THE FATES

3.萌芽(4)

 助けを求めるように手にした器の中で、氷が崩れて音を立てた。清里(きよさと)は動転し、満面に極端な笑みを浮かべた。
 いつから彼女がここにいたのか、清里は考えないようにした。弓菜(ゆみな)相手に腹を探ろうとすれば、自分がぼろを出しそうで怖かった。
 硬貨を裏返すように、たった一呼吸で不破(ふわ)になる。
「お前の方こそ何してんねんな。みんなは一緒ちゃうんか」
「お前はやめてって、言ってるでしょ」
 弓菜は艶のある唇を尖らせ、不破を睨みつけた。しかし視線はすぐに利淵(りえん)へと流れる。察した彼は鞄を肩にかけ、椅子から立った。
「では、これで失礼します」
「おう。頑張るんやで。また何かあったら教えてや」
 不破は大仰に手を振って、利淵の背中を見送る。
「何してたの。あの制服、ネリオズ宮殿の官吏じゃない」
 店の扉を振り返りながら、弓菜はそれまで利淵がかけていた椅子に腰を下ろした。見計らったように店員が寄って、品書きを置いていく。
 不破は背もたれに体を預けて、卓の下で脚を組み替えた。
「あんま、こういうこと言うたらあかんねやろけど、実はな、相談受けてたんや」
「何よ、相談って」
 弓菜は担いでいた大きな鞄を大事そうに置き、長い髪を片手でまとめながら品書きを眺めた。その姿から不審の匂いは嗅ぎ取れなかった。不破は卓に肘をついて身を乗り出す。
「俺を選んで相談するってことはやなぁ、そりゃ恋愛相談に決まってるやろ」
「その人よっぽど友達いないのね」
 品書きから顔を上げず、弓菜はつまらなさげに呟いた。
「はぁ? お前なんもわかってへんやろ」
「だから、お前はやめて。すみませーん」
 よく通る声で店員を呼びつけ、弓菜は炒め野菜を頼んだ。
「えらい少ないやないか」
「あんまり食べる気分じゃないのよね」
「ほな、なんで頼むかな」
 すっかり薄まった酒を、氷ごと口に流し込む。刺激のない喉越しに、不破は眉をひそめた。
 弓菜は気のない素振りで爪を撫で、頬杖をついた。
 水の入った小さな器に、水滴が浮く。それらは寄り集まって落ち、木製の卓を濡らした。
「いつこっちに戻ってたの。加依(かい)くんが魔界まで迎えに行ったのに、これじゃきっと行き違いね」
「なんやあいつ。やっぱりこっちに来てたんか。加依と羅依(らい)が行方不明や言うて、めっちゃ大変やってんぞ」
「私を責めないでよ。関係ないわ」
 煙たそうに弓菜は手を振った。不破は大人しくなって腕を組む。
「置いてきぼりにしといて、なんで今さら俺のこと迎えに来るかな。そもそも、お前も何してんねん」
「そうね。ずっと向こうで疎開してたんだもんね。何も知らないか」
「疎開て。一応俺、魔界の戦地で行ったり来たりしててんけど」
 不破は苦笑して、氷をがりりと噛み砕いた。弓菜は頬杖をついたまま、顔を厨房の方へ向け、黙り込んだ。
「なんや、暗い顔やな」
 口からすらすらと出る、惚けた言葉に、不破は思わず笑いそうになった。鉄のように頑丈な道化師の笑顔で、彼女の言葉を待つ。
 小さなため息のあと、弓菜は肉感的な唇を開いた。
「ひどい話よ。全て、そう、何もかもが青竜(せいりゅう)の作り話だったんだから」
「作り話って、なんや。どういうことや」
 二人の間に、歪曲した皿に盛られた料理が運ばれた。弓菜は肘をついたまま、箸で料理をつまみあげた。
「あの人の主を助けるため、その主の住む斎園(さいえん)ってところを解放するため、私たちは体よく利用されたのよ」
「斎園?」
「そう。どこにあるのかは、調べてもわからなかったんだけどね。それに、青竜の思惑より早まったみたいで、結局斎園への扉は開いてないみたい。まぁ、もし開いていても、あの人たちはここにいないんだけどね」
「おらんって、もしかして」
「考えが物騒ね。違うわよ。瞬が強制的に空間移動させたの。天水(てんすい)にね」
 弓菜はようやく料理を口に運んだ。ゆっくりと、不味そうに食べる。不破は怪訝に思い、指で野菜をつまんで食べた。質素だが、素材の濃厚な味が口に広がる。弓菜の好きな味のはずだった。
「なんで天水に」
「たとえ青竜に仲間がいたとしても、さすがに天水までは行けないと思ったからじゃないかな。わかんない。あんまりべらべら話す人じゃないし。それに」
