THE FATES

3.萌芽(13)

 部屋の中央では火が焚かれていた。布地の壁に、炎の影が歪んで躍る。中は家畜の乳の匂いがした。甘い匂いだった。青竜(せいりゅう)は火のそばに腰掛けて、燃え盛る中心を強く見つめた。
 炎の他に明かりはない。薪がはぜて、絶えず小さな破裂音が続いた。炎の先は飛沫のように跳ね上がり、いつしか暗闇に吸われて消えた。青竜には世界の縮図に見えた。
 目を閉じると瞼の裏に竜樹(りゅうじゅ)界の緑が広がった。鳥のように森を越え、街を見下ろす。賑わいも華やかさも、全てが彼の中で蘇った。青竜は薄く目を開けて、目の前の炎を残像に重ねる。街は一瞬にして大火に包まれ、壊れた。
 青竜は脚に肘をつき、額を両手で支えた。冷えた指が、炎に撫でられた肌に心地よかった。徐々に自分の体が小さくなっていく幻想にたゆたう。顧みた心は、震えていた。
 歓喜か、恐怖か。青竜には判別できなかった。ただ、幼い由稀(ゆうき)を初めて腕に抱いたときにも、同じような震えが背中を這った。笑顔の絶えない赤子には、彼の愛した女の面影が滲んでいた。
 ゆっくりと長い息を吐き出す。足元からは土の湿り気が感じられた。
「ただいま」
 乾いた風に炎がはためいた。突然の外光が青竜を射た。
 顔を上げると、光の中に人の輪郭があった。光を遮り、姿は黒一色だった。青竜は腰を上げて出入口に寄った。横に並ぶと、黒は和やかな笑みを浮かべた。
「ごめんね、暇だったろう」
「いいえ。そのようなことは」
 青竜は体をよけて凍馬(とうま)に道を作る。はにかんで、凍馬は中に入った。それまで青竜がかけていた椅子に座る。青竜は部屋の骨組みに軽く凭れた。背中に当たる固さが、彼に平静をもたらした。
「どうでしたか」
 凍馬は目を合わさずに苦笑した。
「ついにご到着だよ。思っていたより早かったね」
鬼使(きし)だけでしたか」
「いや、他にもいたよ。由稀君もね」
 そう言って、凍馬は出入口の幕を指差した。気付いた青竜が幕を下ろして、中は再び炎に彩られた。
「当面はこの術で瞬からの干渉をかわせるけど、土地に残った君たちと俺の接点は消せない。あいつは確実にそれを嗅ぎ取るだろう。(しゅん)も馬鹿じゃない。龍羅飛(りゅうらひ)跡だしね、向こうが有利だ。まぁ、この場所に辿り着くまでは時間がかかると思うよ。ごまかせる間はごまかしてあげるから」
 凍馬が手を翳すと炎は激しく火の粉を散らした。奥が青く光る。
「本当に鬼使はここを知らないのですか」
「知らないよ」
 素早い返答に青竜は次の言葉を奪われた。凍馬は辻褄を合わせるように目を細めて笑った。
「あいつは俺たち姉弟が追放を受けたことを知らないからね。(あかね)さんが約束を破って話してるとも思えないし」
「約束、ですか」
「そう。姉貴が、心配かけたくないからって、茜さんを口止めしたんだ。それがなかったら、俺も君たちを匿うなんてしないよ」
「ですが、どこまで信用できるんですか。彼女のことは知っています。約束を破るような女性ではありませんでしたが、あのような極限状態に置かれて、適切な行動を取れたかなど、誰にも、鬼使以外にはわからないじゃないですか」
 声を荒げはしないものの、青竜は厳しく言い放った。不安というより、少しでも危惧があるなら頭の片隅に置いておきたかった。これ以上の障害は、全ての時を逸する。
 炎に照らされた凍馬は揺らめく炎を目で撫でて、表情を隠した。
