THE FATES

4.鏡面(4)

 風音と潮騒が絡まりながら響く。波は流木を飲み込み、足元の岩に寄せた。浮きつ沈みつする流木は、加依(かい)の目に大勢への抵抗に映った。妙な親近感を覚える。だが流木は、不意に現れた渦にあっけなく吸い込まれていった。
 叩き割ったような岩場に腰をかけて、加依は海原を見下ろす。波の向こうにはアシリカがあるはずだが影もなく、往来する船の姿すら見えなかった。背後を振り返る。視界は乾いた赤砂で埋まった。手で砂を払うと、下から粘土質の黒土が現れた。地平線を塞ぐ山は、掘り返されて穴だらけになっていた。
 殺伐とした魔界の景色に、胸の奥が軋んだ。世界中のどこよりも、故郷が嫌いだった。息をすると、体の中から蝕まれるようだった。
 傾いていく光を見上げ、諦めて立ち上がる。ただ、この空だけは、世界中のどこよりも好きだった。筆でひと撫でしたような掠れた青空は、大地を見下ろし気高く在った。
 歩き出すときの靴底の感触で、本当に戻ってきたのだと実感した。羽は広げずに、一歩を踏みしめつつ居城を目指した。
 街が近付くにつれ、肉が腐ったような臭いがした。塀の陰に伸びる煙突からは、淡く色付いた乳白色の煙が吹き出していた。加依は腐臭に顔を顰めることもなく、煙を横目に街への門をくぐった。
 建物は全て粘土を焼いたもので、むらのある灰色をしていた。突風を防ぐために道幅は狭く、空気は淀んでいた。地面に敷き詰めた石は、磨り減って丸くなっていた。
 すれ違う人々が、加依を見つけて会釈をした。加依はそれに対して型通りの笑顔で返す。顔見知りはおらず、話しかけてくる者はいなかった。
 首長一族の居城は、街の廓の奥にあった。進むにつれて、賑わいは遠ざかり、加依の気持ちは一層沈んだ。俯きがちになる顔を、意識して上げる。使い慣れていたはずの仮面は、いつしか古ぼけて、大きさが合わなくなっていた。あまりにも自由に慣れすぎた。荷物を持つ手をかえて、深呼吸をした。顔の裏側から、あるべき仮面が浮き上がってくる。世界との距離が開く。足取りはやや軽くなった。
 扉を開けると、すぐ近くにいた年若の下男が驚いて動きをとめた。
「若さん」
 掠れた声で呟いてから、這いつくばるように頭を下げた。
「お、お帰りなさいませ」
「いいよ、そんなにならなくても。それより、僕の部屋は使えますか」
 加依は下男の肩に手を置いて、顔を覗き込んだ。見覚えのある顔だったが、名前は一度も聞いたことがなかった。下男は素早く体を引いて、再び頭を下げた。
「はい」
「ありがとう」
 持っていた荷物のうち一つを手渡す。下男は首を傾げた。
「アシリカのお土産。よかったらみんなで食べて」
「もったいないことを。旦那様にしかられます」
「そこを見つからないように。でももし見つかったら、僕のせいにして下さい」
「でも……」
 下男は加依の笑顔に言いくるめられ、渋々下がった。加依は満足げにそれを見送って、自室へ向かった。
 使用人には、加依は気遣いのある優しい若で通っていた。加依自身に、彼らへの労いの気持ちがないわけではないが、決して彼らが考えるような慈愛からではなかった。
 廊下に飾られた花瓶から、花を一輪抜き取る。裏庭の花壇で育てたもので、母が愛した花だった。大振りな花弁は白く、陽に翳すと筋が透けて見えた。香りは、青く爽やかだった。
 突き当たりの扉を開ける。部屋は差し込む光で埋め尽くされていた。寝台と机があるだけの、殺風景な部屋だった。それでも加依にとっては、ここで唯一安らげる場所だった。
 机の隅にある原石へ、花を手向ける。刺々しい石の隙間には、七色に光る鉱石が挟まっていた。母の遺したものだった。
「母さん、ただいま」
 撫でると、尖った愛が皮膚を薄く裂いた。血は流れず、体内で滞った。

