THE FATES

3.萌芽(6)

 囁くような、か細い鈴の音がした。蝶番が軋む。
「待ってたよ。いらっしゃい」
 明るい梅煉(ばいれん)の声に、卓を取り巻いていた沈黙が弾けた。扉には、(しゅん)の姿があった。彼が眼鏡を外すと、赤みを帯びた光の中で深緑の瞳が凄艶ときらめいた。輝きはさらに研ぎ澄まされていた。圧倒的な美しさがそこにあった。彼がいるだけで、世界に散らばるささやかな美が死に絶えるようだ。
 詩桜(しおう)が横から駆け出した。
「瞬!」
 勢いよく瞬に飛びついて、服に顔を埋める。瞬は彼女を受け止めて、やわらかく背を抱いた。詩桜は彼の服に染み込んだ、煙草の甘い香りを懐かしく嗅ぐ。
「おかえりなさい」
 細い腕に力を込める。強くしがみついて離れない。それは迷子が親を見つけたときの力強さと、その折の孤独に擦り切れた心の弱々しさに似ていた。
「ただいま、詩桜」
 瞬は詩桜の髪を撫で、目を細めた。愛しさに満ちた彼の眼差しに、痛みが沁みのように広がる。瞬は潔く少女の肩を掴んで体を引き離した。
 由稀(ゆうき)は出会った頃の瞬を思い出した。手負いの獣のような生々しく錆びついた感情が、今また瞬の首筋に巻きついていた。輝きと見えたものは、彼の苦しみの形であったかもしれない。
 詩桜は瞬を見上げて、綿毛のような頬に気遣いの笑顔を浮かべた。振り切る早さで、店の奥へと消える。彼女の背中には確かな喜びが舞っていたが、由稀には先ほど紅に向かって見せた鋭さが、途切れながらも続いている気がしてならなかった。
 羅依(らい)が瞬の背後から姿を出した。すぐに由稀を見つけて歩み寄ってくる。由稀は軽く手をあげた。
「よお」
「おう」
 昔のように素っ気ない素振りに、由稀は思いがけず肩透かしを食らった。
「何かあったのか」
「いや、別に」
 言葉を濁らせ、羅依は引き寄せた椅子にかけた。視線は戸惑いながらも瞬を追う。彼女の清涼な頬は恥じらいに色付き、瞳には憂いが熱のように沈んだ。由稀は、追及を飲み込んだ。
 店内を包んでいた大らかな空気は、身を削るような尖った薄闇に化ける。この地下の空間が、瞬の存在に引きずられていく。料理が湯気を細らせる。由稀は空腹に寄りかかって逃げることも恐れた。
 厨房に接した奥の座席へ、瞬は向かった。だが、思い出したように立ち止まる。
「結論は出たか」
 瞬は背を向けて、前を向いたまま言った。それは明らかに、(こう)へ投げられた言葉だった。
 紅が肩越しに振り返る。親譲りの整った横顔には、氷のように冷たい決意があった。じっと黙って、瞬の背中を睨みつける。
 沈黙を嘲笑って、瞬が振り返った。
「俺は由稀みたいに、お前の無言を汲んでやる気はない。言え」
 上着の裏から煙草を取り出し、火をつける。瞬は天井を見上げて、紫煙を吐いた。掴めそうで掴めない緩やかな煙は、天井を這って溶けるように消えた。
 紅は俯き、顎を強く噛み締めた。由稀にも羅依にも、入り込む余地はなかった。
 首を振って、瞬は再び足を出す。
 短く息を吸う音が、由稀の耳に刺さった。
「俺はお前を許さない」
 破裂しそうな感情を抑えて紅が呟いた。顔を上げて、立ち上がる。
(あかね)の寂しさも陣矢(じんや)の苦労も、俺はうやむやにしない。お前に全部、味わわせてやる」
 紅は握り締めた拳を、体の後ろに回した。由稀はそれが震えているのを見た。彼の中で、恐怖と自尊心とがせめぎ合っている。
 瞬は上着を脱いで、椅子の背に投げた。
「くだらない」
 背の高い椅子に座り、しなやかに脚を組む。頬杖をついて体を捻り、冷ややかに紅を見つめた。
「それがお前の答えか」
「そうだ」
 迷いがないわけではなかった。だが紅は、それをひたすら隠そうとする。瞬は詩桜が差し出した器を受け取り、煙草を持つ手に持った。
「お前もその道を取るのか」
「え」
 呟きは、ただ一人、詩桜にだけ届いた。瞬は器の中を見つめ、薄い唇を曲げた。
「選ばせた俺が馬鹿だったようだな。実にくだらない」