「ありえない」
 声の裏側に隠された激しさが、青竜の追及を抑え込んだ。凍馬は炎の中に手を入れて、青い光を掴んだ。
「むしろ逆だね。他人の話をする余裕は、あの人にはなかったはずさ」
 指の隙間から澄んだ光が洩れて、幾本の線になる。うち一つが凍馬の胸を貫くように伸びた。青竜は凍馬の言葉に、彼にも隠し切れない棘があるのを感じ取った。
「よく理解なさっているんですね」
「そうだね。決して馬が合うとは思わなかったけど、お互い相手に自分を見ていたんじゃないかな。手に取るように茜さんの気持ちがわかるよ、俺には」
 凍馬は光を手放した。青い塊は炎の中心に帰り、じんわりと溶け込んだ。
「奇妙に思うかい」
「はい」
 青竜の飾らない返事に、凍馬は大声で笑った。
「素直な人だな。いいね、面白いよ」
 笑いを納めて、凍馬は軽く首を傾げた。
「そうだな、わかりやすく言うと、彼女も俺も、瞬の気侭の被害者なわけだよ。いや、弱さと言った方がいいのかな。随分と振り回された。呆れるくらいにね」
「なら、離れればいいじゃないですか」
「そうなんだよ」
 そう言って、凍馬は黙り込んだ。沈黙を、炎の呟きが繋ぐ。一人語りの孤独な囁きだった。炎の芯は濃く染まり、脈打った。
「あいつには、あいつにだけは負けたくないんだ。逃げたくない。ただ、それだけだよ」
 炎は日暮れの青を思わせた。熱はなく、炎はただ輝き揺らめく。凍馬は静かな微笑を浮かべた。
「君たちも、俺から見れば奇妙だよ」
 笑顔に滲む哀しみを、凍馬は軽い仕草で揉み消す。青竜は捻じ曲げられた空気を元に戻せず、冷えた心地で凍馬の完璧な笑みを見返した。
「そうですか」
「俺も多くの人たちを見てきたけれど、究極的にはみんな自分が大事なんだよ。なのに君は自分よりも久暉(ひさき)くんを選ぶ」
「当然です。彼は私の主ですから」
「主か。まるで神に仕えているみたいだね」
「神……」
 青竜は呟いてみて、その心地よさに気付いた。
「そうかもしれませんね。全てを捨てた私を、地獄の縁から掬い上げてくれた人です。彼だけが希望で、彼だけが光で、彼だけが私の世界なんです」
「その神様を自分の手で助けた気分は、どんなものなのかな」
 凍馬は軽く伸びをして、悪びれる様子はない。
「そろそろ教えてよ、君が使った術のこと」
「知って、どうするつもりですか」
「どうって、姉貴の体を元に戻すんだ」
 麦色の瞳に、愛しさが満ちる。しかし青竜には同じだけの狂気も感じられた。
「それで俺が世界から消えてもいい。全てが終わってもいい。姉貴が息絶えるその時は、昔のきれいな体に戻してあげたい」
 凍馬が見つめる先には、闇があった。炎の指先が届かない部屋の隅を、凍馬は射殺すように見つめた。
「君にならわかるだろう」
 視線が青竜を捉える。青竜は思わず息を詰めた。周りの空気が引き絞られていく。もしも凍馬が人を殺めるときは、直接手を下すことなく、静かに事を終えていくのだろうと、青竜は想像した。
 凍馬は椅子から立った。炎を上から覗き込む。
「世界に逆らっても、神を刺し殺してでも、どうしても叶えたい、その気持ちが」
 少しくせのある黒髪が、炎の風に吹き上げられた。瞳に炎が宿る。青竜は乾いた唇を舐めて、息を吸った。
琉霞(るか)さんは、今でも美しい人ですよ」
 青竜の言葉に、凍馬は虚を突かれて顔を上げた。すぐに穏やかな笑顔を見せる。
「ありがとう」
 狂気は燃され、輝きを増した。