THE FATES

4.鏡面(3)

 詩桜は肩で息をつくと、何事もなかったように立ち上がり、服の裾を手で払った。
「大丈夫?」
 由稀の気遣いを、詩桜は睨んだ。だがそれは続かなかった。風に舞う裾を押さえて、唇を尖らせた。
「そうしないと、いつまでも馬鹿の説教聞かなきゃならないでしょ。馬鹿」
 そう言って、詩桜は伏し目がちに由稀を見遣った。頬は恥じらいに染まっていた。由稀の耳の奥で、彼女の美しい歌がよみがえった。
 晴れやかな心は、この灰色の空へ飛び出していきそうだった。
「なぁ瞬。ところで二人の気配は」
 手綱を握り締め、瞬に歩み寄る。瞬は闇を囁く悪魔のように、嬉々とした。
「べっとりと残っていた」
「じゃあ、今も近くに」
 由稀は辺りを見渡した。空の遠くが、濃くなっていた。瞬は煙草に火をつけると、広場中心の塔の下へ歩いた。
「それはない。もう、この辺りにはいない」
 塔の壁に触れて、瞬は素っ気なく言った。
「どこかへ移動法を使った痕跡がある」
「そうか……」
 落胆は隠せなかった。見かねた紅が、口を開いた。
「でも、天水で隠れるところなんて、限られてるだろう。ご覧のとおり、砂漠だらけだからな」
「限られてるって、どこに」
「木を隠すなら森に。どうせ天水市街にでも紛れたんだろう。あの久暉って男は目立つけど、青竜は街を歩いていても違和感ないし」
「だけど、そんなこと青竜たちにはわからないんじゃないのか」
 話を聞いていた羅依が口を挟んだ。一番近くにいる瞬は、羅依を一瞥すらしなかった。羅依はその場から離れ、由稀のそばへ歩み寄った。
「少なくとも、あたしにはわからない」
 涼しげな淡紫色の瞳に、影が落ちる。首筋には、恐怖と緊張が這っていた。由稀は羅依の肩を軽く叩いた。
「俺もわかんねぇよ。気にするなって」
「う、うん」
 力なくはにかんで、羅依は乱れた前髪を押さえた。由稀は満足して頷いた。
「だったらさ、また街に帰って探してみたらいいんじゃねぇの。そんなにすぐに見つかるとも期待してなかったしさ」
「いや、その必要はない」
「え」
 瞬の強い否定に、由稀は口を噤んだ。瞬はしばらくの逡巡を経て、瓦礫の山を降りた。
「天水一体のことは、俺にはよくわかるんだ。どこで誰が死んだ、いつ命が生まれた、何がどこにある、そういうことは手に取るようにわかる」
「どういうことだよ」
「知った相手ならなおさらだ。今どこにいるのかなんて、すぐに」
 吸いかけの煙草を口に咥えて、瞬は地面の瓦礫を四方に等間隔に置いた。その上に、煙草の灰を弾く。細かな灰は一瞬で広がって、瓦礫に舞った。瞬が指を鳴らすと、灰は空中にとどまり、一枚の白い紙のようになった。そこに黒い染みが落ち、ひとりでに線を描いた。由稀は興味深く覗き込んだ。
「何だよ、これ」
「天水の簡単な地図だ」
 瞬は完成した地図の一点に煙草の火を押し付けた。地図に赤い点が刻まれた。
「これが現在地。そして」
 手を広げて地図の上を撫でる。数箇所を残して灰色になった。
「この灰色が、俺の探査できる範囲だ。だがこの中に二人の気配はなかった」
「すげぇな。ほんとなのかよ」
「嘘を言ってどうする」
「じゃあ、この白いままの場所は」
 由稀は白い斑点のうち一つを指差した。
「そこ、殊来鬼ね」
 詩桜が瞬と由稀の間に割って入った。翳りがちな薄灰色の瞳は、微光の中で若草色に映えていた。涙の残影はなかった。
「殊来鬼って、詩桜の故郷だろ。だったら少し調べてきてもらって」
「嫌よ。私、殊来鬼とは縁を切ってるの」
 切れ味よく言い切って、詩桜は顎を逸らした。
「勝手に巻き込まないでよ。私には関係ないもの」
「そうまで言われたら、仕方ないな。じゃあ瞬、どうすんだよ」
「手段がないわけでもない。だが少し時間がかかる」
 半透明の地図の上に煙草を投げ捨てる。地図は波紋が広がるようにして消え、煙草は瓦礫の狭間に落ちた。
「市街の外れに、墓守(はかもり)の民というのがいる。彼らに探してもらうさ」
「墓守の、民」
「大昔の奴隷層だ。今はもうない制度だが、普通の商売はしづらい。龍羅飛のような弾圧を受けたわけではないが、同じようなものさ。闇の中でしか生きられない」
 捨てた煙草からのぼる煙は、風に掻き乱され、すぐに霧散した。風が一段と強くなっていた。瞬は空の端を見遣る。雲が近付いていた。砂嵐の来る時間だった。
「行こう。じきに砂嵐がくる」
 瞬は自分を中心にして、光輪を作った。由稀と詩桜はすでに内側にいた。
「羅依、ほら」
 由稀は振り返って羅依を手招きした。彼女は何か言いたげに口を開いたが、すぐに息とともに飲み込んだ。
「どうかしたのか」
「いや、何でもないよ」
 弱々しい笑顔は、由稀に一抹の不安を与えた。決して瞬を見ようとしない彼女の態度には、幾多の疑問を覚えた。
「ほんとに大丈夫か」
 小声で耳打ちすると、羅依は眉を下げて苦笑した。
「平気。ただ少し気になっただけなんだ」
「何が」
 光の輪は柱になり、世界との隔絶は目に見えるものになる。
「そんなに周到に立ち回れるものかな。いくら青竜でも天水のことなんて知らないはずだよ。だって、どんなに調べても天水はアミティスより速く、今を通り過ぎていくんだから」
 羅依の儚い声は、諦めに起因していた。
「でも、聞いても教えてくれそうにないよね」
 移動法が加速する。ひどい耳鳴りがした。
「聞くって、何を」
 由稀は思わず大声で言った。しかし自分の声すら明確に聞き取れない。羅依は由稀の表情から問いを推し量る。
「隠してることないの、って」
 言葉は雑音に侵され消滅した。自分を取り囲む世界が、全て一瞬にして奪われる。術中に放り出された。浮遊する意識の只中で、由稀は羅依の言葉を想像した。しかし思考はまとまらず、混沌の淵を何度も行き来する。振り返った自分の心には、詩桜の歌声が満ちていた。