THE FATES

3.萌芽(1)

 純白の石床に朝の日差しが反射する。傷を抱えたままの神殿が、それでも己の存在を貶めまいと努めているようだった。亜須久(あすく)は目を細めて、消えていった光輪のあとを見つめる。めくれあがった床には別れの残像が沁みていた。由稀(ゆうき)が垣間見せた強張った表情に、思わず自分の胸中を重ね見た。
「行ってしまいましたね」
 隣で加依(かい)が呟いた。亜須久は、ああと返事をして髪をかきあげた。胸の奥に、意図せず緊張感が芽生えた。
「だが、やっておくことは山積みだ」
「帰ってくるまでの数日で出来ることは、かなり限られているでしょうけどね」
「お前も瞬から何か聞いてるのか」
 亜須久は目を丸くした。加依は軽やかに首を振った。
「ただの勘繰りですよ。瞬のことですから、面倒な用事を残していったんでしょう」
 涼しげな顔を海風に晒して、加依はさらりと言った。亜須久は苦笑して、少し離れた場所にいた玲妥(れいだ)を手招きした。すぐに気付いた彼女は、朝陽に透けそうな金色の髪を揺らして駆け寄ってきた。
「どうしたの」
 玲妥はいつもよりさらに朗らかに微笑む。幼さを感じさせない気遣いが、亜須久を切なくさせた。眉を寄せて微笑み返し、彼女の髪を撫でた。
 弓菜(ゆみな)紫月(しづき)もほどなくして玲妥を追って集まった。紫月は玲妥の守護人として精霊界へ同行したが、その後は体調を崩していた。
「弓菜さぁん、歩くの速いですぅ」
「何言ってんの。あんたが遅いのよ」
「そんなこと、わあっ」
 裾の長い服を踏みつけ、紫月は顔面から床へ激突した。
「ちょっと、冗談やめてよ」
 弓菜は額を押さえて紫月の元へ戻る。手を差し伸べると、何事もなかったように起き上がった。見たところ怪我はないようだった。
「何、どんな技使ったら、そういう器用なことができるの」
 絶句したい衝動を抑えて、弓菜は呆れ果てて言った。紫月は髪を撫でて俯きながら嬉しそうに笑った。光を受けた紫月の黒髪は、その名のように濃い紫にも見えた。精霊族の血を引きはするが、非常に薄い証拠だった。
「誉めてるわけじゃないんだけどねぇ」
 弓菜は腕を組んで嘆息した。
「紫月、大丈夫か」
「はいぃ。大丈夫ですぅ。それよりどうしたんですかぁ」
 亜須久は一同の顔を見渡して、あらたまった声で言った。
「俺は、竜樹(りゅうじゅ)へ行ってくる」
「え、どうして」
 呟いたのは玲妥だったが、みな同じような驚いた表情で亜須久を見た。
「瞬から頼まれた。例の天地(あまつち)の杖と斎園(さいえん)だが、どうやら下にある文献では調べきれなかったらしい。青竜(せいりゅう)は竜族だ。もしかしたら竜樹に何か残っているかもしれない」
「ですが竜族はもう……」
「何か少しでもいい。手掛かりになるようなものがあるかもしれない。可能性より願望の方が大きいだろう。それでも行ってみる価値はあると思っている。この目で竜樹を見るだけでも、風を感じるだけでも」
 亜須久は話しながら、強引な自分を他人事のように眺めていた。手掛かりがあればいいと思うし、瞬に頼まれたからというのは確かにそうだ。しかし亜須久は自分の胸の奥から沸き起こる、何ものにも干渉されていない純粋な好奇心に気付いていた。そしてそれこそが今の彼を突き動かしていた。
 頬に視線を感じ、亜須久は目だけを動かして隣を見た。加依が薄く笑っていた。見抜かれた、そう思った。
 加依は笑みを潜め、鼻筋をなぞった。
「だったら俺も別行動をして大丈夫ですか」
