THE FATES

4.鏡面(2)

 見つめる世界の背景は失せ、心は歌声に奪われた。由稀(ゆうき)の五感は全て詩桜(しおう)に向けられていた。光に戸惑う彼女の瞳は無常で、零れ落ちる涙は草花を伝う雨の雫だった。砂漠が草原になる幻想に包まれる。由稀は息も忘れて魅入った。
「これがあの子の力だ」
 背後からの声に、由稀の幻想は断たれた。振り返ると、(しゅん)の姿があった。深緑の瞳は、先ほどまでの由稀のように、詩桜を見つめていた。
「力って」
 横目に何度も詩桜を盗み見ながら、由稀は問い返す。瞬は特に気に留める様子もなく、上着の煙草を探した。
「まだ本当の力には程遠いんだが、詩桜の言葉は音に乗せることによってあらゆる効果を出す。そういうふうに生まれついているんだ」
「生まれたときから決まってるのか」
「そうだ」
 煙草に火をつけて、瞬は頷く。
「詩桜が生まれた殊来鬼(しゅらき)という種族は、生まれるとすぐ職見(しきみ)によって能力を見いだされる。特に女はほとんどが何かしらの能力を持ち、働いている。梅煉(ばいれん)も元は精錬師だった」
 瞬の視線は詩桜を離れ、足元に落ちた。黒い靴の表面は、すっかり砂で白んでいた。
「殊来鬼は名前に、能力にちなんだ字を使う。詩桜の詩の字がそうだ」
 淡い光の世界で、詩桜の歌は確かに息づいていた。瞬は目に入る煙を嫌って、顔を上げた。
「だが梅煉の話では、詩桜はまだ本来の能力を使いこなしてはいない」
「これで」
 歌声に手を差し伸べられ、地面から悔恨が滲む。染み込んだ血が、行き場を求めて光に灼かれる。静かに弔われ甦る死臭は、花のかぐわしさにすりかわった。
 由稀は耳を占める旋律に酔う。快感にも似た感触に、周囲からの視線を恐れた。
「もし目覚めたなら、街の一つや二つ、どうにでも出来るだろう」
 瞬の言葉には、明らかな棘があった。由稀は密かに瞬を振り返り、見据えた。端正な顔には、気の逸りがあった。由稀にはその理由を尋ねることは憚られた。
「どうしたら使いこなせるようになるんだ」
「そうだな」
 風の吹いてくる方へ顔を向け、瞬は目を細めた。灰が散って舞い上がる。
「生い立ちも過去も未来も、何もかも、運命を全て受け入れられたとき、あの子は本当の歌姫になれる……かもしれないな」
「歌姫……」
 無為に繰り返して、由稀は詩桜の横顔を見つめた。彼女の若葉色の瞳は悲しみを湛える。握り締めて白くなった指先には、ぶつけようのない憤りが潜んでいた。どこか鬼に、久暉に似ている気がした。
 風に包まれて歌声が途切れた。世界に満ちていた陽光の温もりが、一瞬にして冷やされていく。街は再び死に凍った。詩桜は両手で顔を覆って俯いた。由稀は一歩を踏み出しかけて、とどまった。頭の中に浮かぶ慰めの言葉はどれも陳腐で、かえって彼女を傷つけかねないものばかりだった。考えれば考えるほど、言葉は失われていった。
 由稀の横を、瞬が抜いていった。埃まじりの風に、煙草の甘い香りが残る。瞬は片腕で詩桜を抱き寄せた。静かに髪を撫でる。詩桜は声を上げて泣き出した。
「ひどい、ひどいよ。こんなむごいこと、正気じゃない」
「見たのか、ここであったことを」
 瞬の問いに詩桜は頷いた。顔を上げて、広場を見渡す。涙は止まらず、後から後から溢れた。だが詩桜はそれを拭おうとはしなかった。瞬の腕からすり抜けて、瓦礫を一つ乗り越える。
「ねぇ、瞬。お家はどこ」
 凛とした声は、由稀に歌声を思わせた。彼女は旋律をとめても、未だ奏でていた。
 煙草を持つ手で、瞬は廃墟の家並みを指した。詩桜は小さな炎を目で追った。
「行ける?」
「道が、もうない」
 瞬は腕を下ろした。指先に力はなく、煙とともに彼の傷跡が蒸発していくようだった。由稀は羅依(らい)の姿を探した。広場中心の塔の足元に、膝を抱えて座っていた。じっと見つめる先には瞬の背中があった。すぐ近くでは、(こう)が石を積み重ねて欠伸をしていた。
「どんなお家だったの」
「砂漠の砂を練り固めて作った砂色の煉瓦と、母が織った敷物に囲まれた家だった。窓には厚い硝子が嵌め込まれて、日が差すと肌に硝子の模様が落ちた」
 遠い眼差しの彼方に、在りし日の生家を眺める。眩しげに細めた瞳は、すぐに痛みに翳った。
