THE FATES

3.萌芽(7)

 天水(てんすい)の寒さは厳しい。昼間の熱も、小波(さざなみ)の空に吸い上げられて夜には冷えた。(しゅん)は上着の襟を合わせ、咥えていた煙草を手に持った。
 透けた黒い夜空では、星が生命を揺らしていた。唇から洩れた紫煙と吐息が白く広がり、瞬の視界を覆った。揺らめきが霞む。途端に、首筋から血の臭いが立った。瞬は、あどけない天の瞬きから視線を逸らした。
 仕事を受けるため、瞬は通い慣れた店へ向かう。訪れるのは、決まって閉店後だった。
 重い扉を押し開ける。蝶番の軋みが、瞬の現を和らげた。薄暗い照明の向こうで、中年を過ぎた店主が振り返った。
「いらっしゃい。今日は早いな」
 店主は酒で嗄れた低い声で言った。笑うと灰色の口髭が跳ね、愛嬌があった。
 瞬は椅子にかけて、上着を脱いだ。暖炉が薪を焦がしていた。
「大した仕事じゃなかった。護衛もなく、一人だった」
「そうか。お前さんには役不足だったな」
 店主は軽く笑って、棚から器を取り出した。酒を注ぎ、瞬の前に静かに出す。
「今日、暗くなりかけた頃だったかな」
 口髭を撫でて店主は呟いた。瞬は酒に口をつけて視線だけ上げた。
「随分かわいらしい、小さなお客が来てたぞ」
 謎かけのような口振りに、瞬は全く興味を示さない。眼差しは波のない夜の海のようだった。店主は朗らかに失笑した。
「会いたいそうだ」
「仕事の話か」
「さぁ、そこまでは聞いてないよ。なにせ、十ほどの女の子だったからな。こんなところ、長くいたら危険だろう。下の者に言いつけて表通りまで返したよ」
「ただの世間話じゃないか。くだらない」
「驚いたよ。鬼使がここに出入りしていると、あんな小さな子まで知ってるのかとね。そろそろここも終いにしないとなぁ」
 愛しげに黒い長卓を撫でる。口髭が跳ねた。
「しかし、そうまでしてお前さんに付いて行こうとする私は、やっぱり狂ってるのかね」
 店主は手を後ろで組んで、俯き加減に裏へ消えていった。

