THE FATES

3.萌芽(5)

 可憐な音とともに背後で扉が閉まる。由稀(ゆうき)はすぐにラルマテアの家を思い出した。一階にあった店と、広さや間取りがよく似ている。
 店の奥は厨房で、長い一枚板の座席が接していた。由稀はそちらへ足を踏み出したが、(こう)が手前にある卓へ掛けたので、仕方なく付き合う。
 木製の椅子を引くと手首に妙な重みを感じた。体をかがめて見ると、脚部は鉄細工で飾られていた。座ると、店内が全て見渡せた。
 地下のため、窓はない。だが迫ってくるような閉塞感はなかった。由稀は浅くかけて背中を倒し、天井を見上げた。
 明かりが多い。耳を澄ませば、蝋を燃す炎の呟きが束になって聞こえた。燭台はどれも沈んだ群青の鉄色で、ひっそりと炎の影に溶け込んでいる。床も壁も天井も、仄かに赤い光を受けて、恥らうように染まっていた。ささやかに照る質感はおさな子の頬のようにふくよかで、また、思わず引き寄せたくなる少女の非力を思わせた。
「あんたたち、何でも食べられるかい」
 厨房から張りのある声が飛んだ。視線の先に、手元から目を離さない梅煉(ばいれん)を捉えた。由稀の脳裏で、安積(あづみ)と重なった。
「食べるよ」
 つられて威勢のいい返事をしたものの、由稀はここが天水であることを失念していた。天水の食文化を、由稀が知るはずもなかった。
「あ、えっと、その、多分大丈夫だと思うんだけど」
 語尾が吸い込まれるように小さくなる。困惑を悟って、梅煉は大声で笑った。あまりにも潔い笑い声に、由稀は呆気に取られた。しかしすぐに照れ笑いを浮かべた。
「いいよ。無理なら残しな」
 顔を上げた梅煉は、力いっぱい破顔した。言葉の裏を探る隙すら与えないような笑顔だった。
 由稀は、ああと納得する。この空間を狭苦しく感じないのは、梅煉の存在があるからだった。たとえ澱みが降りてきても、彼女の一笑で全てが吹き飛ぶ。
 木目が浮き上がった卓上に、詩桜(しおう)と呼ばれていた少女が器と水差しを無言で置いていく。見上げた先の彼女の瞳は、路地で見たときよりも濃く、瑞々しい輝きを帯びていた。角度によって、色も変わって見えるようだった。
「なによ」
「え、いや、なにも」
 由稀は気まずさに耐え兼ねて顔を逸らした。視界の隅に、彼女の赤い靴が映った。
「変なの」
 立ち去り際には花の香りが残った。
 紅は卓に突っ伏せて、眼鏡の奥から由稀を睨みつけていた。
「何だよ」
 甘い香りに気を取られていた由稀は、慌てて同じように卓に伏せた。
「気に食わねえ。なんであのおばさんが俺のこと知ってんだよ」
 紅は横目に厨房を窺いながら、小声で言い捨てた。由稀は自分本位の紅に、ほっと息をついた。
「なんだ、そんなことかよ」
 ため息ついでに笑って、由稀は体を起こす。すぐさま、卓の下で足を蹴られた。
「いってぇ」
 あまりの痛みに、由稀は椅子ごとのけぞった。紅が卓越しに腕を伸ばし、由稀の襟元を掴んだ。
「人ごとだと思って、軽くあしらいやがって」
「だってお前、よく考えてみろよ。(しゅん)が指定した場所なんだから、あの人たちがお前のこと知ってたって、何も不思議じゃないだろ。むしろ普通だろ」
「でも、俺は知らねえし、その理屈もうざい」
 どこへ行っても瞬の影から逃れられない。それが紅をがんじがらめに縛り付け、歪めていた。紅は荒々しく突き出すようにして、由稀から手を離した。
 すぐにどうにかなる状況でないことは、そばで見ていてよく知っている。彼ら親子が進むべき道の、その輪郭すらまだわからなかった。それでも時折、この不安定な友人がその歪な影を笠に着て、ただ我儘を通しているだけではないかと疑ってしまう。
 由稀は一向と変わろうとしない紅に、腹立たしさを覚えた。
「うるさいな」
 感情が突風にあおられ、乱れる。
「どうせ、お前が覚えてないだけだろ。何にも知らないんだよ、お前は」
 由稀は衝動に唆され、投げやりに言った。しかしすぐに、自分の声を耳の奥で反芻して舌打ちした。そっと見遣った先の紅は、平然とした顔で自分の器に水を注いでいた。いつにない静けさが、由稀に彼の傷を過剰に想像させた。
「悪い、言いすぎた」
「別に。つか、ちょっと安心した」
「は?」
 思いも寄らない言葉に、由稀は眉をひそめた。嬉しそうに目を細めて紅は言う。
「お前だって、神様じゃないもんな。何でもわきまえてるわけじゃないよな」
「はぁ」
 少しでも落ち着こうと手にした器は、空だった。水差しを持つのも億劫で、由稀は頭を荒く掻いた。元はといえばこの苛つきは、紅に見透かされた気がしたからだった。
 思わず詩桜を目で追っていた自分を、見られていた気がした。
「まぁ、いいけど」
 ごまかすように素っ気ない口振りで呟く。もちろん、紅の機嫌が直ったのなら、由稀にはそれでよかった。
 真新しい眼鏡を外し、紅は由稀の知らない穏やかな眼差しになる。
「俺、お前らといるよ。俺の人生だ。俺が決める。脅されても諭されても、俺にとっては俺の望みが最上だ」
