THE FATES

2.邂逅(16)

 由稀は橋から下を見下ろした。深い谷には何重にもなって住居が構えられていた。最下層は橋の上からでは見えなかった。市場の活気や研究所などの大きな施設からは想像できない、薄暗く貧しい景色だった。
 上から見える通路で、二人の男が服を掴み合って口論をしているようだった。それは次第に激しくなり、一方が手を上げた。血の色が飛んだ。
桟楽(さんらく)。いわゆる貧民街だよ」
 紅が横に立って言った。眼鏡の隙間から下を見る。
「工場の煙や廃棄物の被害が出る地域なんだ。元々、人は住んでなかったらしいけどな。行く場所なく、ここへ」
「国は何もしないのか」
 由稀が育った街も、決して豊かではなかった。悪政のもと、民はみな窮していた。だがそれでも、日々の生活を少しでも明るく乗り越えようという気概があった。ここにはそれすら感じられない。生きながら、死んでいる。
「じいさんの代では色々やってたらしいけど、茜はそんなに力を入れてなかった。健康被害の報告も、あまり上がらなくなったんだ」
「上がらなきゃ、やらないのか」
 逝った者への非難は卑怯と知りつつ、由稀は言葉を抑えられなかった。紅はじっと黙って言葉を飲み込んでいるようだった。それに気付いて、由稀は口を噤んだ。
 由稀の横をすり抜けて、紅は欄干から離れた。すぐに追いついて、由稀は声を落とした。
「悪い」
「別に。俺のことじゃないし、本当のことだし」
 紅は煙草を口に咥えて、妙に明るい声で言った。由稀は紅の変化に驚くと同時に、自分のことのように嬉しかった。
「これからどうすんだよ」
「腹減ったって言ってるだろ。メシだよ、メシ」
「あ、そう言えば」
 由稀は出しなに瞬から渡された小さな紙を思い出した。服の中をあちらこちら探して紅に差し出す。瞬の字を目にした途端、紅は口を歪めた。
「なんだよ、これ」
「瞬が、ここで落ち合おうって」
梅詩亭(ばいしてい)か。何か食えそうだな」
「場所、わかるか」
「かなり大雑把だけど、なんとかなるだろ」
 紅は紙を由稀に返し、橋に設置された灰皿へ小走りで寄って煙草を捨てた。由稀は桟楽の喧騒を横目に見下ろして、眉を寄せた。殴り合っていた男が一人、動かなくなっていた。もう一人は姿がない。由稀は恐ろしくなって欄干から離れた。自分と同じ本能や感情や理性を持つ者がするなら、いつ自分も同じような罪を犯すとも限らない。そのような狂気が自分には眠っているかもしれない。そう思うと、軽く拳を握ることすら罪に感じられた。
「お前は大丈夫だよ」
 いつの間にか横には紅が並んで歩いていた。
「お前は馬鹿すぎるほど頭がいいから」
 紅の横顔におどけた様子はなく、声も落ち着いていた。由稀は小さく頷いて、心の中で感謝した。
 夕天橋(ゆうてんばし)から学院通りへ戻り、警備員の姿がないことを確認すると、中央通りへ向かって歩き始めた。研究所や学校などの大きな施設を抜けると、延々と代わり映えのしない住宅街が続いていた。どの家も淡い色調でまとめられ、質素な造りをしていた。見上げた空は曖昧な灰色で、由稀は方向感覚を失いそうになる。紅は曲がり角で時折立ち止まるが、足取りには自信が感じられた。由稀は迷うことはなさそうだと、安堵した。
「なぁ、紅」
 呼びかけに、返事はなかった。由稀は構わず続けた。
「天水は曇ってることが多いのか」
「ずっとだ」
「え」
「ずっと曇ってる」
 紅は静かに言った。それは周囲の静けさも相まって、由稀には謎かけのように聞こえた。
「晴れないのか」
「直轄地に限れば、雨が降ることもないな」
 紅は眼鏡をずらして、空を見上げた。
「昔は、俺が生まれた頃は、それでも多少変化があったらしいけど。晴れた日には、空が水面のように揺らめいて、小波(さざなみ)の空って称されてたそうだ」
「どうして」
「さぁな。工場のせいとか、神罰とか、色々言われてるけど、どれも何の根拠もねえ」
「そうか」
 由稀は返す言葉を失った。紅と初めて会ったとき、髪を引っ張られた記憶があった。小さな子供のような目で、紅は嬉しそうに空色と言った。由稀にとっては当然だった空の青さも、紅にとっては特別だったのだ。知らなかったとはいえ、自分の常識を押し通していたことが恥ずかしかった。
「見られるといいな、小波」
 由稀の言葉に、紅は眼鏡をかけ直した。
 道には人通りが増えた。徐々に活気ある喧騒が近付いてくる。由稀にも見覚えのある店構えがちらほらと目に入った。中央通りはすぐそこだった。由稀は後ろを振り返った。重なる街並みのずっと向こうに、工場からの排煙が見えた。ずいぶん歩いた。
 紅は通りへ出る一つ手前で道を折れた。狭い道の両側には高い建物が聳え、空には細長い灰色が伸びていた。特に人通りが多いわけではないが、道の狭さが密に感じさせる。すれ違う顔を一人一人見ていると、由稀は急に故郷が懐かしくなった。
