THE FATES

3.萌芽(15)

 靴底から染みる砂の感触に、(しゅん)は郷愁を嗅いだ。黒い靴は半分ほどが砂に埋まっていた。包み込んでくる。さらさらと降り積もる砂を見つめ、瞬は立ち尽くした。耳を澄ますと砂音がそよぐ。その奥に、微かに響く音があった。雑音を掻き分けていく。突如、大きな爆発音が耳の下で蘇った。
 一瞬、流れる砂が人の手に見えた。白い手、赤い手、黒い手、千切れた手。助けを求めて、足首に絡み付いてくる。
「ばか、砂舞ってる、舞ってる」
 由稀(ゆうき)らの騒ぐ声で我に返った。瞬はとっさに靴の砂を払った。
 先頭をきって、鉄扉の大門をくぐる。膜のような抵抗感が体に触れた。結界を潜った者がいる証拠だった。そこに久暉(ひさき)青竜(せいりゅう)の気配が残っているのを確かめて、瞬は歩調を速めた。
 最後に龍羅飛(りゅうらひ)跡を訪れたのは、天水(てんすい)を発つ日のことだった。ここへ来るまでは、もっとずっと昔のことだと思っていた。しかし今は違った。全てが昨日のことのように思い出された。瞬は道の脇に捨てられた戦車を一瞥して奥へ進んだ。
 大門から続く通りは商店が並び、かつては活気に満ちていた。灰色の煉瓦に緑の看板を下げた食料品店には、よく使いに走らされた。店の夫婦には子供がなく、使いに行くといつもおまけをしてくれた。優しい笑顔の二人だった。だが記憶に残る二人の影は光に褪せて、思い出せない。
 路地の一角に、小さな黄色い花が咲いていた。たった一輪から始まった。枯れて、種が落ち、また咲いた。それが戦火で再び一輪になった。瞬は血が沁みて焼かれた土を鎮守の森の土と入れ替え、生き残った一輪を守った。
 美しい思い出ばかりが頭をよぎる。体が土地に馴染んでいく。ここは確かに、瞬を育んだ場所だった。胸の奥の甕が満たされていく。瞬は何度も息を呑み込んで、溢れそうになる叫びを堪えた。
 やがて歓喜は虚しさに蝕まれる。甕に現実のひびが入る。隙間から水が染み出る。昂ぶりは濡れ、絶望にじっとりと張り付いた。
 街は無残なまでに切り刻まれ、殺された。数百年経った今も、屍を晒して灰空を仰ぐ。再び犯されなければ消えることも出来ない、尊厳など欠片もない、過酷なこの仕打ち! 破壊でしか救われない運命を、瞬は呪った。
 故郷の燦々たるきらめきは、傷跡を裏返したものに過ぎなかった。思わず街から目を逸らしたくなる瞬の、自慰でしかない。どの記憶も、美しすぎた。
 店があった場所を通り過ぎる。脇には錆びて千切れた薄い鉄板が、風に晒され砂になるのを待っていた。
 瞬は、久暉と青竜が歩いたあとをなぞって進む。二人が残した《気波動(きはどう)》は、奥の広場へ真っ直ぐ向かっていた。顔を上げると、鎮守の森を背に、瓦礫の中から塔が突き出ていた。
 広場の損傷は特に激しかった。王家からの攻撃を受け、大門を破られたあとは、ここが最前線になった。一族を守るため、塔を守るために戦った。
 悪い足場を乗り越えて、瞬は塔の真下から空を見上げる。先端から空が生まれて広がっているようだった。
 かつて禁を犯して侵入した内側には、夜より深い闇があった。体は鉛のように重くなった。息が切れ朦朧とした意識の中、瞬は光を見た。鮮烈な光の影は、今も瞼に焼き付いて離れない。
 翌日、龍羅飛は壊れた。神罰。そう思った。
 脆くざらついた塔の壁に触れる。瞬はそこに残る《気波動》に気付いた。すぐに、凍馬(とうま)のものだと悟った。辿ると、三人の気配が同じところで途切れていた。凍馬が移動法を使う形で立ち消えていた。意識を集中させて天水中に凍馬の気配を探したが、網にかかるものはなかった。故意に隠されている。それは凍馬の確然たる敵意に他ならなかった。
 脳裏に浮かぶ凍馬の笑顔に影が射す。瞬には凍馬が気紛れにしたとは思えない。だが明確な意図も読みきれなかった。
 塔の向こうに、生家の成れの果てを見る。広場から見えないはずの場所だが、崩れた家々の向こうに、わずかに煉瓦の端が覗いていた。もう、昔の面影を重ねることは出来なかった。胸に浮かぶ過去が事実か願望か、瞬には判別できなくなっていた。どちらであれ、今となっては哀しい景色だった。
