THE FATES

3.萌芽(2)

 部屋には、夕方になると眩しいほどの陽光が溢れた。窓際に置かれた寝台には、女性の姿があった。切り揃えられた前髪が微風に吹かれる。
 女の頬に影が落ちた。そばに立つ女が、窓に手を伸ばしていた。前屈みになると、緩やかに波打つ髪が胸元に滑り落ちた。
「涼しくなってきたから、閉めるね」
 呼びかけに、寝台の女は薄く目を開け、わずかに微笑んだ。そばに立つ女はそれに笑顔で返して、横たわる女の前髪を指で梳いて整えた。
「ちょっと冷えちゃったね」
「今日はもう、お仕事は終わりなの?」
「ううん。あと一人、居間で待ってもらってる。ちょうど私の担当が終わったところなの。今は彼の担当分野」
 よれた毛布を直し、女は寝台に腰掛けた。視界に夕日が染み込んだ。目を細めて消え行く光を見つめる。
「姉さん、私最近思うのよ」
 女は光を見つめながら言った。空は強すぎる光に多くの色を失いつつあった。
「私にこの力があって良かった、って」
弓菜(ゆみな)……」
 薄い硝子のような声で呟き、彼女もまた窓の外を見遣った。
「あんなに嫌がっていたのに。どうして」
 そこまで言って、女は頬を緩めた。愚問だったと悟った。
 空を占める光の源は、徐々にその身を削り、屋根の向こうへ隠れていった。世界にはその残滓が筋になって輝く。
「あんなにも心のある写真を描く人、初めて見たわ。彼の役に立てる自分が誇らしいの」
「そうね。彼の写真には、ふくらみがあるわ」
「だからね、彼はこのまま普通の写真師で終わってはいけないのよ」
 仲間をかき集めるようにして、光が空から退いていく。弓菜はその行く先を真っ直ぐに見つめて、姉を振り返った。
「私が彼を世界一の絵師にするわ」
 弓菜は軽く目を伏せて、掌を上に向けた。やわらかく空気を掴むように指を曲げる。すぐに、空から消えたはずの光が掌から溢れ出した。夕闇の侵食を受けていた部屋の中に、再び陽光のまばゆさが甦る。
「この力でね」
 力強く微笑んで、弓菜は光を天井に放った。木目を鮮やかな夕日が飾る。弓菜の記憶を写して再現された光景は、窓の外の藍色を忘れさせるほどきらめいていた。

 ランカースの日差しは明け透けで、弓菜には街が平面であるかのように見えた。だが同時に、この街は決して嘘をつかないとも直感した。
 玲妥と別れ、弓菜は車を乗り継いだ。歩けない距離ではなかったが、出来るだけ体力を消耗したくなかった。
 街の表通りには、数ヶ月前の戦闘の傷跡が未だ残っていた。立ち入りが禁止されたまま放置されている場所もあった。住人たちはおそらく何の事情も聞かされていないだろうと思うと、弓菜はそれらを知る者として申し訳なく、居ても立ってもいられなくなった。足を早めて、記憶にある路地を曲がる。背中に触れる街の賑わいで、心が萎縮した。
 細い路地に光は儚く、かえって体中がほっと息をついた。表に比べると小ぢんまりとした商店が、ぽつりぽつりと開いていた。その中に、薬屋の看板を見つけた。弓菜は吸い寄せられるように店の扉を押し開いた。
 太い鈴の音がしたが、店主の気配はなかった。弓菜はやや暗い店内を見回す。壁には天井まで届く白い棚が設えられ、黄色がかった陶器の薬壷が並べられていた。壷の正面には几帳面な字で薬草の名前が書かれていた。
 その中の一つに、弓菜は手を伸ばした。文字に触れると、姉との思い出が体を駆け抜けた。愛しい気持ちが込み上げる。
「胸の病だね」
 店の奥から声がして、弓菜は首を巡らせた。何事の余韻もなく、冷たい壷から指を離した。暗がりの向こうに、皺だらけの白い顔が浮かんだ。二人を隔てていた机を周り、老いた男は弓菜の触れていた壷を持った。
「あ、買いにきたんじゃないの。ごめんなさい、ややこしいことをして」
「そうかい。それにしては、立派な薬師傷だ」
 皺の奥に隠れた細い目は、刺すように弓菜の指先を捉えていた。壷を元あった場所に戻し、老人は背中を向ける。
 弓菜は見慣れた自分の手先を見つめ、軽く指を握った。
「その薬を飲ませてあげる人は、もういないのよ」
 潔い口振りに、老人は立ち止まって首を傾げた。弓菜が不審に思っていると、棚から掌ほどある葉を取り出した。壁際に置かれた水瓶から水を掬い、その葉に掛ける。老人はそれを弓菜に差し出した。
「この辺りに古くから伝わるものでな。逝った者の気持ちを慰めるまじないだよ。紙か布にでも巻いておくといい。いつしか乾いて砕け、砂のように風に舞う。心残りを連れて行ってくれる」
 老人の表情は変わらなかった。だが嗄れた声は和らいだ。
「逝かせてあげなさい。あんまり引き止めてはいかんよ」
 弓菜は老人の眼力に感服し、大きな葉を受け取った。
「ありがとう」
 その言葉に、老人はようやく皺だらけの笑みを見せ、店の奥へと消えて行った。弓菜は鞄から出した白い手拭きに葉を挟んだ。薄布に、葉脈が透ける。
 店を出ると、背後で太い鈴の音がくぐもって鳴った。灰色の道に気付き、弓菜は顔を上げた。空の端から、厚い雲が手を伸ばしていた。
 弓菜の鼻先に、湿った顔料の臭いが甦った。