 住居と店舗が綯い交ぜになっているのか、店の看板のすぐ横で赤子をあやす少女がいた。人が出入りする隙間から、扉の奥が垣間見える。食堂は昼時のためか盛況していた。客はみな、帰り際に少女に声をかけていく。少女は口ずさむ子守唄が途切れないように、笑顔でそれに応えていた。
 砂色の外壁は古いものなのか凹凸があり、窓からは寝具や衣類が顔を覗かせていた。両側を空中で繋ぐ通路を見上げれば、欄干の間から顔を出して幼い子供が手を振った。由稀は微笑んで手を振り返した。
 由稀の心が大きく深呼吸をした。
「ちょっと雰囲気違うな」
博路(はくろ)って言って、かなり古い一帯なんだ。他種族からの移民も多いし」
 紅は道の両側を交互に見ながら、素っ気なく答えた。
「あの野郎、博路のどの辺りかくらい書いとけよな。めんどくせえ」
 一転して声を低くした紅に、由稀は手を広げて下げる仕草をした。
「まぁまぁ、落ち着け。時間なかったし」
「知るかよ」
 由稀は強情な紅に苦笑しながらも、ようやく日常に帰ってきた心地がした。博路の明け透けな賑わいが更に由稀の心をほぐした。
「あ、あった。ここだ」
 紅の嬉々とした声に、由稀は指差された看板を見た。瞬からの紙に書かれていた文字が見えた。赤地に黒で書かれた文字は、瞬の字とよく似ていた。相当古いものなのか傷みが激しく、ところどころ掠れていた。すぐ横には、下へ伸びる階段があった。
「開いてるかな」
 由稀は階段下を見下ろして呟いた。店の扉は上からでは見えなかった。階段に置かれた角灯には、まだ火が入っていなかった。散々歩き抜いて紅の空腹は我慢できる程度を超えようとしていた。周囲には腹を刺激する匂いが満ちている。
「俺もう無理」
「どうする」
「とりあえず他で食って、それからここに来ればいいんじゃねえの」
「そうだよな」
 由稀はそう言って階段から離れ、後ろを振り返った。思わず、息が止まった。
「うわ」
 由稀の驚きを見て、紅が振り返る。紅は目の前にいる人物を指差して、声を上げた。
「あ、お前、さっきの!」
「やめて失礼ね。指差さないでよ」
 少女は紅を睨んで手をはたいた。赤みが強く艶やかな朽葉色の髪が、ゆるやかに胸にかかり揺れた。灰色に翳る白銀色の瞳が、由稀と紅を射た。
「うちに何の用」
「え」
「梅詩亭に何の用があるのかって聞いてるのよ」
 少女の声は高すぎず、しかしよく澄んでいた。淡く色めく小さな唇を尖らせて、少女は二人を睨みつける。
「まさか、あいつらと手を組んだとか、そういうことじゃないでしょうね」
「そ、そんなんじゃないって」
 由稀は慌てて大仰に手を振った。
「俺たち、ここで待ち合わせようって言われて来たんだ。だけど店はまだやってないみたいだし」
「ここは夕方からよ。残念ね」
「なぁ、由稀。よそ行こうぜ。こんなうるさい女のいる店、開いてても入りたくねえし」
「あんた、とことん腹立つわね」
「おたくよりマシです」
「まぁまぁ、二人とも」
 由稀は二人の間に入り、紅の肩を掴んだ。背後から、扉の軋む音がした。
詩桜(しおう)、帰ってきたのかい」
 女性の威勢のいい声が階段に響いた。少女は身を翻して階段を降りていく。
「ごめん、ちょっと遅くなっちゃった」
「誰かと話してたみたいだけど」
「あ、ううん。何でもないよ」
 少女は首を振って、階段を見上げた。由稀と目が合った途端、すぐに顔を背ける。由稀は離れがたくなり、紅の腕を掴んで階段を降りた。
「お、おい」
 紅は階段を踏み外しそうになるので、抵抗できずに引きずられた。
 由稀は少女と話している女性に、瞬から渡された紙を見せた。中年にさしかかった黒髪の女は、それを見て真剣な表情になった。
「あいつは、読めるやつに読ませろって言った。おばさんに見せろってことであってるかな」
 由稀は自分の言葉が通じているのか不安になりながら、女から視線をそらさずに言った。女は悲しそうな目をしながら、静かに微笑んだ。
「あれの友達にしては随分若いねぇ」
 そう言って視線を由稀の背後にいる紅に向けた。
「そっちの派手なのは、久しぶりだね」
「は」
 女は紅の返事を無視して、扉を大きく開いた。
「入りな。特別に時間外営業してやるよ」
 包容力というより、彼女には男気という言葉がよく似合った。
 由稀は目を細めて喜んだ。
「ありがとう、おばさん」
 一歩店内に入ろうとして、女の腕に遮られる。
「いいかい、私の名前はおばさんじゃなくて、梅煉(ばいれん)ってんだよ」
 梅煉は由稀の頬をつねって、白い歯を見せた。
「ふぇい」
 由稀は情けない声で返事した。梅煉は納得して手を離した。大股で歩いて厨房へ入る。
「あんたたち、何か食べるだろう。詩桜、手伝っておくれ」
「はーい」
 つまらなさそうに応えて、少女は由稀の横をすり抜けて厨房へ向かった。
 由稀はひりひりする頬をさすりながら、自分が一歩も動けないほどの空腹であることにようやく気付いた。

2章:邂逅・終