THE FATES

3.萌芽(16)

 一面に広がる砂漠を見て、由稀は息を呑んだ。
「すげぇな」
 どこまでも続く黄色い砂は、故郷の銀世界を思い起こさせた。世界が一色に染まる快感を味わう。地平線は緩やかな砂丘に縁取られていた。
「天水は、ほとんど砂だらけなんだよ」
 (こう)は真新しい眼鏡をかけて言った。少し風がある。細かい砂が舞った。由稀は両手に砂を掬って指を開いた。隙間から細かい砂がこぼれ落ちていく。
「ばか、砂舞ってる、舞ってる」
 風下にいた羅依が慌てて逃げた。
「悪い、悪い。いや、きれいだなぁと思って」
 全く悪びれる様子なく言うと、由稀は掌に残った砂を指先でこすった。弱い光のもと、砂は氷の結晶のようにきらきらと光った。
 由稀は瞬を振り返る。彼は立ち止まり、溶け落ちた鉄扉を見上げていた。背中には世界を拒絶するほどの孤独が寄り合っていた。今までに何度か見たことのある、瞬の背中だった。遠い。
 すぐ横を、羅依がすり抜けていった。歩き出した瞬の後ろをついていく。二人が会話を交わす気配はなかった。だが、由稀の目には二人が同じ場所にいるように見えた。由稀は嬉しくなって足元の砂を蹴り上げた。
 粉雪のように砂が舞い散る。
「何度言ったらわかるんだよ!」
 紅に頭を殴られても、綻ぶ顔は隠せなかった。にやける由稀を不気味に思い、紅は砂に足を取られながら先に行った。
 砂は雪ほど沈まない。踏み固められることもなかった。変化のない世界だった。遠くに見える波打つ地平線も、刻々と変わり続けているのだろうが、それは確かめようのない変化だった。由稀は不変の灰空に、彼らの世界を祈った。
 数歩歩き出して、由稀は詩桜を振り返った。彼女は目の前に聳える傷ついた砦を見上げて、小さな唇を軽く噛んだ。
 もし自分が竜樹(りゅうじゅ)界へ行ったら、どう感じるだろう。そう思うと、詩桜が抱く気持ちが、他人事には思えなくなった。
「行こう」
 由稀は声をかけて手を差し伸べた。詩桜は伏し目がちになって、由稀の手を取った。足元が悪いのでゆっくり歩く。握った詩桜の指は冷たく、由稀の手に吸い付いた。
 鉄扉の向こうは、緩やかな上り坂になっていた。しばらくは砂が続いたが、次第に石で舗装された道が現れた。
「待って」
 繋いだままだった手を、引き抜くようにして離して詩桜は立ち止まった。瓦礫を支えにして靴を片方脱ぐと、逆さにして中に入った砂を払った。小さな手には、赤い靴がやや大きく見えた。由稀は瓦礫に置かれた詩桜の手を取った。
「いい、先に行って」
「瓦礫で怪我して瞬に睨まれるのは、俺だから」
「別に、面倒みてもらう義理はないんだけど」
「じゃあ、立候補」
 由稀の満面の笑みに、詩桜は閉口して折れた。
「だったら、もう片方もあるから、ちょっと待って」
 俯いて不明瞭に呟いた。由稀は詩桜の手を恭しく持ち替え、彼女が靴を履くのを待った。人形が履くような靴には、やはり人形のような小さな足が納まっていた。小さく丸い親指の爪が、罪なほどに艶めいていた。
 砂を払い終え靴を履いた詩桜は、すぐに由稀から手を離した。
「名前、由稀だっけ」
「そう」
「おせっかいな人ね」
 詩桜は由稀の横を歩いていたが、小柄で俯いているため、由稀からは彼女の表情が窺えない。屋内で見るよりも艶やかな朽葉色の、赤みの強い髪を見つめた。
「街で会ったときも。よくあんな危ないことするわね」
「ああ、あれ」
「軽く言うけど、あいつら甘くないのよ。絆清会(ばんせいかい)の中心人物なんだから」
「絆清会」
「あの辺りを仕切ってる人たち。お店持ってたり、お金貸してたり、喧嘩請け負ったり。色々、血なまぐさい仕事してる」
「瞬みたいな」
「ほどじゃないよ」
 詩桜の答えに、由稀は笑った。
「だったら、別に怖くないよ」
「どうして」
「だって俺、これでも瞬とタイマン張ったから」
「嘘!」
 驚いた詩桜は顔を上げた。灰空色の瞳は、違った輝きを放つ。由稀はその神秘的な色彩に思わず声を失った。気付いた詩桜は、顔を背けた。
「瞬と喧嘩して、よく五体満足でいられたものね」
「おい、ちょっと」
 由稀は早足になる詩桜を追った。
「やだ。何よ。来ないでよ」
「待てって」
 強く肩を掴んで引き寄せる。あまりにも頼りない体に指先が驚いて、とっさに腕を掴み直した。彼女の顔を覗き込んで、息を呑む。
 詩桜の瞳は外の光を受けて、若葉色を宿していた。薄灰にほんのりと縁取られた若葉は、より一層鮮やかに揺らめいていた。
「すげぇじゃん」
 由稀は月並みな言葉でしか表現できない自分に腹が立った。詩桜にもっと自分の感動を伝えたいと思ったが、そのすべを由稀は持たなかった。