「別行動って」
「一度、魔界へ帰ります。置き去りにしてきた不破(ふわ)が気にかかるので」
「そう、か。しかし、そうなると……」
 言葉を濁して亜須久は玲妥に視線を転じた。すぐに悟った加依は申し訳なさそうに息を漏らした。
 玲妥は飛び跳ねるように微笑んだ。
「大丈夫だよ」
「しかし」
「だって私も行きたい所があるんだもん」
 頬を両手で包んで玲妥は言った。亜須久にはその恥じらいは理解できなかった。
「えっと、ちょっと待ってください」
 困惑した様子で加依は呟いた。
 亜須久は加依の続く言葉を待ちながら、弓菜を横目に見遣った。いつもなら積極的な彼女が、静かに街を見下ろしていた。艶やかな化粧に彩られた目元は愁いを帯び、どこか遠い場所を眺めているようだった。ぼんやりとしながらも、亜須久に入る隙はなかった。
「玲妥を一人ぼっちにすることを、玲妥が行きたい所に行くことで補えるとは思えないんですが」
 遠回しに諭す加依に、玲妥は鈴のような仕草で微笑み返す。
「そうかな。だってみんな、私に遠慮してるんでしょ」
「え、遠慮?」
 涼やかな顔を歪めて、加依は芸なく言葉を繰り返した。
「みんなが行きたい所や行かなきゃいけない所があるのと同じように、私にも行きたい所があるから、遠慮しないで行きたい所に行こうよってこと」
「いえあの、俺はそういうことを言ってるんじゃなくてですね」
「どこに行きたいんだ、玲妥」
 持て余し気味の加依を見かねて、亜須久は肚を決めた。玲妥は目を輝かせて亜須久を振り向いた。
「あのね、一度お家に帰りたいの」
「ラルマテアまで帰るのか」
 想像を越えた答えに、決めたはずの肚はすぐに揺らいだ。亜須久は玲妥の肩に手を置き、ゆっくりと言葉を探して口を開いた。
「覚えてるか、玲妥。ここへ来るまで危険な道もあっただろう。時間も随分かかった。それをお前が一人で行くなんて無茶な話だ」
「歩いて行くなんて言ってないもん」
「船に乗るんですか」
「当たり。船だったら、橙亜(とうあ)まで六日くらいだよね」
「天候にもよるが、梗河(こうが)屋の船なら大体三日だ」
 その言葉に、玲妥の目の輝きが増した。亜須久はすぐに気付いて失言に口を歪めた。
「ねぇ、あーちゃん。梗河屋の船って、乗れないかな」
「待て玲妥。まだ行ってもいいとは――」
「いいじゃないですかぁ。なんなら私も一緒に行きますよぉ」
 紫月は満面に笑みを乗せ、体を左右に揺らした。亜須久は頭を抱えた。
 腕を組んだ加依は、気持ちいいほど快活に笑った。
「何も解決していない気がします」
「解決って、なんですかぁ」
 亜須久はため息混じりに口を開いた。
「弓菜、お前にも頼めないか」
「え」
 虚ろだった弓菜の瞳に、神殿の光が映りこむ。亜須久は気を取り直して、彼女に向き合った。
「玲妥と紫月だけでは心許ない。出来ればお前も同行してくれないか」
「えっと」
 弓菜は当惑して、続く言葉を見失った。亜須久には彼女の中に流れていた時間が手に取るように伝わった。
 亜須久は横目で玲妥と加依を見遣った。何度も船という言葉が聞いて取れた。
 口には出さず、目顔で聞いていなかったのかと問う。弓菜は申し訳なさそうに目を伏せた。
「何か、あるのか」
 小声での問いは、弓菜にだけ届いた。弓菜は二度ほど口を開いては躊躇って閉じた。反った睫毛に迷いが落ちた。
「俺では力になれないことか」
「そんなことは」
 思わず声が大きくなり、弓菜は口を噤んだ。しかしすでに皆が彼女を注視していた。玲妥は大きな目を丸くして、弓菜の顔を覗き込んだ。
