THE FATES

2.邂逅(14)

 喬宮(たかみや)を参ってから、輝宮(てるみや)の墓柱の前に立った。瞬は柱に刻まれた名前と視線が合うように、低くしゃがみ込んだ。おもむろに煙草を取り出し、体を丸くして火をつける。一口吸うと、柱の足元に置いた。色のない世界に、赤い火が咲いた。
 目的のためなら手段を選ばない、そういう冷たさを併せ持った王だった。しかしその冷たさは、有り余る慈しみの裏返しでもあった。国の繁栄のため、輝宮は生涯、弱者救済への尽力を惜しまなかった。今になって思えば、それは国力のためだけではなく、彼の心から湧き上がる愛情だったのだ。
 瞬は彫られた字をなぞり、淡い笑みを浮かべた。
 だからこそ、自分も救われたのに。
「まるで裏切りだな」
 瞬は呟いた。羅依も陣矢も、言葉をかける隙間はなかった。
 天水王家を全滅させようと心を憎しみに焦がしていた頃は、まさかこんな結末が訪れるとは思っていなかった。あの頃の自分に今を知ることが出来たなら、諸手を上げて喜んだことだろう。しかし今の瞬を占めるのは、ただただ申し訳ない気持ちと、尽きない悔恨だった。天水を守るためとはいえ、世界にとって毒のような自分を起用した、当時の輝宮の判断をなじった。
 煙草はその身を灰にしていく。そして灰になったそばから風にさらわれた。
「だけどそれも、輝宮様の運命だったんだろう」
 陣矢は重い口を開いた。瞬は背後の彼を見上げた。
「受け入れろと言うのか」
「あぁ。それを呑んでこそ、王だろう」
 強い風は更に煙草の命を縮めた。瞬は火が消えていくのを見届けて立ち上がった。
「羅依」
 半分になった花束を指差し、彼女に花を供えるよう促した。羅依は花束の布を取り去って、柱の前に並べた。力の限り咲く花が、墓柱を彩る。その様子を見ながら、瞬は茜の体を手放したことをあらためて悔やんだ。
「陣矢、面倒をかけたな」
「いや、会えてよかった」
 陣矢の言葉は歯切れが悪かった。
 羅依が花を並べ終わるのを待って、瞬は輝宮の墓柱の前から離れた。砂漠を見渡せる場所までいき、遮るもののない風に晒される。瞬はそばに立つ陣矢を横目に見た。
「紅の世話係だったそうだな」
「私には大役だった。尋宮様直々のお話でなければ、辞退していたかもしれない」
「あいつの体術を見て、すぐに陣矢仕込みだとわかった。相変わらず詰めが甘い」
「そうか、意識はしてなかったんだがな」
 陣矢は困りながら笑った。
「それがお前のいい所だよ」
 瞬は陣矢の横顔を見上げて、茜の人選に感謝した。
 陣矢は側室の子であるがゆえに、宮名を持つことは許されなかった。だがそのような境遇を感じさせないほど、誰よりも穏やかでのんびりとしていた。花の世話も廟の掃除も、陣矢が率先して行なった。下男とも親しく話し、分け隔てのない愛情を持った子供だった。争いを嫌い、競る状況に陥ると自ら身を引いた。そのため、損をすることも多く、瞬は陣矢が不利にならないよう常に気を配った。
「貴宮様は」
「来ている。一応、城へ帰らせるつもりだ」
 央宮と羅依の言葉を思い出し、語尾が思わず濁った。
「瞬も城へ帰ってくるのか」
「いや、俺はこいつらとやることがある。それが終われば、またアミティスに戻る」
 瞬は羅依を振り返って言った。陣矢も瞬につられて彼女を見た。話の流れがわからない羅依は急に注目され、居心地悪そうに視線を逸らした。
「それは、貴宮様も承知のことなのか」
「さぁな」
「また、独断か」
 そうこぼした陣矢に、瞬は返す言葉がなかった。
 陣矢は目を細めて、砂で霞む地平線を眺めた。
「彼の、煙草入れを見たか」
「ああ」
「あの日、瞬からもらった。まだ十だった私に。普通はやらないだろう」
 陣矢は、強い風の威力も削ぐような朗らかさで微笑んだ。
「だけどきっと、その違和感よりももっと悲しい違和感を、子供心に感じていたんだ。だから、何も言わずに受け取ったんだと思う。それから七年間、あれは私の宝物だった」
