THE FATES

2.邂逅(15)

 記憶の中に、天水を出た日の午後が蘇る。(こう)は後悔をもって、その記憶に身を委ねた。斜がかかった過去には、白衣姿の女性がいた。
 彼女の長い睫毛には、いつも憂鬱な陰が下りていた。表情のないのが自分にとっての笑顔だと、彼女はいつも繰り返した。そう聞くたびに、紅は心から笑顔になれた。愛しさを覚えた。紅はそれが彼女なりの愛情なのだと思った。
『いつまでも研究室にいることが、あなたの夢を叶えることにはならないわ』
 あの日、精巧に出来た機械の顔で、彼女はそう言い捨てた。
 その横顔と首筋があまりにもきれいで、紅は彼女の頬を殴った。固い感触に手を引くと、彼女の冷たい瞳が紅を射た。紅は研究室を飛び出した。そして天水からも飛び出した。
 すぐに謝ることが出来なかった。だから頭を冷やしたらすぐに、彼女の元へ帰ろうと思っていた。今度こそ、将来について語り合おうと。
 こんなにも長い間、ここを離れるつもりなどなかった。
 そして今、紅は絶望の只中にいた。
「嘘だろ」
 曇天を背負う煉瓦造りの建物を見上げて、紅は小さく呟いた。懐かしい砂色の外壁に、見慣れた施設名はなかった。
「おい、大丈夫か。紅」
 由稀(ゆうき)に肩を揺すられて、紅の耳にようやく外の音が届く。紅は我に返って、道行く男を呼び止めた。
「あのさ、ここっていつから地質研なんだ」
「は」
 中年にさしかかった男は、眉をひそめた。
「前は伝研だったんだけど」
「伝研?」
「そう。遺伝子病理学研究所」
「あぁ、そんな研究所もあったかな」
 男は建物を見上げて、覇気のない声で言った。
「だけどここは二十四年前から地質研だよ。私が入学した年にできたから、よく覚えている」
「そうか」
「先生方なら、何かご存知かもしれない。聞いてみたらどうだい」
 男は紅の身なりを上から下まで観察して、一笑した。
「関係者か何かかい。それにしては若いね。一般は立ち入り禁止だろう」
 男の視線が、道の向こうに何かを捕らえた。紅は振り返って、警備員の姿を見止める。とっさに由稀の腕を掴んで、紅は男の前から走り出した。後ろから飛ぶ制止の声を振り切って駆けた。
 敷地から出て、角を曲がる。追っ手の姿はなかった。
「どうしたんだよ」
 事情を飲み込めない由稀は、学院通りを振り返って言った。紅は由稀に顔を向けずに、俯いて歩いた。由稀は仕方なく黙って、紅の後に続いた。
 紅の心に、由稀に対する申し訳ない気持ちがないわけではなかった。だが紅自身がまだ、人に何かを説明できるような状態ではなかった。
 瞬から城へ帰れと言われた時、真っ先に浮かんだのが研究室だった。城は彼にとってあくまでも形式的な家であって、本当に帰る場所ではなかったからだ。数十年が経っているのだ。自分の知らない場所になっていることは覚悟していた。だが、すっかり無くなっているなどと、考えもしなかった。
「そんなつもりじゃなかったんだ」
「え」
 紅の小さな呟きを由稀は聞きつける。紅は眼鏡越しに由稀を見上げて、深いため息を吐き出した。
「俺の研究所が、無くなってた」
「どういうことだよ。場所が変わったとかじゃないのか」
「さぁな。だけど昔あった場所にはない」
 工場区へ繋がる夕天橋(ゆうてんばし)にさしかかると、紅は立ち止まって欄干にもたれた。橋の下は深く掘られ、何層にもなった貧民居住区があった。下から風が吹き上げる。風の唸り声と子供の甲高い声が綯い交ぜになって、耳元を塞ぐ。紅は腰に下げた鞄から、煙草入れを取り出した。火をつけようとするが、つかなかった。
「調べないのかよ」
 尖った声で由稀は言った。紅は驚いて友人を見た。由稀は憮然として紅を見下ろしていた。目が合って、紅はとっさに顔を背けた。
「調べたからって、どうなるんだよ」
 背中を風除けにして、紅はもう一度煙草に火をつけようとした。しかしそれでも火はつかなかった。
 落胆する紅の目前に、由稀の腕が伸びた。もぐようにして煙草入れを奪う。