 廊下を騒がしく走る足音があった。加依は手向けた花を掴み取り、屑入れに投げ捨てた。掌には黄色い粉がついた。
 部屋の扉が、勢いよく開かれた。
「あにさん、おかえり!」
 一人の少女が加依の首に飛びついた。
「た、ただいま、那伎(なぎ)
「どこに行ってたん。みんな、めっちゃ探してんで! いきなり黙ってどっか行ったりしたらあかんやんか」
 那伎は跳ねるのをやめ、頬を加依の胸に寄せた。
「うち、もしかしたらあにさんが死んだんちゃうか思て、しばらく寝られへんかってんから」
「悪いことをしたな」
 加依は大人しくなった那伎の手を首から解き、体を離した。那伎は紅玉の瞳で加依を見上げた。
「おじさんは、何も言わんかったけど」
「だろうね」
 口だけで微笑み、加依は那伎に背を向けた。窓へ歩み寄り、押し開ける。わずかな腐臭が結露のように部屋に染みた。
「長は忙しいお方だからね。手を煩わせるのは心苦しい」
 指先が、痛み以上に疼いた。ごまかすように、煉瓦の壁を撫でる。ざらついた表面は、自分の心の手触りとよく似ていた。
「ほんなら、せめて」
 那伎は言い淀み、瞳と同じ真紅の髪をいじった。加依は肩越しに那伎を振り返り、哀れみに寄った眼差しを向けた。
 自分のような偽善者を信用し、慕ってくる彼女が心底哀れだった。
「ごめんね、那伎」
「う、うん。あ、ちゃうねん。別に、あにさんを責めてんちゃうねん。ちょっと寂し、あ、おらん間つまらんかっただけやから。うちは平気」
「ありがとう」
 加依は、笑顔で言った。那伎は加依が思い描いたとおり、頬を染めて俯いた。思い通り動く那伎は、接していて気分が良かった。
 窓を閉めて、寝台の上に荷物を開ける。
「戦況は聞いてるかな」
「うちにはわからへん。ごめんなぁ。でも父さんの話では、明日おじさんが帰ってくるらしいで」
「長が。前線から離れる」
 加依は顔を上げた。那伎は独り言めいた加依の問いに、答えかねていた。加依は寝台に広げた荷物を鞄に戻した。
「東部の制圧に向かっていたなら、もう少しかかるはずだろうに」
 加依は鞄を持ち、部屋の扉に手をかけた。
「どうしたん」
 慌てた那伎は、加依の袖を引いた。
「どこ行くんよ」
「帰っているのにお迎えに上がらないわけにはいかないからね。急ぎ飛ぶよ」
「待ちぃや。今聞いたとこなんやから、そんなに焦らんでも」
 那伎は力んで加依の腕を掴む。加依は眉を歪めた。
「那伎、爪は反則」
「あ、堪忍」
 両手をすっと引き、那伎は難しい顔をして一歩下がった。
「おじさんのことになったら、あにさんは強引や」
「強引に引きとめたのは、那伎の方だよ」
「ちゃう。あにさんの強引に対抗しようとしたんや。うち相手はほんまに容赦ないんやから」
「そうかな」
 にこやかに笑いながら、加依は部屋を出て行く。那伎は諦め悪くついてきた。
「なぁ、ほんまに行くんか」
「しつこいよ」
「ほな、うちも一緒に行く」
「え」
 加依は思わず立ち止まり、振り返った。那伎は後ろ手に組んで、満足げな笑みを浮かべていた。
「別にええやろ。おじさんかて、うちが行ったら喜んでくれはるで」
 少女には不釣合いな上目遣いで加依を見上げる。
「それとも、一人ぼっちでおじさんに会うん。しんどいで、あにさんには」
「馬鹿なことを言うなよ」
 加依は那伎に冷めた一瞥を向けてから、再び歩き出した。懲りる様子なく、那伎は加依の腕に自分の細い腕を絡ませた。
「うち、知ってるもん。あにさんがおじさんのこと苦手なん。おじさんと喋ってるときのあにさんって、めっちゃ怖いもん」
「那伎の思い過ごしだよ。俺は長に対して敬意を払っているだけだから」
「ふうん」
 腕に抱きついて、那伎は頬を寄せた。加依は無理に彼女を振り払おうとしない。だがその許容は、絶対的な拒絶に起因していた。
「どうせ俺が何を言っても来るんだろう。だったら好きにするといいよ」
「やった」
「でも、那伎を抱えて飛ぶのはご免だから」
「なんでよ。羅依(らい)のことは抱っこしてたのに」
「あれは距離が短かったからね。アシリカへ行くときは、船に乗せたよ」
 玄関へは向かわず、中庭に出る。よく手入れされた庭は、塵一つなく、庭木は常に同じ陰影を持っていた。整然とした佇まいは潔白で、清廉であった。だがネリオズ宮殿の中庭のような華やかさはない。
「それとも、那伎はまだ飛べないの」
 加依は涼やかな瞳を細めた。
「あ、あほなこと。ちゃんと飛べるわ」
 耳まで真っ赤にして、那伎は声を上げた。翼を持つ魔族にとって、飛べることが大人の証だった。
「ほんとかな」
「意地悪なんやから。しっかり見ぃ」
 そう息巻くと上着を脱ぎ去る。那伎は目を閉じて深呼吸をした。
「もう子供扱いさせへんからね」
 彼女の小さな背中から、白に近い灰色の翼が突き出した。生まれたての羽はやわらかく、小さく震えているようでもあった。羽ばたいて、宙に留まる。
「見たか」
「へぇ、成長したね」
 見上げると空はどこまでも高く、透徹した青さは那伎の翼を実際よりも濃く浮き上がらせた。加依は上着を脱ぎながら、頭の中に階段を思い浮かべた。想像の中で、そこを全速力で駆け上がる。息が切れる頃、体は空に引っ張られるように軽くなった。
 背中に小さな痛みが走り、漆黒の翼が這い出た。地面を蹴って、那伎に並ぶ。見下ろす街は小さく、横に見る那伎の瞳は偽りのない好意に溢れていた。那伎の指先が加依の濡れた翼に伸びる。誰に教わったのか、長く伸ばした爪は赤く飾られていた。
「やっぱり、あにさんの翼が一等きれいやわ」
 爪で羽をこすられると、淫靡な感触を想起させられた。加依は無言で飛び立った。