 暗闇はいつも、瞬の全てを包み込んだ。体は軽やかに、心は手綱を解かれた獣のように自由だった。子供の頃は一人きりで眠るのが怖くて仕方なかったこの世界も、今、自分が闇と同じ色彩になってしまえば、溶け合い、境界はなくなり、もはや闇は己となり、その点で怖れることはなかった。
 目の高さに掲げた手が、闇に翳る。指先は飲み込まれた。
 怖いのは、自分が外へ広がっていくことだった。
 瞬は黒い眼鏡を外した。目の前に立つ男の顔が、恐怖と苦悶に歪んでいく。
「う、うぅ」
 なりふり構わず助けを求めて、男は呻いた。口元からは唾液が糸を引いた。何かを掴もうと伸ばした指先は、瞬の体のすぐそばで宙を薙いだ。ゆっくりと、体が後ろへ傾いでいく。夜更けの街に、土嚢を投げ落とすような音がした。男は指先を小さく震わせて事切れた。それを見下ろして、瞬は首を傾げた。
 欲望にも世界にも、際限がない。
 限りある生命が、無限の世界を手に入れようと足掻く。生きている限り、抱えきれない欲に踊らされ、煩悩の虜になる。
 何が人をそうさせるのか。人は人である限り、そう定められた生き物なのか。
 男の顔には、直前の悪夢が張り付いていた。見開いた目は濁り、虚空を泳いでいた。
 個が消えて、塊になっていく。どんなに飾っても、どんなに聡明で、どんなに強く美しくとも。誰も皆同じだった。
 時折、渇いた感慨が瞬の胸を占めた。
 天水王家も、ただの塊なのか。何百年も追ってきた仇の背中は、そんなちっぽけな存在だというのか。
 神は。人に限りない儚さという盾を植え付けた神は。いつまで自分の罪を認めないつもりなのだろうか。
 時は諾々と過ぎ、多くの熱が瞬の中から流れ出た。永遠に続くものなど、ない。
 これが人の儚さか。所詮、自分もただの塊か。
 強くなりたい。それが子供の頃の夢だった。
 体の真ん中を、音のない風がゆっくりと抜けていく。胸に築いた城が、砂になり崩れていく。瞬は眼鏡をかけ直し、男の死体に背を向けて歩き出した。
 路地から出ると、絆景(ばんけい)の賑わいが華やかに瞬を迎えた。風の通り抜けた穴が、何事もなかったように閉じていく。奥は空っぽのまま閉ざされていく。瞬は自らをこの世界の汚点と称えて、狭い道を進んだ。
 荷車一台で、塞がるような道だった。居並ぶ店からは木箱がはみ出し、方々で客寄せの若い男女が声を嗄らした。軒にぶら下がる幾つもの燭台が、道を丸く照らした。
 影はどこからでも這い出てきた。肩がぶつかりそうになるのを、すんでのところで交わして歩く。同じ場所にありながら、誰もが周りを見ようとしない。木箱も、荷車も、燭台の明かりも、すれ違う人々も、全て同じだ。自分以外のものでしかない。滞るでも淀むでもなく、生きていない。瞬は閉ざされた世界の中を、俯き加減に抜けた。ひどい喧騒すら、異国の言葉のように霞んだ。
 生きていないのは、きっと自分自身だった。ずっと、ずっと遠い昔から。
 均衡は、不意に崩された。
「待って」
 瞬は後ろから袖を引かれて、思いがけず立ち止まった。振り返ると、一人の少女が小さな口を決意に固めて寄り添っていた。朽葉色の波打つ髪が、街灯に映えた。瞳は降り積もった灰のようだった。強い眼差しが瞬を射る。
『愛してるわ』
 一瞬、陽炎のように過去が立ち昇った。女の匂いを思い出した。
「やっと見つけた。ずっと探してたのよ。あなたなんでしょう」
 そこまで言うが、少女は瞬の手で口を塞がれた。見れば見るほど、瞬には見覚えのない少女だった。緩やかな仕草で、瞬は口元に人差し指を立てた。
「消されたいか」
 一切の暴力はない。むしろ唇に触れる掌は繊細で、ひんやりと心地よかった。だが少女は身動きが取れなくなった。
 瞬はすぐに、店主の話していた少女が彼女だと悟った。少女の手を引いて人込みから抜け出す。動揺しているのか、腹が据わっているのか、少女は戸惑いや震えを一切見せずに、引かれて共に駆けた。
 絆景の外れで、瞬は少女から手を離した。
「お前か。俺のことを探してた子供は」
「知ってるってことは、あの髭のお店で聞いたのね。やっぱりいたんだ」
 少女は瞬が掴んでいた手首を押さえて、澄んだ瞳で睨みつけた。
「ずっと探してたのよ。だけどあなたの名前を口にすると、途端に誰も相手をしてくれなくなった。あの髭だけ。送ってくれたりしたのは。当たりだと思った」
 見た目の割に大人びていた。腕を組み、鼻先を上向ける。
 少女のおぼつかない興奮が、瞬の感傷を抉っていく。何度払っても、幻影は瞬の脳裏から離れなかった。次第に苛つきが募った。
「何の用だ。仕事か」
 瞬は服のあちこちを探して煙草を取り出した。使い慣れた火付け具が、言うことを聞かない。なんとか火をつけて、深く煙を吐き出した。
 少女は腕を解き、瞬の横顔をじっと見つめる。
「あんまり似てない」
 残念そうに呟いた。
 瞬は眉を寄せて少女を見つめ返した。頭の中で色々な可能性を探る。眼鏡を外し、少女の顎を掴んで引き寄せた。どう見ても、彼女の瞳は深緑ではなかった。瞬は安堵しつつ、しかし少女の様子に首を捻った。
「ねぇ」
 少女は瞬の袖を掴んだ。
「あなたじゃないの。私のお父さん」
「生憎、違うみたいだ」
 瞬は眼鏡をかけ、ゆっくりと煙草を吸った。妙に美味く感じた。
「他を当たれ」
「でも言ってたのよ、梅煉(ばいれん)が」
 背を向けて歩き出した瞬に向かって、少女は強く言った。瞬は立ち止まった。
「梅煉、だと」
 龍仰鏡(りゅうおうきょう)が、体の奥でざわついた。
 濃い染料の匂い。冷たく柔らかい、木の床の手触り。耳の奥に、殊来鬼(しゅらき)の森の葉擦れが響く。
 ちらついていた幻影が、無音で弾ける。
 木漏れ日の中、微笑む染芙(せんふ)が、瞬の意識を一呼吸奪った。