「どうしたの、弓菜」
「あ、ううん。何でもないのよ」
「そんな取り繕いは無意味だ。何かあるなら話してくれた方が助かる」
 亜須久は辛辣に言い放った。玲妥はとっさに亜須久の袖を引いたが、彼の冷たい視線に射竦められた。
 緩く波打った髪を指に巻きつけ、弓菜は視線を落とした。
「抜けさせてもらいたいの、この話から」
 唐突な申し出に、玲妥は黙り込んだ。ある程度の覚悟をしていた亜須久も、適した言葉を見つけかねた。紫月は首を傾げて、体を左右に揺らした。
 加依は、石床のめくれて盛り上がった部分に腰をかけて、翠緑色の髪に指を通す。
「あなたを引き止める権利は俺たちにはありませんよ。抜けるならそれでいいんじゃないですか。ただ、中途半端に気持ちを残すようなことはしないで下さい。迷惑です。申し訳なさそうにされるくらいなら、罵られた方が後味がいい」
「加依、なんてこと言うの」
 声を荒げる玲妥を、加依は感情の見えない目で見つめ返す。
「だって、そうでしょう。どちらかしか選べないんです。自分の道を選ぶなら、最後まで我を通すべきだと俺は思います」
「だけど弓菜は私たちのことを思ってくれたんだよ。それなのに――」
「確かに、そうかもしれない」
 玲妥を遮って、弓菜は呟いた。
「弓菜」
「ごめんね、玲妥。ありがとう。私ね、どうしても調べたいことがあるの」
 弓菜は腰をかがめて、玲妥の視線に高さを合わせた。玲妥は唇を噛んだ。
「それは、私たちと一緒じゃ出来ないことなの」
「うん。だって、由稀たちが帰ってくるまで、十日もないでしょ。そんな短期間で調べきる自信がないの」
「今じゃないと駄目なの」
「そうね。今すぐにでも行きたいわ」
 弓菜の声には一切の揺らぎがなかった。玲妥は寂しさに俯いたが、思い直して首を振った。亜須久を振り仰ぐ。
「ねぇ、あーちゃん。弓菜のお願い聞いてあげて」
「玲妥」
「だって、伝説とか関係ないんでしょ。瞬が言ってたよ、青竜のでっち上げだって。だからこれ以上、弓菜を巻き込んじゃいけないんだよ。ねぇお願い、あーちゃん」
 袖にすがりついて懇願する玲妥に、亜須久は逡巡を深めた。亜須久に弓菜を引き止める気はなかった。だが、弓菜の同行なしに玲妥を行かせるのには不安があった。
「亜須久さん、玲妥がラルマテアまで船で行くとしたら、一番危険な場所はどこ」
「それは……」
 亜須久は神殿の柱の間から街を眺めた。青天のもと街は輝き、山の連なりが蒼く滲んでいた。脳裏には街路の景色が浮かんだ。
「メプトリアを出てネイアで船に乗るまでだな。橙亜の山越えは関所の道を選べば危険は少ない」
「そう」
 弓菜は赤く縁取られた唇をきれいに持ち上げて微笑んだ。
「だったら、玲妥と紫月が船に乗るまで同行するわ」
「え」
 聞き返してから、素直に質問に答えた自分が馬鹿だったと亜須久は肩を落とした。
「それで文句はないでしょ」
「わかった。そこまで言われれば仕方がない」
「やった!」
 玲妥は飛び跳ねて弓菜に抱きついた。
「良かったね、弓菜」
「ありがとう。玲妥のおかげだよ」
 弓菜は乱暴に玲妥の髪を撫で回す。視線に気付いて顔を上げた。
「強引な人ですね」
 苦笑する加依に、弓菜はにやりと笑ってみせた。
「あなたも加担したのよ」
「まさか。人聞きの悪い」
「ふふ」
 艶っぽいはずの笑みも、彼女がするとおどけているように見えた。整った容姿を忘れさせるほどの、内から匂い立つ健やかな心がそうさせた。