「なにすんだよ」
「少なくとも、ここで感傷に浸ってるより有益だと思うぜ」
 睨み上げた先、由稀の黒い瞳が冷たくきらめいた。紅は返す言葉を失った。
「事情を話せばきっと教えてくれるだろ」
 由稀は煙草入れを見つめて、目を細めた。どこまでも楽観的な友人に紅は苛立ち、背を向けた。
 背後から、絶望的なため息が響いた。
「瞬と同じだな」
 紅は歩みを止めた。由稀は冷めた口振りで続けた。
「俺は別にお前が幸せだとか不幸せだとか、そういうことに口を出すつもりはない。だけどな、苦しいのはお前だけじゃないってことを忘れるな。自分だけが悲劇を背負ってるなんて、そんな思い上がりは喜劇にもならねえんだよ。悲しみ振りかざしても、虚しいだけだ。逃げたところで、どこにも行けやしないんだ」
 苛立ちが天を衝く。紅は振り返って由稀のそばまで歩み寄ると、その胸倉を掴み上げた。由稀は眉ひとつ歪めずに、声を落として言った。
「比べられるもんじゃないんだよ。みんなそれぞれ、抱えてる。だから最後は自分にしかどうしようもできないんだ」
 空色の眼差しが、闇に染まった瞳に宿る。紅は由稀の痛みを垣間見た。
「きれいごとだ」
「どっちがだよ」
 由稀は苦笑して紅の手を振り解いた。その手に煙草入れを握らせる。
「調べてきてやるよ。人の悲しむ顔は嫌いなんだ」
 そう言うと由稀はあっけないほど簡単に、紅に背を向けて走り出した。橋の向こうに黒髪が吸い込まれていく。紅は胸に漂う感情を持て余して、石造りの欄干を蹴りつけた。靴に白い傷が付き、足が痺れた。
 橋には他に人影がなかった。工場へ行く以外用途のない橋だ。すでに一日が始まっているこの時間では当然の光景だった。
 由稀の前向きな姿勢が、生来の楽観的な性格だけでなく、由稀を襲った現実にも起因することは、紅も薄々感付いていた。自分があの立場なら、立つことすらままならない。由稀から見れば、自分は甘く見えるのだろう。紅は眼鏡を外して笑った。
 橋の向こうから、工場の稼動音が響く。足に振動が伝わる。時折、橋が落ちるのではないかと思わせるほどに揺れた。紅は不安になってその場にしゃがみ込んだ。膝を立てて抱える。じっと靴の先を見つめる。淡く曖昧な影が紅の周辺に滲んでいた。
 振動で波立ち水がこぼれるように、見たくない自分が縁から飛び散る。自分ではどうにも制御できない場所へ浸水していく。染みて、由稀へ対する羨望が嫉妬になる。
 初めて由稀を見たときから、あの空色の髪に憧れた。そしてそれに負けないほど大きく強い心に惹かれた。自分も彼のように家族に恵まれて育ったなら、どんな困難も前を向いて乗り越えられたかもしれない。そう思うようになった。
 靴の爪先についた傷を、指先で撫でる。吹き上がってくる風にそそのかされて、背中に負の感情が這い上がる。
 そもそも羨望であることが欺瞞だったのかもしれない。
 紅は自分の中に確かに沸きあがった思考に戦慄した。なんと醜い感情。錯覚であってほしいと願った。純粋が僅かに行き過ぎて、影帯びたように見えただけだ。紅は水の中で必死に息継ぎをするように、襲いかかった心の闇から逃れようとする。手の中に煙草入れの固い感触が撥ね返る。
『瞬と同じだな』
 真っ黒い闇の波が、風にあおられて紅を飲み込んだ。紅は腕を振り上げた。光の速さで、脳裏に直後の光景が浮かぶ。銀色の煙草入れが想像の中で壊れていく。投げ捨てるはずの腕は悲しいほど律儀に止まった。
『いいですか、貴宮(あつみや)様。これはあなたの誇りです』
 そう言って、陣矢(じんや)はまだ子供だった紅に煙草入れを握らせた。陣矢がどれだけ大事にしていたものか、紅はよく知っていた。だから、一人の男として認められた気がした。
『誇りって、どういうこと』
 紅は両手でそっと握って陣矢を見上げた。一番乗りの夜空のように浅い紺色の瞳が、紅を見つめながらも遠くを見ていた。
『祝福されて生を享けたということですよ』