 箸を皿の縁に置き、弓菜は水を一気に飲んだ。不破は少し離れた卓の上から水差しを持ってきて、黙って弓菜の器に注いだ。彼女はそれを半分ほど飲み、呟いた。
「怖いのよ、あの人」
「あの人って、鬼使(きし)・瞬か」
 不破の問いに、弓菜は小さく頷いた。
「まるで氷みたい。氷の刃よ。あんな目で人に見られたことなんて、人生であの時一度きりだわ」
「どないしたんや」
 不破は水差しを掲げる。弓菜は首を振り拒んだ。彼女の眼差しには深い悲しみが降り、頬は恐怖に強張った。
「茜さんが……」
 途切れがちに言って、弓菜は両手で顔を覆った。肩が小刻みに震える。不破は立ち、彼女の横でしゃがみ込んだ。下から弓菜を見上げる。白くなめらかな顎を、冷えた器のように雫が伝った。
「弓菜」
 不破は茜の死をすでに知っていた。しかし知らずとも、彼女が今必死で言おうとしている言葉は予想できた。
「もうええ」
 見かけより頼りない弓菜の肩に、不破はやわらかく手をかける。
「無理すんな」
 飾り気のない不破の声に、弓菜はまたも首を振る。
 指先をくすぐる淡い木肌色の髪が、不破の理性を叩く。弓菜の震えにあわせて落ちてくる、緩やかに波打つ髪を、そっとかきあげてやる。指と指の間で、彼女の髪は憂色を帯び寄り添ってくる。不破は掴み取りたい衝動を抑え、彼女の肩を撫でた。
「さっきの官吏から、ちょっと耳に挟んだから。無理して喋んな」
 不破はあいた手で椅子を引き寄せて座った。弓菜は顔を伏せたまま手拭きで目頭を押さえた。
「一度、命を落としかけたそうよ。それを向こうにある秘術で繋ぎ繋ぎしていたみたい。でもきっと、その限界が来たのね」
 鼻にかかった声で口早に言い、弓菜は顔を上げた。涙の痕は暗い照明の中に沈んだ。
「またお姉さんが出来たと思ったのに」
 懐かしげに細めた目は、悲しみに耐えているようでもあった。
「茜さんのことが原因ってわけじゃないんだけどね、話の方向性が私には付いて行けないところ向いちゃって。もう潮時だと思ったの」
「もしかして、あいつら青竜を追うんか」
「もう向かったわ。由稀(ゆうき)くんと羅依ちゃんと紅くんと瞬が」
「ほな、亜須久(あすく)らは」
竜樹(りゅうじゅ)へ行くって。もう出発してる頃だわ」
「竜樹やて」
 不破は本心から驚いていた。由稀らが天水へ行くのは知っていたが、亜須久らの話は聞いていない。帯都(たいと)帝へ報告されていないということだった。
「そういうの、ちゃんと報告したんかいな」
「ああ、帯都帝に? さぁ、どうだろう。私はともかく、他は数日で帰る予定だからね。言ってないかも。いちいちそんな偉い人にまで言わなくてもいいんじゃないかしら。それにこうなった以上もう、この話は国と関係ないんだし」
 弓菜は鞄の中から大きな鏡を取り出し、乱れてもいない化粧を整え始めた。
「はぁ、まぁ。さよか」
 素っ気なく返し、不破は背もたれに肘をかけて身を委ねた。
 亜須久らが宮殿を離れることなど、瑣末なことだった。宮殿へ出入りするのは難しくなるだろうが、大した障害でもなかった。それでも知りたいと思う気持ちは貪欲なまでに強かった。自分がその場にいられない苛立ちがそうさせた。不破は弓菜から顔を逸らし、親指の爪を噛んだ。
 天井に、幻覚の不確かさで光が走った。不破は眉を上げて光跡を追う。やや渋みを帯びた輝きは、同じところを何度もちらついた。
 見逃していたものを思い出し、不破ははたと弓菜を振り返った。彼女はまだ、大きな鏡と向き合っていた。
 まな板とふざけて呼んでいたが、正当な用途は不破も知っていた。鏡は投影師(とうえいし)が得た景色や映像を映し出す媒介物として、広く使われていた。鏡が大きければ大きいほど、術者の高い能力が求められた。
 弓菜が持つ鏡は、不破が見た中でも大きい部類だった。
『それから、腕のいい投影師も必要になりそうだ。いざ動くその時には、過去の事実をもって、皆を納得させる必要がある』
 どうして今まで見過ごしていたのか、不破は自分の怠慢に檄を飛ばす。だが心の奥は、沸き起こる歓喜に打ち震えていた。記憶の中の神殿の風が、体を駆け抜けた。風は自分に向いている。
玲妥(れいだ)ちゃんも紫月(しづき)とラルマテアに向かったし。そういうわけで、みんな別々になったの」
 鏡を大事そうに抱えて、鞄に戻す。
「ほんで、お前は何してんねん」
