THE FATES

4.鏡面(1)

 森は濡れていた。滴るほどに湿りを養い、蒸れていた。靴の踵がぬかるみに取られ、結蘭(ゆいらん)は顔を顰めた。だが、歓喜に震える心は揺るがなかった。息に混じって洩れる興奮は官能的で熱い。
 腹の底から、笑いが込み上げた。
「どれほど待ったかしら、この時を。やっと、やっとあの龍眼(りゅうがん)に手が届くのね」
 露で服が汚れるのも構わず、結蘭は片腕で草を掻き分ける。もう片方の腕はなく、袖がなびいた。傷が痛むことはもうないが、時折まだ腕がある気がして肩が動いた。そのたびに、(しゅん)への執着は深まった。
 久し振りに目にした生身の龍眼は、今まで見たどの龍眼よりも深い色で、罪深いほどの美しさだった。
 目を閉じて、再会に酔う。
「もう、誰にも邪魔はさせないんだから」
 あの秀麗な顔が痛みに歪むその時を、結蘭は夢想して悶えた。
 阻もうとするものは、全て排除してきた。瞬に悲しみを、痛みを、孤独を。そのためなら手段は選ばなかった。
 引き裂いた結界の隙間から、移動法で殊来鬼(しゅらき)へ戻る。自室へ向かう途中で、護衛の女が駆け寄ってきた。
「どこへ行っていらしたんですか。探しました」
 女は額から汗を流し、息を切らしていた。結蘭は汚いものを見るように、眉を歪めた。
「何。話があるんじゃないの」
 部屋へ入り、上着を椅子にかける。露わになった肩の傷跡が、窓からの光で影に染まった。女は結蘭の傷を見て、躊躇した。
「早くして」
「あ、あの、鬼使(きし)天水(てんすい)へ戻っているようです」
「知ってる」
 結蘭は窓から外を眺めて、胸元を強く握った。女は困惑して視線を逸らした。
「は、そうでしたか……」
「それだけなら、下がってちょうだい」
「はい、失礼します」
「あ、やっぱり待って」
 下がりかけた女を引き止めて、結蘭は手招きした。女は責めを恐れて体を強張らせた。
「鬼使なんだけど、調べてほしいことがあるの」
 上機嫌に話す結蘭を見て、女は顔に出さず安堵した。近付いて膝を折る。
「鬼使の何を調べましょう」
尋宮(ひろみや)が死んだかどうか。どうして天水へ戻ってきたのか。それから、一緒にいる少女を、ここへ連れてきて」
「承知しました。その少女は……」
 女は言葉の先を濁して、結蘭を見上げた。結蘭は金色の瞳を細めて微笑んだ。
「言わせないで。生死などと」
「御意」
 深く頭を下げて、女が部屋から消える。結蘭は首から下げた龍眼を口に含んで、息を洩らした。