 閉め切った部屋は、絵の具の粘着質な臭いで噎せ返っていた。弓菜は思わず袖で口元を押さえた。鼻を刺す臭いの奥に、異質なものを嗅ぎ取る。生臭い。体液の臭いが潜んでいた。
 部屋に明かりはなく、いつも角灯を置いてあった場所を探るが、それらしい物はない。至るところに画材が散乱し、弓菜の手は混ざった絵の具で黒くなった。
 雨はやむ気配がなく、湿気は部屋を一層密にした。
「ねぇ、いないの。いるなら返事して」
 怯えを堪え、弓菜は震える声で呼びかけた。返ってくるのは、外の雨音だけだ。怯えは次第に、最悪の事態に対する危惧へと変わっていく。
 弓菜は机上にある物を腕で払いのけ、角灯を探し当てた。石を打って火をつけようとするが、湿りがそれを阻む。苛立って石を床に投げつけた。膝が崩れる。涙が溢れた。
「ねぇ、どこにいるの。いるなら出てきて。お願い」
 懇願に応えるものはなかった。
 座り込んだ弓菜は目の高さに角灯を掲げた。窓からの曖昧な光では、額を押し付けなければ、その細微な形まで見て取れなかった。額との間に手を挟み込み、やわらかな泡を塗りつけるように撫でる。角灯は音もなく、灯った。だが、肌を焼くような熱い揺らめきはない。それは弓菜の記憶から取り出された、かつてこの角灯に灯っていた明かりだった。
 弓菜はふらつきながら立ち上がり、記憶の明かりで部屋を照らした。思わず短い悲鳴を上げた。かつて仕事部屋として使っていた部屋に、その名残は一切なかった。
 窓辺に吊られていた薄布は裾が大きく千切られ、陵辱を受けた女の脚のようだった。倒れた花瓶には、枯れた花が刺さっている。滴る生命もなく、触れれば粉々に崩れてしまいそうだった。淡い日差し色だった壁は、真っ赤に塗り潰され、所々に一段黒みがかった沁みが意志を受けて飛び散っていた。
 気付けば弓菜は、突きつけられた現実を受け入れようとしていた。理性や意思を無視する凶暴さで、目の前の事実が襲いかかる。あまりにも残酷な情景だった。抵抗する余地はないに等しかった。彼はもうここにはいない。そして、ここへ戻ってくることもない。
 よろめいて壁に手をつく。しかし弓菜はすぐに手を引いた。ほんの少しの接触で、絵の具に染み込んだ彼の姿が脳裏に映った。恐る恐る、もう一度指先で触れる。たちまち腕が痺れた。
「なんて激情」
 弓菜の体を戦慄が走った。何より怖いのは、保身のために全てを諦めようとする、自分の弱い心だった。彼の元を離れた自分を責めるために、ここへ来たのではなかった。噂を確かめるために来た。彼を一人にした自分を、許してもらうために来た。
 本当に謝罪するつもりなら、全てを知らなければならない。弓菜は抱きつくように全身で壁に凭れた。髪を撫でるように愛しげに、壁に手を滑らせる。助けを乞うように彼の残した世界が流れ込む。まるで彼自身が弓菜の中へ入ってくるようだった。繋がりを感じ、弓菜は涙した。
「待ってて、里村(さとむら)。必ずあなたを探し出すから」
 確かに手に触れた里村の頬の感触を忘れないよう、弓菜は何度も壁を撫でた。

