THE FATES

3.萌芽(14)

 見上げた空は薄灰色の雲に覆われ、微動だにしない様子は時間感覚を狂わせた。久暉は短い芝の上に腰を下ろし、止まった世界を眺めた。
 地平線までを目でなぞっても、まばらに芝が生えるのみで木々はない。花の彩りもない。光の少ない昼間は薄暗く、砂は静かに軋んで在った。
 じっとしていると、肌にささやかな風が触れた。微かに生き物の気配もある。しかし瑞々しさに欠けた天水に、久暉は故郷の斎園(さいえん)を重ねて見ずにはいられなかった。
 赤黒く見下ろす空、草木の生えない乾いた土地、恐怖と絶望に静まり返った町、動くもののない世界、光のない世界。
 久暉は目の奥に焼きついた光景を掻き消すように、鮮やかに澄んだ空色の瞳を固く閉じた。両の拳を強く握り、掌に刺さる自らの爪を鋭く感じ取る。
 生きていた。この体は、確かに生きていた。
 凍えた。
 自分の進んだ道の恐ろしさに、心が凍えた。恐る恐る目を開けて、かじかむ掌を見つめる。
 外の世界のことは、母から寝物語に聞いた。光が溢れ、森が広がり、無尽蔵に水が流れ、人々は世界の恵みを存分に享受している、と。それはまるで神の住む世界だと。
 母はその話をするときだけ、少女のように瞳を輝かせ、優しく微笑んだ。やつれた頬も、母を美しく見せる魔法に思えた。
『あなたの髪と瞳は、神の世界の色だわ。清々しく突き抜けた空の色よ』
 久暉は母を亡くし、すぐに神の世界に憧れた。
 抜け出したいと願うのは、罪だったのだろうか。
 魂に刻み込まれた地獄が、いつまでも脳裏から消えない。死んでいった同志の顔が、苦悶に犯され裂かれていく。
 こんなに沢山の犠牲を払ってまで、叶える夢などあるのだろうか。
 襟を崩し、胸元の刻印を見つめる。その刻印にかぶさるように、生々しい傷跡が体を斜めに裂いていた。背中にも同じような傷があった。指で触れると、まだ痛みがあった。久暉は、由稀の中で目覚めたときの絶望を思い出した。
 風が一陣吹いた。見上げた灰色の空は、緩やかに流れはじめた。
「もし」
 久暉は人知れず呟いた。
 もし、このままアミティスに帰ることが出来なかったら。天水で生を終えることになったなら。それはそれで一つの幸福の形かもしれない。
 背後で砂を踏む音がした。振り返ると、琉霞の姿があった。彼女は消え入りそうな美しい微笑を見せた。
「風が出てきたね。もうすぐ砂嵐が来るわ」
「いつから、そこに」
 久暉は立ち上がって声を潜めた。包帯で覆われた彼女の顔を見つめる。
「今よ」
 琉霞は笑みを崩さずに言った。久暉のすぐ横に並んで、空を見上げる。横から見れば、包帯の存在は感じられなかった。
「瞬が帰ってきたからかしら。天水の鼓動を強く感じる」
「鬼使が来たか」
「うん。これは、彼の波よ」
 そう言って、琉霞は黄砂色の瞳を無邪気に細めた。久暉は彼女に母の面影を見た。
「好きなのか、鬼使のことが」
 いつまで待っても通ってこない父を、母は死の直前まで愛し抜いた。明日には来てくれるかもしれないと言って、身をやつした。それは盲信に似て無様であったが、真っ直ぐで憎みきれず愛しくもあった。
『母さまは父さまのこと、好き?』
 幼い久暉が尋ねると、母は決まってこう言った。
「好きよ。だって、優しいんだもの」
 照れることなく琉霞は言い切った。微笑みは慈しむ眼差しへと移り変わる。久暉は遠慮がちに、包帯の巻かれた彼女の手を取った。背後の住居へと早足で引いていく。
「久暉くん、早いよ」
「砂嵐、来るのだろう」
「そうだけど」
 琉霞は幾重にも重ね着た服の裾を押さえ、久暉に引かれて歩いた。
 守りきれなかった母をもう一度得た心地で、久暉は琉霞の手を握り直した。
 顔を上げる。淡雪色の術間から出てくる人影があった。こちらに気付いて、賢しく空を見遣る。砂嵐の気配を悟り、急ぐよう手招きした。
 久暉は心の手綱を締める。
 見つめる先には、青竜がいた。