 瞬は笑った。しかしそれは、心を欺く笑いだった。
「好きにしろ」
 言い捨てて、瞬は背を向けた。煙草の煙が厨房の湯気に混ざって見える。瞬の背後から漂う激しさも、あけすけな香辛料の香りに掻き消された。店を占めていた厳しさも、壁の向こうにすり抜けていった。
 由稀は瞬の存在感にあらためて圧倒された。彼がいるだけで、白は黒に、有は無に変わる。まるで支配者だった。
 それに比べて紅は、あまりにも小さすぎた。比べるのも不憫なほどにありふれた存在だった。
 紅はそれを恨んでいる。自らの非力に臍を噛んでいた。
 凡庸であるからこその連帯感を捨ててでも、紅は瞬に追いつき、打ちのめし、追い越すことを夢見ている。だがその為に失うものは紅の想像以上に大きく、得るものは腹這いになるほど重い。絶対者の孤独を、彼が知る由はなかった。
 彼はまだ、自分の置かれた幸福に気付くには若すぎた。
 由稀は大皿から料理を取り分け、紅と羅依の前に置いた。羅依が増えたため、由稀の分の皿はなかった。由稀はおもむろに立ち上がった。
「冷めるから、食えよ」
 紅の肩を軽く叩いた。瞬を睨みつけていた新緑の瞳が、由稀を捉える。そこには確かに鬼気迫るものがあったが、由稀にはそれが甘えにも見えた。
 最大の不幸は、紅が自分を特別だと思っているところにあった。瞬を忌み嫌いながら、自分にも彼のような絶対的で魅惑的な資質があると錯覚していた。容姿は似ても、残念ながら背負う闇までは遺伝しない。
「むきになるなよ」
 同じ土俵で戦うことは、賢明とは言えなかった。だがそれを紅に面と向かって言うことは憚られた。
 誰もはじめから特別ではない。生きながら、血反吐を吐いて進みながら、徐々に知らないうちに特別になっていくのだ。
 皿を貰いに、厨房へ向かう。由稀は想像の中で自分の胸に手を当ててみた。何故こんなにも明瞭に紅の闇が透けて見えるのか不可解だった。
『もう、兄と話し合うことは出来ないんですよ』
 不意に、青竜(せいりゅう)の低い声が記憶から這い出てきた。喉を掴まれたように息苦しい。
『死んだ者と話す術なんて、私は知りませんよ』
 突きつけられた事実は、あまりにも大きすぎて、作り物のように残酷だった。
『竜族を滅ぼしたのは私なんですから』
 由稀の手に負える話ではなかった。どんなに努力を重ねても、覆らない過去を暴くだけに思えた。
 未練がましく青竜を追うに至るまでに、自分の心は紅のように揺らいだだろうか。
 全ての可能性を見つめる余地があっただろうか。
「はい、これでしょ」
 腹のあたりに固いものを押し付けられ、由稀はとっさに両手で受け取った。指先には冷たい感触がある。目の前には詩桜がいた。手には皿と箸を握らされていた。
「あ、ああ。ありがとう」
「ぼんやりしてたけど、大丈夫」
 興味深げに由稀の顔を覗き込んでくる詩桜の眼差しに、もう鋭さは見られなかった。由稀は力なく笑って首を横に振った。
「ちょっと、嫉妬中」
「は?」
 詩桜の混乱をよそに、由稀は卓へ戻る。
 今まで何度も抱いた感情を、一歩踏み出すごとにまた噛み締める。
 選択肢を与えられた紅が、たまらなく羨ましかった。自分にはできなかった逡巡を、紅の表情に勝手に透かし、勝手に妬んだ。
 子供じみている。そう冷静に突き放しても、欲望は間隙をついて由稀の目の前に醜態を掲げて見せた。髪を掴み、顎を押さえ、視線を逸らす余裕もないほど近くに、見苦しい憧憬をちらつかせる。結果、誘惑に負けて、時折悪い夢を見るのだった。羨望は嫉妬になり、紅の不明を抉り出す。紅を貶めることで、相対的に自分の心を掬い上げた。
 何のために自分が生まれたのか、その叫びに精神が崩れてしまいそうだった。あの日、青空の下で瓦解した血縁の幻想のように、自分の存在までも壊れることを怖れた。
 杭を打ち込むように、理性と笑顔で仲間に接してきた。行き過ぎた演技が、いつか真実になればと望んだ。だが杭は痛むだけで、由稀の大地には刺さらなかった。心は泥のようだった。『鬼』の抜けた穴は、思いのほか大きかった。