 記憶を頼りに、弓菜は路地を更に奥へ進んだ。厚い雲はじわりと空に広がるが、雨が降るような風はなかった。
 角に見覚えのある店があった。だが、軒先に並んでいるはずの商品はなく、扉は固く閉じられていた。正面まで来ると張り紙があり、休業の旨が書かれていた。日付は以前弓菜がここに立った十日後になっている。後ろに人の気配があったので呼び止めた。女は眉を少し上げて何事か問うた。
「ここはもうやってないの?」
「そうよ。前に表通りで事件があってね。そのときにここのご主人が巻き込まれたの」
「そう……」
「幸い大事には至らなかったけど、もう仕事はできないみたい。呼び鈴を押すと奥様がいらっしゃると思うけど」
「えぇ、そうしてみるわ」
 弓菜は去る女に礼を言い、辺りを見回した。
「やっぱりここね」
 多少景色に違いがあるが、弓菜は確信した。あの日、比古(ひこ)と名乗る男にあった、その場所だった。
 店の横から細く伸びる路地に入り、弓菜は鞄から大きな鏡を取り出した。ふと、不破のことが気にかかった。彼はこの鏡をまな板と呼び、よく笑っていた。
 覗き込むと、唇を引き結んだ自分の顔が映った。長い間、この鏡には自分の姿しか映っていなかった。
「頼むわよ」
 小さく呟いて鏡を地面に置き、掌を滑らせた。よく磨かれた鏡面が一度ぼやけ、次第に中心からまた晴れていく。その時には鏡に弓菜の姿はなく、ある街の一角が揺れながらあった。
 頭の中でくぐもった音が響く。弓菜は目にかかった髪を払い、指を大きく開いて鏡に翳した。
『……のそれは、薬師傷じゃないのか』
 真横で誰かが言ったように、弓菜の頭に明瞭な声が届いた。鏡に翳していた手をゆっくりと外し、映る世界を見つめる。今いる路地を背にして、銀髪の男が映っていた。赤い目が、鏡の中で一層際立つ。景色が何度かぶれる。大きな爆発音がして、視点は素早く表通りに向けられた。それは過去の弓菜の視界だった。
『確かにそうよ。それがどうかしたの』
鬼使(きし)が暴走して、誰もが無傷で終わるはずがない。恐れることはないさ。仲間がたくさん周囲にいるから』
 比古はそう言って外套をかぶった。
『そんなに言うなら、あなたが行けばいいじゃない』
『色々と表に出られない事情がある』
『それで私に頼むのね。どうして私のことがわかるの。あなたも投影師なの』
 弓菜の追及に比古は困ったように笑った。
『人には見えないものが見えるだけだよ』
『変なの』
 呆れた弓菜は、地面に置いていた鞄に手を伸ばした。鏡には薬師傷のある指先が映った。
『変ついでにもう一つ教えてやろう』
 指が鞄の持ち手にかかる。
『探し人は、生きてるよ』
『え』
 画面は映像が歪みながら動いた。比古の姿を捉える。
『ちょっと、どういうことよ』
『それは自分自身が一番よくわかってることだろう』
 その時比古は、ひどくやわらかな笑みを弓菜に向けていた。それに彼女はたった今気付いた。彼に悪意はなく、話に信憑性が増した。
 弓菜は鏡を指で叩き、記憶の映像を消した。布できれいに拭いて鞄に仕舞う。
 鞄の中に湿り気を感じ、弓菜はその元を取り出す。先の薬屋でもらったまじないの葉だった。指で根元をつまみ、くるくると回す。葉は青々としており、枯れて粉々になる様子など弓菜には想像もつかなかった。
『逝かせてあげなさい。あんまり引き止めてはいかんよ』
「姉さん、ごめんね」
 本当に姉がこの世に縛られているなら、それはやはり自分のせいだと思った。心配性な姉だった。いつまでも奔放な妹のことが気がかりなのだろう。だがたとえそうであったとしても、気落ちすることはなかった。
 この葉が枯れるまでにどんなに時間がかかろうとも、弓菜は諦めるつもりはなかった。諦め切れる自信もなかった。
 どんな小さな情報でもいい。彼に繋がる糸が欲しかった。
 弓菜は立ち上がり、鞄を肩に担いだ。
 人が多いところに行こう。そう思った。