 * * *

 廃墟の中にただ一つ、真新しい小屋があった。森から切り出した木で組んだ、簡単な小屋だった。比古(ひこ)はその扉を開けた。背を向けて、安積(あづみ)がいた。
「ごめんね、ご飯まだなのよ。もう少し待ってて」
 振り返らずに、安積が言った。小屋の中は、懐かしい香りで満たされていた。比古は黙って扉を閉めた。
「安積、しばらく」
 声に驚いて、安積は手をとめて振り返る。
「あら、比古。どうしたの」
「様子見にきたんだ。安積だけこっちに来てるって聞いたから」
「そうなの。官軍に追われてしまって」
 安積は笑顔を見せると、また前を向いて手元に視線を落とした。比古は安積の横に立って、彼女の手際を眺めた。
「真似できないなぁ。俺がやったら指が落ちる」
「慣れよ。誰だってできるようになるわ」
「そうかな」
 比古は呟いて外套を脱いだ。急ごしらえの炊事場に凭れて、安積の顔を覗き込む。やわらかな頬は、調理の熱気で淡く染まっていた。比古は優しく目を細める。
「まさか、こんな日が来るとは思わなかった」
「どういう意味」
 切った野菜を煮えた鍋に入れて、蓋をする。頬にかかる黒髪を耳にかけて、安積は火加減を調節した。鉄板の隙間を広げると、火の勢いは強まった。
「安積、幸せそう」
 比古の言葉に、安積は諦めにも似た笑顔を浮かべた。
「あなたにもそう見えるのね」
「本当のこと言うと、だいぶ前から。あの子らと過ごすようになってから」
志位(しい)周防(すおう)にも言われた。でもね、私あまり覚えてないの、昔のこと」
 曲げていた膝を伸ばし、安積は伏し目がちに比古に向き合った。変わりない清廉な面差しと心細げな体の線に、比古は少年の頃の憧憬を思い出す。
「見ている方が、つらかった」
 湯気に混じって香辛料が香る。比古は安積の濡れた手を取った。
「俺が許せなかったのは、皇室じゃない。安積を物扱いした村の連中だ」
 安積の手は強く握ると潰れてしまいそうだった。比古は泡を包むように優しく握った。
「もっと早く、村に戻っていればよかった」
 思い出された悔しさに、比古は眉根を寄せた。
「もう昔のことよ。責めないで、比古」
 俯いた比古の頬に手を差し伸べ、安積は首を振った。
「私が不注意だった。皇室へ上がる体でありながら、彼に惹かれた」
「だからって、あんな陰湿なやり方で殺す理由にはならないだろう」
 脳裏に、赤黒い空が浮かんだ。記憶の中の光景が無遠慮に襲いかかる。比古は思わず目を瞑った。
 周防とともに村を離れていた比古が戻って目にしたのは、生きたまま四肢を落とされ、腹を裂かれ、猛鳥に食われる一人の男だった。
『あいつは村の大事な献呈品に手を出した』
 男のすぐそばでは、安積が喚きながら鳥を払っていた。しかし払っても払っても、飢えた鳥はあとを絶たず、最後には安積が近づけないほど猛禽に覆われた。
 安積は、発狂した。密かに身篭っていた子も流れた。
『あれはもう傷物だ』
 村人は安積を幽閉し、代わりの娘を旋利皇室へと差し出した。村には家畜が一頭増えた。
久暉(ひさき)のことも、ひどく責めたそうね」
 濡れた安積の指は、比古には気持ちよかった。頬に触れる彼女の手も上から握る。
「他にぶつけようがなかった」
 短く切った安積の爪を撫で、比古は両手を離した。掌は、濡れていた。
「でも、こんな日が来るとわかっていたら、俺はあんなにも久暉を殴ったりはしなかった」
「殴ったの」
「若気の至り」
 比古は快活に笑った。心の底に、拭いきれない寂寥感が生まれた。
 安積は呆れて、再び炊事場に向かった。
「もし、私が幸福に見えるなら、そうね、今は夢が叶って嬉しいの」
「夢」
「そう。私ずっと、家族がほしかった」
 使った道具を片付けながら、安積は滑らかに呟いた。
「私が幸せに見えるのは、由稀(ゆうき)玲妥(れいだ)だけじゃない。比古や周防が久暉の所へ連れて行ってくれたから。私にとっては、みんな家族だから」
 比古は安積の背中を見つめた。胸に積もるのは少年の頃に抱いた淡い想いではなく、穏やかで限りない愛しさだった。
 鍋の蓋を開けると、湯気が飛び出した。壁を伝い天井へのぼる。
「これから、ラルマテアに行こうと思ってるんだ」
 比古の言葉に、安積が振り返った。比古は蓋から垂れる水滴に気付いて、彼女の手から蓋を取った。軽く振って、水気を切る。横顔に安積の視線が刺さった。
「玲妥が、向かっているそうなんだ」
「行って、行ってどうするの」
 比古は安積から匙も取って、料理を掬った。一口食べて、蓋をする。
「もう出来てる」
「ねぇ、比古。どうするつもりなの」
 安積は比古の服を掴んで縋った。比古はそれを払うことはせず、竈の鉄板を閉じた。鍋は静かになった。
「話そうと思ってる。あの子の両親のこと」
 比古は安積の両腕を軽く掴んで、椅子へ座らせた。真正面に片膝をついて、下から彼女を覗き込んだ。しばらく、戸惑い、恐れ、青褪めた安積を愉しむ。憧憬が親愛に変わっても、比古の心には感傷が残った。今は痛まなくても、痛みに呻いた日を思い出し噛み直すことは出来た。何度も味わい唾液にまみれた情動は、今も輝きを放ち、体中を快く占めた。
「あの子たちに秘密にしておくことは、もうないだろう」
「傷つくわ」
「ああ。でもいつかは話すべきことだ」
 比古の強い声に、安積の逡巡は深まった。小屋に満ちた料理の優しい香りは、あまりにも場違いだった。
「乗り越えてくれるさ」
「他のことも全て話すつもりなの」
「玲妥が求めれば、話そうと思ってる。俺にわかることは」
「賢い子だもの。きっと色んな疑問や矛盾に気付くわ」
「もしかしたら、自分が安積たちに育てられたことも、すでに疑問に思っているかもしれない」
「そう、ね」
 弱々しく笑って、安積は肩を落とした。比古は彼女の抱える不安の本質を見た。吸い込まれそうな安積の黒い瞳を見つめる。
「怖いのか」
「え」
「玲妥に嫌われるのが、怖いのか」
「そんな、つもりじゃ」
 強く言い切れないことに気付き、安積は視線をそらした。横顔は後悔に歪んだ。玲妥への深い愛情が、安積を脆くした。比古は安積の手首を掴んだ。
「一緒においで。玲妥に話そう」
 掌の中で安積の肌が溶けるようだった。比古は立って、安積を引っ張り上げた。安積はなされるがまま立ち上がり、唖然として比古を見つめ返した。
「安積が信じなくて誰が信じるんだ。その目で見て、この肌で触れて、安積の言葉で伝えよう」
 比古は緩やかに言葉を紡ぎ、目を細めた。
「明日の朝、桟李(さんり)と行く。広場にいるから、気持ちが整ったら来て」
 玲妥が安積を否定することになれば、比古は今度こそ安積の傷を全て埋めたいと思った。