 不破は弓菜の顔を間近から覗き込んだ。弓菜は息をとめてのけぞった。
「やめて、近い」
「あかんのか。お前がなかなか口割らんからやろ。なんぼ聞いても他人の話ばっかりしよって」
「そっちが聞いてくるから、親切心で教えてあげてるんでしょ」
「せやろか。いつもは『とりあえず自分の話』の弓菜さんが、ねぇ」
「失礼ね、構わないでよ。不破には関係ないじゃない」
 弓菜は取り澄まして箸を手にした。先ほどよりも手早く料理を口に放り込む。
「なんでも、相談に乗ったるで」
「え」
 思わず手をとめて不破を見る。不破は満面に無邪気な笑みを浮かべ、小首を傾げた。
「俺に力になれることがあったら、何でも」
「本気で言ってるの」
 弓菜の眉は疑わしく歪んだ。不破は動じることなく、笑みを向けた。
「当たり前やないか。俺ってそんなに信用ないんか」
「そういうわけじゃないけど。あまりにも出来すぎてるから、ちょっと不安になっただけ」
「出来すぎて、何がや」
 皿の料理は半分以上がなくなっていた。不破は手で取って食べ、たれの付いた指を舐めた。
「実は、お願いしたいことがあるの」
 弓菜は箸を置いてあらたまった。
「人を探してるんだけど、何も手掛かりがなくて。誰か、そういう仕事が得意な人に心当たりないかしら。情報屋だったんでしょ」
「ふぅん、人探しか。せやなぁ」
 不破はわざとらしく腕を組み、顎をさすった。
「別に、見栄張らなくてもいいわよ。知らないなら知らないで、なんとかするから」
「いや、そんなことないで」
 不破のやわらかい微笑みに、弓菜は髪を躍らせた。
「ほんとに。どこ、どこにいるの」
 身を乗り出す弓菜に対し、不破はにこやかな相貌を崩さない。
「ちょっと、もったいぶらないで――」
「ここにおるやないか」
 不破は自分の鼻を指差し、大きな口から歯を覗かせた。弓菜の顔は一瞬にして曇った。
「そういう展開、求めてないんだけど」
「あほか、お前。一般人が情報屋雇ったら、なんぼかかる思てんねん」
 いつになく真剣な不破の口振りに、弓菜は憮然としながら視線を逸らした。
「そんなの、ちゃんと稼いで払うわよ」
「そういうのは、十年前に言っとけ。お前の歳じゃもう、橙亜(とうあ)で身売ることもできへんやないか。投影師で、そんなに稼げるんか」
「お店の下働きしてるよりは儲かるわ。誰でも出来る仕事じゃないもの」
「ほな、それだけの需要はあるんか」
 核心を突かれ、弓菜は言葉を失った。事実、投影師の需要は写真師ほど高くない。役所に配備されている人数で充分足りていた。弓菜のような市井の投影師は、むしろ珍しい。
 弓菜は恨めしそうに不破を横目に見て、深いため息をついた。
「嫌な男。やり方がいやらしいのよ」
「人聞きの悪い奴やなぁ。せっかく人が手伝ったろ言うてんのにやな。もうちょっとかわいく素直に出来んもんか」
「で。不破に頼んだら、いくらで済むの」
「ええで。いらん。報酬なしで協力したる」
「はぁ?」
 予想もしていなかった答えに、弓菜は整った眉を歪めた。
「何言って――」
「その代わり」
 不破は弓菜の口元に人差し指を当て、彼女の言葉を遮った。弓菜は目を丸くして不破を見つめる。しなる枝のように反った睫毛が忙しなく揺れる。不破はおもむろに片目を細めた。
「お前の力、貸してくれへんか」
「私の。それって投影のこと」
「せや」
 口調とは裏腹に素っ気なく弓菜から離れ、不破は冷めた料理を一口食べた。水っぽい。
「今すぐやあらへん。でもその時が来たとき、協力して欲しいんや」
「具体的には、何を映すの」
「それは、今はまだ言われへん。わからんから」
 最後の言葉は嘘だった。普段の弓菜なら気付くような嘘だった。だが不破には弓菜を騙し、引き入れる自信があった。彼女は頼ってきた相手を突き放せる類の女ではない。
 しばらく黙っていた弓菜は、指先をこするように撫で、軽く目を伏せた。
「いいわ。わかった。力を貸すわ。何を見ることになるのか不安だけど、不破を信じる」
 顔を上げた弓菜の瞳に、不破は強い意志の力を垣間見る。
「おおきに。仲良くやろうや」
 不破が手を差し出すと、弓菜は払うようにして握手した。掌をなぞるように引っ掻いていった彼女の爪を、拳を握ってあらためて感じる。不破は頭の中で弓菜の細い手首を強く掴んだ。その肌に、紫色の痕が残る。
 二人を繋ぐ鎖は、不破の手に委ねられた。