 陣矢は廟の階段まで戻り、腰を下ろした。翳って濃く見える陣矢の樹皮色の髪は、瞬の兄とよく似た色合いだった。瞬は背中に砂漠の風を受けながら、陣矢の大きな手を見つめた。
「貴宮様が十歳になったときに贈った。あれが私の大切な物だと知っていたから、とても喜んでくれたよ。それはもう、記憶に焼きついて離れないほどに」
「そう、か」
「だけど、それだけで喜んだわけじゃないと思う。知っていたんだよ、あの煙草入れが元は誰の物だったのか。瞬の物だったと。自分の父親の残した物だと」
 陣矢の眼差しは砂漠を撫でる。彼の慈悲は、歳を重ねることで更に純化され高められているようだった。
「彼にとっての父親は、瞬だけなんだよ」
 陣矢の大らかな紺色の瞳が、瞬に向けて微笑んだ。瞬はそれを直視できず、地平を見遣った。言葉は瞬の胸に溶けた。広がって、凝り固まっていた悲しみを覆い包む。瞬は奥歯を強く噛んで、頬で風を受けた。喉の奥が焼けるように痛かった。
 背後で、砂を踏む音がした。
「彼を、愛してやってくれ。私たちを愛してくれたように」
 陣矢は階段から降りて、頭を下げた。
「瞬にしか、できない」
「信用していいのか」
 掠れた声が、風に抗って陣矢の耳に届く。陣矢は体を起こして瞬の背中を見つめた。
「十七年間ずっと、そう、天水を出られる直前まで、私は貴宮様を見続けた。確かに篤い信頼はいただいた。どんな喜びも苦しみも共有させてもらった。それでも父親という壁を越えられなかった」
 悔しげな呟きも、陣矢がこぼすと清涼なものになった。瞬の体は渇きを癒すように陣矢の言葉を飲み込んでいく。
「わかってくれ。私のこの絶望感はもう、瞬にしか拭えないんだ」
「俺にしか……」
 瞬は服に突っ込んでいた拳を出して、おもむろに押し開いた。
 この手で数え切れない罪を犯してきた。世界に本当に神というものがいるのなら、誰よりも先に絶たれるべき所業を繰り返した。途切れない命を不思議に思い、生きているのではなく、生かされているのだと感じることもあった。そうやって生の苦しみを背負い続けることが、自分に課された天罰に違いないと思った。しかし思考はいつも同じ場所で二の足を踏んだ。
 ならばなぜ、老いという枷を負わせないのか、と。
 龍羅飛(りゅうらひ)は長寿ではあるが、個人差はあれ、徐々に老いる。その速度が人間より遅いというだけで、実際に瞬も一族を喪った頃に比べれば、外見的にいくらか歳を重ねた。だがそれも二百年前から動きがない。瞬にはその不可思議を、見ることも叶わない神の意志と思うほかなかった。
 掌に刻まれた皺に、うっすらと爪の食い込んだ痕が重なってあった。生き生きとした淡い紅色で、手を大きく広げるほど、はっきりと浮かび上がった。
 この体が老いを知らないということは、まだ自分には遣り残したことがあるということだろう。まだ世界に必要とされているということだろう。
 神は、この命を尽くせと言っているのか。
 世界のために燃せと。
 庇護することでしか何かを守れなくなる。それが老いるということだ。だがまだ自分には攻められる。攻めて永遠の平穏を手に入れることも不可能じゃない。
 罪を相殺することはできないかもしれない。そもそも犯した罪は消えることはないし、何かで償えるものではないのかもしれない。だが自分の命を燃やすことが、傷を抱える世界の意思なのだとしたら、いくらでもくれてやろうと瞬は強く思った。
 悲しみも苦しみも、未来を生むものなら厭いはしない。
『瞬が怖がったら、紅には行き場がない』
『わかってくれ。私のこの絶望感はもう、瞬にしか拭えないんだ』
 瞬の中に渦巻いていた恐怖は、風に攫われて消えた。
『てめぇと同じ血が流れてると思うと、ぞっとするよ』
 微笑みは、歓喜に歪んだ。
「わかった」
 瞬は振り返らずに言った。陣矢は目尻に皺を寄せて静かに喜んだ。
 瞬の色素の薄い前髪の隙間から、光がこぼれる。瞬は空を見上げた。世界がその身を顧みず振り絞った輝きが、瞬の頭上にも散りばめられていた。
 灰色の空は青天のごとくきらめいた。