「永遠だと思っていたが、日常なんて脆いものだな」
 瞬は火のついた煙草を素手で握った。拳の中から息の根を止められた煙がゆらりと零れた。
「お父さんも一緒に住んでたの?」
「ああ、もちろん。兄貴が成人して部屋は別になったが」
「そう……」
 詩桜は襟元から首飾りを引き出した。そこには銀細工が二つ、光を優しく吸い込みながら揺れていた。瞬は目を瞠った。
「詩桜、それ」
 瞬の驚きをわかっていたように詩桜は頷き、両手でそっと包み込む。
「お母さんとお父さん。いつも一緒なんだよ。私がいたら邪魔かもしれないけど……、私の最初で最後の我儘」
 手に掬った水を飲むようにして詩桜は銀細工に口付けた。森から吹き下ろす風が、一段と強く吹いた。詩桜の髪が舞い上がる。
「王家なんて、大嫌い」
「詩桜」
 瞬が諌めると、詩桜は更に力を込めて言った。
「大嫌いよ、天水(てんすい)王家なんて、消えてなくなればいいのに!」
 若葉色の瞳で、詩桜は紅を睨みつけた。あまりの鬼気迫る様子に、紅は持っていた小石を落とした。積み上げていた石の塔が崩れた。
「なんだよ、それ」
龍羅飛(りゅうらひ)がこんなふうになったのも、お父さんたちが追い込まれたのも、瞬が天水を離れたのだって、全部王家のせいじゃない! お母さんだって――」
 瞬が詩桜の頬を叩いた。
「やめろ、詩桜」
 暴力はごく微細な力で振るわれた。だが、詩桜にはあまりにも大きな衝撃だった。頬を押さえて立ち尽くす。
「瞬……」
染芙(せんふ)のことで王家を責めるのは筋違いだ。紅には関係ない」
 深緑の瞳は、若葉を飲み込まんとする。冷たく、鋭く、隙がない。深淵は、見えない。瞬は詩桜の手の上から詩桜の頬に触れ、関節の膨らみを撫でて気遣った。
「悪いのは、俺だ。責めるなら俺を責めろ」
 瞬の声に澱みはない。だからこそ、由稀には彼の抱えた傷が垣間見えた。(あかね)を喪ってからの瞬は、あたかも神のように寛大な振る舞いが目立ち、その禁欲的な姿が周囲との距離を生んでいた。ただ一人、羅依を除いては。
 誰にも瞬を責めることはできなかった。それを知らずに責めろと言い張る瞬は、罪だった。由稀は直視できず顔を逸らす。何も知らなかった、街を出た頃の自分なら、詩桜の前に立ち塞がって瞬を罵ったろう。由稀にはそんな自分が無性に懐かしかった。
 詩桜もまた瞬の罪の前にひれ伏した。瞬の手を払い、唇を噛み締めて背を向けた。数歩離れたところで泣き崩れる。
 死の臭いは、生きたものにも染み付いた。
「なんだよ、どうなってんだよ」
 紅は崩れた小さな塔の、残った土台までも蹴散らして破壊した。瞬は追い討ちをかけるように、詩桜の真横に立った。額にかかる薄茶色の髪は、優雅に風と踊っていた。
「立て、詩桜。見苦しい。いつまでも子供じゃないんだ」
「そんなの、わかってる」
 掠れた涙声で詩桜は喚いた。壊れた弦楽器のようだった。
「わかってても、悔しいよ。だから瞬だって人殺しの業を背負ったんじゃないの。天水が憎いから。なくなればいいと思ったから!」
「変わらないよ」
 瞬は静かに詩桜の言葉を遮った。
「たとえ天水が滅んでも、悲しみも憎しみも変わらない。変わらないんだよ。それでは何も癒せない。人は這ってでも、前に進むべきなんだ。進もうとするべきなんだ。曇りのない眼で、歪んだ心を手放して」
「そんなの、理想よ」
「違うな。それが全てを清算できる近道なんだよ。なぁ由稀」
「へ」
 突然話を振られて、由稀は聞き返すしかできなかった。
「あ、いや。俺はそんな」
 涙目で見つめてくる詩桜の視線に耐えられず、由稀は顔を逸らした。視界に、崩れた街の残骸が映る。由稀はまだ見ぬ竜樹(りゅうじゅ)界を、そこに重ねた。詩桜の気持ちは痛いほど理解できたが、それは持続しなかった。
「そうだな……」
 呟いて、微笑む。
「憎んでも解決しない気がするんだ。きれい事だと言われてもいい。それでも俺は、赦しあう夢を見る。ともに歩ける道を探したいと願う」
「馬鹿みたい」
 言い捨てて、詩桜は憮然として俯いた。由稀は詩桜が泣き止んだことが嬉しかった。
「馬鹿でもいいよ。這いつくばらないと見えないものもあるから」
 痛みが消えたわけではない。それでも青竜(せいりゅう)久暉(ひさき)と話し合いたい気持ちの方が大きかった。