 詩桜は腕を払って前を歩いた。由稀は追いついて、転びそうになりながら顔を覗き込んだ。
「あんまりじろじろ見ないでよ」
「なんで」
「嫌なの。色が違って見えるなんて病気みたいで嫌い」
「は。何言ってんの。こんなにきれいな色なのに」
 口を尖らせて由稀は言った。詩桜は黙り込んだが、由稀の横を同じ速度で歩いた。髪を撫でたくなる衝動を抑え、由稀は手持ち無沙汰な両手を上着に突っ込んだ。
「親とか一族のそういう個性を少しでも受け継ぐのって、素敵じゃん」
「そうかな」
「当たり前だよ。繋がってるって感じするじゃねぇか。一人じゃないんだなって」
「それは、自分が当り障りのない色だからでしょ」
「ああ、まぁ今はね」
 歯切れの悪い返事に、詩桜はちらりと由稀を盗み見た。下から見ると顎に力が入っているように思えた。
「怒った」
「いや、別に」
「今は、ってことは、前は違ったの」
「うん。前はもっと青かった」
「真っ青?」
「ていうか、みんなには空色って言われた」
「空」
「わかるかな、天水の空とはまた色が違うんだけど」
「知ってるよ。昔はここも、こんなじゃなかったから」
「そっか」
 由稀は歩きながら空を見上げて笑った。数歩行ったところで躓く。詩桜が隣でくすくす笑った。由稀は鼻を赤くして顔を背けた。
 路地に、小さな黄色い花が咲いていた。
「あのね」
 詩桜は慎重に口を開いた。
「本当はこの色なのよ、私。でも街の中は下まで光が届かないから、はっきりとわからないの。だから眼鏡はいらない。瞬みたいな色だったら色々と不便だろうけど、でも羨ましい。どうせなら私もあんな色がよかった。龍羅飛の証。深い深い緑。吸い込まれそうな色」
 俯くと、詩桜の朽葉色の髪は肩を乗り越えて胸に流れ落ちた。
「中途半端なら、ない方がマシよ」
「そうかな」
 由稀は足元の小石を蹴った。
「それは中途半端じゃなくて、詩桜の個性だよ」
 石は道を跳ねながら転がり、瓦礫にぶつかって割れた。詩桜は顔を上げた。
「瞬には瞬の、紅には紅の、詩桜には詩桜の龍羅飛の形がある。それでいいだろ」
 由稀は服の中で強く手を握った。なぜ、髪を撫でたい気持ちを我慢したのか、由稀には自分が不可解だった。ただ、後ろめたい気がしたのだった。例えばこれが羅依だったなら、肩を抱いて駆け出しただろうに。
「今度こそ、怒った」
「怒ってないよ。そんなに怒ってるように見えるか」
「そこそこ」
 詩桜は髪を風に遊ばせて悪戯に笑った。
「一応、ありがとうね」
「一応とはなんだ、一応とは」
 由稀は肘で詩桜の腕を押した。彼女はころころと笑いながら、よろめく振りをした。詩桜の笑顔が路地にあった花のように健気に、そして潔く咲いた。
 ずっと真っ直ぐ続いていた道が、広場に吸い込まれて消えた。円形の広場には、中央に石造りの塔があった。
 詩桜の足が止まった。
 由稀はここへ来て初めて、死の匂いを嗅いだ。
 歩いてきた道にも破壊の爪痕はあった。だがそれは遺跡のような神聖さを保ち、静かに見守られる心地だった。
 広場の舗装はほとんどが壊され、石が捲れて土が剥き出しになっていた。見晴らしはよく、塔の向こうには天水で初めて見る緑があった。砂の大地に蓋をするように、崖の上に茂っていた。
 風に混ざり、死は地を這って迫ってきた。ひんやりと足首に巻きついてくる。首筋を通り過ぎていく。背後にとどまる。拒む隙などない。激しさはないが、命を絶たれた嘆きは魂に食い込んだ。由稀は振り払うことも出来ず立ち尽くした。
 息を呑む。森から吹き下ろす風には、土の湿りがあった。
 どのくらいの人がここで断ち切られたのだろう。由稀は空っぽの心で空に問う。だが雲に覆われた空は地上を映してはくれない。由稀は喉が渇いていくのをじっと静観していた。
 横で、息を吸い込む音がした。直後、歌が世界を包んだ。
 由稀は驚いて詩桜を振り向いた。彼女は目を伏せて、胸に手を当て、小鳥が囀るように歌っていた。言葉はわからない。やわらかい、優しい響きが紡がれていく。広場は詩桜の哀しみに満たされていった。
 握れば折れてしまう硝子細工のような声だった。澄んだ氷のように気高く、午後の木漏れ日のようにあたたかく、煙になって消え入りそうなほど繊弱だった。街に刻まれた痛みを、自分のもののように愁える。痛切な声が、甘く響く。
 歌で街が蘇ることはない。景色は何も変わらない。だが確かに癒されていた。死の匂いは和らいだ。彼女の歌声が街を悼み、共に嘆き、水を掬うようにそっと悲しみを取り除いていく。
 詩桜の表情から次第に緊張が抜けていく。自由になった彼女は、小さな体を震わせて歌を捧げた。千切れんばかりに声を投じた。閉じた瞳から、涙が頬を伝った。
 由稀の中に、瑞々しい芽が萌え出た。

3章:萌芽・終