだった。だからこそ、どんなにつらくても、どんなに厭われても、茜の死の原因である自分は、いつまでも紅のそばにいようと決心したのだった。すぐに揺らぐような心意気だとは思っていなかったが、支えるだけの地盤が瞬にはなかった。
「お前たちが言うなら、間違いないだろうな」
 そう言って瞬は、涙の代わりに笑みを浮かべた。
 柱の合間に、人影がよぎった。向こうも気配に気付いたのか、二人の正面へ歩み出てきた。
「瞬」
 男は声を震わせた。瞬には聞き覚えのない声だったが、男から滲む穏やかさには覚えがあった。
「陣矢、か」
 男は見たところ、四十を随分と越えているようだった。樹皮のように深みのある茶色の髪に、央宮と比べて明るい紺色の瞳が親近感を覚えさせた。黒い上下に、中には襟のない軽快な服を着ている。上背は亜須久ほどあり、瞬は男の顔を見上げた。
「見違えた。大きくなったんだな」
「もうすぐ五十になるんだ。それは語弊があるだろう」
 陣矢は、笑うと右の頬にだけ笑窪が出来た。昔の面影、そのままだった。
「輝宮に挨拶に来たんだが、もう一人会ってやらなきゃならないな」
「聞いたのか、喬宮様のことを」
「さっき、築己から」
「そうか」
 陣矢はそよぐ風のように穏やかな目をした。
「案内しよう」
 瞬は陣矢の背を見上げて、感謝に溢れた。抑えきれない感情を弔うため、瞳を閉じる。瞼の裏に光が宿った。