 足元の瓦礫の中に見覚えのある銅板を見つけ、瞬はしゃがみこむ。塔の扉の横に掲げられていたものだ。薄く被った砂を指で払う。
繋紲(けいせつ)の塔、光陰は千切れず土に眠り、朝日は絶えず塔に登る。二つの世界――」
 記憶の文言を諳んじて、瞬は吸い込むようにして声を潜めた。
 今まさに、結界に触れる者がいた。舐めるように、わざと触れてくる。不快だ。濡れた手で背中を撫でられるようだった。振り返ってはいけない、直観した。耐える。
 粘ついた視線が頬に張り付く。体中が辱められているようだ。見られている。絡め取られる。瞬はこの視線に覚えがあった。不意に、見送ってくれた梅煉(ばいれん)の不安げな声を思い出す。
『気をつけるんだよ』
 詩桜(しおう)のことだと思っていた。だが思い返すと受けた印象にそぐわない。瞬は梅煉が伝えたかったことを探る。
 梅煉の不安、(あかね)の死、染芙(せんふ)の犠牲、凍馬の狂乱と肉体の喪失。散らばっていた記憶が、急速に繋がり再構築されていく。
 瞬は染芙の最期の日を振り返る。
『あの人に、自ら命を絶つような度胸があったと思うの』
 思い出した心が冷静さを失い、のた打ち回る。瞬は知らないうちに強く奥歯を噛んだ。
(えん)は、私が殺したのよ』
 記憶の中、砂嵐の落とした風が吹いた。銅色の長い髪が、染芙の優美な顔にかかる。真っ直ぐ睨みつけてくる濃紺の瞳に、瞬は嘘を見抜けなかった。それは彼女にとっては嘘ではなかったのだ。たとえ彼女が直接手を下していなくとも、焔を死に追い込んだと責め悩んでいたのだ。
 だがなぜ彼女は、そう瞬に告げたのか。瞬は今まで考えることをしなかった。たとえ考えても、彼女の苦しみゆえとしか至らなかった。
『次はあなたの龍眼(りゅうがん)をもらうわ』
 腕に、染芙の剣を受けた時の衝撃が蘇る。手加減はなかった。だが殺意もなかった。明らかに彼女の意思ではなかった。そこから瞬の記憶はなく、次に見たのは血を流して倒れる茜の姿だった。
 悲劇を繋ぐ、ただ、ただ一つの結び目を、瞬は長いあいだ見落としていた。
 もう一人、これらの悲劇に関わっていたとしたら、全ての辻褄が合う。
 かつて一度だけ感じた、蜘蛛の糸のように絡みつく視線。龍仰鏡(りゅうおうきょう)の鼓動に戸惑い、幼い瞬は剣を振るった。繰り出される攻撃から逃げるだけで精一杯だった。結泉(けっせん)の息苦しさが孤独と結びついた。苦痛は悲しみを越えなかった。視界は真っ赤に染まった。空は瞬を素知らぬ振りで、真っ青に輝いていた。
 全て、あの日から始まっていた。瞬はまばたきも忘れて愕然とした。
 乾いた風が頬を撫でて過ぎる。体中の水分を奪われていく。いくら渇望しても戻らない。手にしていた温もりは、全て手の皮ごと引き剥がされた。
 動揺が治まらない。体が空気を求めて喘ぐ。ひどい頭痛がした。足元が溶けるようにして崩れていく。
 花のような香りが軽やかに舞い降りた。
 そよ風のように、染芙の声が耳元で囁いた。
『大丈夫よ。怖いことなんてなんにもないわ』
「大丈夫か、瞬」
 背後からの声に驚いて、瞬は肩を震わせた。袖を引かれる。誘われるまま振り返ると、羅依(らい)がいた。
「羅依」
「顔、真っ青だけど。どうかしたのか」
「いや……」
 受けていた視線が、針のように鋭くなって突き刺さった。瞬は視線を辿って顔を上げた。先には鎮守の森があった。鬱蒼と茂る緑の隙間に、人影があった。滑らかな女の体に沿って、金茶色の髪が揺らぐ。はっきりと相手がわかる距離ではない。だが纏わりつく視線に間違いはなかった。
 瞬は顎に力を入れて、女を睨み返す。しかし視線は競り合う手前でかわされ、女の興味は瞬の背後へ向かった。追って、袖を辿る。
「なぁ、本当に大丈夫なのか」
 羅依はあまりにも無防備だった。脳裏を血に濡れた茜が掠める。瞬はとっさに彼女の手を振り払った。
「あ」
 指先を弾かれ、羅依は手を押さえて茫然とした。瞬は不注意にも狼狽した。
 すぐに鎮守の森を振り返るが、そこに人影はなかった。
『欲しいものは、手に入れるためにあるのよ』
 瞬の体から、一斉に汗が吹き出た。