 激しさや意地ではなく、確かな紅の意志がそこにはあった。由稀は初めて、紅が瞬に似ていると感じた。端正な顔立ちに、小さな核が宿った。
「城に帰る義理はないし、研究所ももうない。天水に俺の帰る場所はないんだ。多分、そうあるべきなんだよ」
 紅の言葉に由稀は一抹の不安を感じた。
「運命って言いたいのか」
「ああ。運命に逆らわない方が、大望を果たすには近道だろ」
「大望って」
 想像を裏切ってほしい思いで、由稀は聞き返す。
 紅は視線を上げて、鬼使のようにおもむろに微笑んだ。
「もちろん、あいつに報復すること。それ以外に、俺に何があると思う」
 不釣合いなほど爽やかに言い切って、紅は水を飲む。由稀は愕然とした。いつの間に、彼の心がこれほどまでに割り切れていたのか。全く気付かなかった。店内に刺激的な香辛料の匂いが満ちる。由稀は返答に窮して黙り込んだ。
「そんなに困るなよ。血なまぐさいだけが報復だと思ってねぇし」
「たとえば、何だよ」
「それはまだわかんねぇ。これから探す」
 新緑の瞳が深みを増す。口振りは軽かったが、由稀には入り込めない領域が広がっていた。
 紅の苦しみが前を向いて形になっていく。それは由稀も望んだ姿だった。しかし紅が選んだ道を、由稀は素直に喜べなかった。
 これまで、失いたくないとして守るほど、色々なものが指先から零れていった。そのたびに、やりきれない思いが心の底に降り積もった。紅とはいつまでも友人でありたい。だがそれだけを守ろうとすれば、きっとまた何かを失ってしまう。
 ここに、手放していいものなどなかった。
 庇護するだけでは守れないものがあると、由稀は薄々感じ始めていた。妥協は、放棄にもなった。
「もしも」
 由稀の声に、紅は顔を上げた。黒い輝きで紅を射抜く。
「もしもお前の大望と運命が、俺の正義と未来を邪魔するようなら、俺は容赦なく全力でお前をとめる」
 嫌われることを恐れていては、前に進めなくなる。立ち向かうことでしか守れないものもある。だから、ここへ来た。
 瞼の奥に、明け方に見た海の閃光を思い出す。光の氾濫で消えた波音の向こうに、羅依の明瞭な声がした。
『お前が言うと、本当になりそうだ』
「覚悟しろよ。俺は誰も切り捨てない。全部抱えるって決めたんだ」
 腹の底から押し出された声に、紅は目を丸くした。
「お前それ、本気で言ってるのか」
「冗談でこんなこと言うかよ」
「たとえば、その中には青竜(せいりゅう)も含まれてるのか」
「当然だろ」
 憮然として答えると、紅は乾いた笑いを漏らした。
「駄目だ。やっぱお前には敵わない」
 卓に肘をついて頭を抱え、軽く振る。
「そんな恥ずかしいこと言えねぇよ。ありえねぇ」
「はぁ? ちょっと待てよ」
 由稀は椅子から立って身を乗り出した。紅は追い払うように手を振って、横を向く。
「お前は神様じゃないけど、神様より厄介だ。善も悪も跳び越えて、世界がどこまでも膨れ上がる」
「はぁ。俺は神様でも悪魔でもなく、由稀だ。他の何でもねぇよ。お前さっきから何が言いたいんだよ」
 昂ぶりが肩透かしを食らった気分だった。由稀は椅子に戻って腕を組んだ。紅は上着から煙草入れを取り出し、口にくわえた。
「せいぜい、由稀様の邪魔をしないように大望を果たしますよ」
「質問に答えろ。そういうところ、ほんとそっくりだよな!」
「あーもう、うるさいわね、あんたたち!」
 二人の間に、顔より大きな皿が割って入った。白い湯気をつれた料理が盛られている。店内に満ちていた香辛料の匂いが、そこに凝縮されていた。
 料理に落ちる影を追って見上げると、詩桜が睨み返してきた。由稀は思わず肩を竦めた。
「結構、小声のつもりだったんですけど」
「中途半端に聞き取れないから、余計にうるさいのよ」
 彼女の赤みを帯びた髪は、明かりを吸って銅色に輝いていた。澄ました顔で水差しを持ち、彼女は厨房に下がった。料理はあっても箸がなく、由稀は口に溢れる唾液を何度も飲み込んだ。
 詩桜はすぐに戻ってきた。水差しを勢いよく卓上に置き、取り皿と箸を素早く並べた。濡れた布巾をきれいにたたむ。
「たれがあるんだけど、いる?」
 肘まで捲くった袖から伸びる彼女の手は、意外なほど細かった。真っ直ぐな彼女の指先をぼんやり眺める。さきほど見た梅煉の手と重ねてみるが、まるで似たところがない。
「たれって、どんなだよ」
 箸を取り出しながら、紅が言った。内面に似合わず彼の所作には優雅さがあった。それは父譲りの長い指のためだった。由稀も真似て箸を取り出すが、節くれだった手では似せることはできなかった。
「そうね、少し――」
 詩桜は紅を見て、手にしていた布巾を落とした。途切れた言葉を不審に思い、紅が詩桜を見上げる。
「少し、何だよ」
「その目の色」
 詩桜は声を震わせて言った。
「もしかして、あなたが紅」
「え」
 名を呼ばれ、紅は訝しげに少女を見返した。二人は無言のまま見つめあう。由稀は詩桜の濃い銀色の瞳に、悲しみと憤りが混ざるのを見た。