 そして滅多に笑わない陣矢が朗らかに微笑んだ。それだけで、紅にはこの煙草入れが、かけがえのない物になった。
 幼い紅は、小さな胸を躍らせた。
『じゃあ、お父さんが帰ってきたら、僕、ちゃんとありがとうって言うよ』
 子供ながらに愛を悟った。子供だからこそ盲信した。信じるほかに選択肢があるなど、その時は考えもしなかった。
「くそ……っ」
 紅は煙草入れを両手で握った。
 信じたはずの愛は、いつしか行き過ぎ憎しみに変わった。欲しいと強く願うから、肌は熱を失った。何もかもが自分の純真とは逆へ進む。そして真実へすりかわる。
 銀色のつやのない表面を、指の腹でなぞる。圧倒的な力を見せ付けられ、心が怯んでいた。埋め込まれた鏡に全てを見透かされているようで、気概が萎えていた。だが何も映さない輝きは、紅に失われかけていた情熱を思い出させた。
 自分に裏切るという言葉の意味を、あの男は身をもって示した。ならばその返答を裏切りの報いとして示さなければならない。
 茜の苦労を、陣矢の悲しみを、自分が晴らすと心に決めた。紅には瞬を楽にしてやるなど出来ない。自分が近くにいることで、必ずやあの男には傷が増えるはずだ。
 人を羨んでも虚しさが募るだけで、もし同じものを得られたとしても、自分のものになればすぐに飽きる。ずっと生き続けるのは唯一、自分の中から生まれたものだけだ。忘れても取り戻せる。いつだってこの手の中に返ってくる。
 帰る場所など、まだ欲しくない。
 全ての憎しみに終止符が打たれたとき、もしも自分に未来を見つめる瞳があったなら、そのときに帰るべき場所を見つけられるはずだ。
 紅は外していた眼鏡をかけた。世界が淡い紅色に染まる。世界など、眼鏡一つで様相が変わる。虚飾だらけの世の中で、信じられるものなどあろうはずがない。色を変えぬものなどないのだ。
 あるとしたら。
「悪い、紅」
 息切れた様子で由稀が駆け戻ってきた。紅はおもむろに友人を見上げた。眼鏡を通して見ても、彼の瞳の色は変わらない。
 あるとしたら、この闇よりも深い瞳だけだ。
 紅は由稀に向かって呆れた笑顔を見せた。
「お前、本気で行ったのかよ。馬鹿じゃねえの」
「馬鹿はないだろ。つーか、今日で何回目の馬鹿だよ、それ」
「んで、調べてきてくれたんだろ」
 紅は銀色の煙草入れを開ける。内側には小さな文字が書き連ねられていた。その一行を紅は目で追って、煙草を取り出した。
 由稀は口篭もりながら欄干にもたれた。
「いや、それがさ、さっきの警備員にまた追いかけられて」
「は」
「すっげ叫んでたけど、何叫んでるのかわかんねえし、とにかく逃げてきた」
「はぁ? なんだそれ」
 紅は腹を抱えて笑った。
「そう言うけどな! 言葉がわからない不安をお前は知らないから――」
「ありがとうな」
「は」
 由稀は目を丸くして耳を疑った。
「お前、今なんて言った」
「腹減ったなぁ。向こうで食ったきりだよな」
「おい。お前いつもそう言って逃げるだろう。たまには質問に答えろ」
 由稀は紅の服を引いて迫るが、紅は涼しい顔で煙草に火をつけた。火は一度目でついた。
「馬鹿じゃねえ」
 紅は横目に由稀を見て笑った。由稀は舌打ちして背を向けた。
「なんで俺の周りはこういう奴ばっかなんだ」
 呟きが風に散る。紅は立ち上がって服に付いた砂を落とした。
『ねぇ陣矢、これ難しくて読めない』
『仕方ないですね。では今日は読んで差し上げますが、数字だけではなく、ぜひ古語にも力を入れて下さい。いつかきっと役に立ちますよ』
 思考を記憶に委ねつつ、紅はふと不思議な偶然に思い至った。煙草入れの話をするときだけ、陣矢はよく笑顔を見せた。
『勉学に励まれ、あなたの道にいつも希望が溢れますように』
 紅は陣矢に会いたいと自由な心で思った。
「光陰は千切れず土に眠り、朝日は絶えず塔に登る」
「何」
 肩越しに由稀が振り返る。
「頭が良くなるおまじないだよ」
 紅は由稀の背中に追いつき、煙草入れを鞄に仕舞った。