 羨ましかった。素直に憎しみを植え付けてもらえた紅が、痛みに共感しながら、ひどく羨ましかったのだ。
 自分には喪失感が残っただけで、何をどう憎めば恨めばいいのかわからなかった。そもそも、鬼の悲しみを多く見すぎた。全てを背負った鬼の孤独は、由稀にはとても耐えられるものではなかった。
 由稀は卓の上に皿を置いて、正面の紅を見据えた。憮然としながらも、空腹に耐えられず料理を掻き込んでいた。まるで十にも満たない子供のようだ。
 由稀は諦めて笑った。
「汚ねぇ食い方」
「あぁ?」
 頬張ったまま出した声はくぐもり、間抜けな響きになった。由稀は声をあげて笑った。
「こぼすなよ」
 呆れて頬杖をつく。人らしさに溢れた紅は、浮世離れした瞬とは、似ても似つかなかった。もしも似たように見えるなら、それは紅の無意識の叫びだ。
 紅は一人で苦しむ。自分の周りに、自分の意識とは無関係の世界があることに気付いていない。人の痛みに鈍感に、自分の痛みに鋭敏になった。
 だから由稀は、いつも彼の裾を踏んだ。いつも彼の前に立ちはだかった。
 がんじがらめになっているなら、何度でも、邪魔をしよう。それがたとえ由稀の自己満足であったとしても。
 由稀は大皿へ箸を伸ばした。つまんで食べた野菜は少し冷めていたが、芯のしっかりとした優しい味がした。
「大人げないんだから」
 厨房から梅煉の呆れた声がした。調理の音はもうしない。由稀が顔を上げると、料理を運ぶ詩桜の姿が見えた。無言で次の料理を卓に置く。去り際に、先ほど落とした布巾を拾っていった。瞬の二つ隣に軽く飛び上がって座る。
「梅煉はこう言うけど、嬉しいんだよ。帰ってきてくれてありがとう」
「あいつらの厄介に巻き込まれてな。それでだよ」
 瞬の言葉を受けて、詩桜が卓を振り返る。
「古くさい言葉の人ね」
「古くさいとか言うなよ」
 由稀はすかさず反論した。だがすぐに、彼女が由稀らにもわかる言葉で話していることに気付いた。大人しく食事を続ける。
「なんだ、紹介はまだか」
 詩桜は頷いた。瞬は指で煙草を弾いて、粉雪のような灰を落とした。
「黒いのが由稀、隣が羅依。アミティスから連れてきた」
 瞬は煙草の先で二人を指す。詩桜はそれを追って由稀を見た。気配を感じて由稀が顔を上げると、真正面から視線がぶつかった。羅依もちらと振り返ったが、すぐに顔を逸らした。由稀も瞬も、彼女の人見知りに薄々勘付いているので、特に注意することはない。詩桜はつまらなさげに、椅子の上で両膝を抱えた。
 瞬は顎で厨房を指した。
「こっちが梅煉。古くからの知り合いだ」
「そうだね、あんたとは本当に古いね」
「凍馬より昔だからな」
「あんたがこの子らくらいの頃から知ってるもの」
 梅煉は透き通った器に、やや濁った乳白色の液体を注いだ。一つを瞬の前に置き、もう一つを豪快に飲み干した。
「昔は本当にかわいい子だったんだけどねぇ。いつの間にか、こんな鬱陶しい男になっちまって。ああ、もったいない」
 瞬は梅煉の言葉を聞かない振りで、乳白色に口をつけた。
「そっちは相変わらずの酒豪だな」
 思いのほか強い酒に、顔を顰める。新しい煙草を取り出して、瞬はそれを弄んだ。
「それから、こっちは詩桜」
 瞬は紅を一瞥して短くなった煙草を揉み消す。
「俺の兄貴の娘だ」
「え!」
 由稀は思わず声をあげた。詩桜は抱き揃えた膝の上に顎を乗せて、素知らぬ振りをする。
「瞬の、えっと、姪か」
「そうだな」
 新しい煙草に火をつけ、瞬はしれっとして頷いた。
「てことは、紅のいとこか!」
「はぁっ?」
 それまで無言を貫いていた紅も、驚きの声をあげた。
 詩桜を見遣ると、顎を膝に乗せたまま小さく丸まっていた。彼女の長い睫毛が、灰色の瞳に陰を落とす。虚ろな輝きは、波のように揺らいだ。眼差しからは、底なしの孤独が覗いていた。
 由稀はそこに、眩むような燦然たる光沢を見た。