THE FATES

4.鏡面(5)

 魔界には未だ戦渦が絶えなかった。部族間の衝突は激しさを増し、勢力が拮抗すればするほど、戦況は泥沼化した。幼い頃は友好を願った加依(かい)も、今では誰かが圧倒的力で頂点に立つしか道はないと考えるようになっていた。まだ見ぬその頂に、最も近いのは父・亘理(わたり)であろうとも考えていた。だが、感情が常に思考を否定した。
 本当に父が魔界を統べる王になっていいものか。加依は何度もその問いを一人で繰り返した。精鋭揃いの部隊は反乱分子を卒なく鎮圧するだろう、それぞれの部族の歴史を重視し文化を保護するだろう、食糧は分配され飢えに苦しむこともなくなる。それは多くの民にとって幸せなことではあった。だが、全ての利益は、目に見えない喪失の上に立っている。
那伎(なぎ)は知ってるか、長が戦を続けるわけを」
 見渡す世界の半分は赤い大地で、もう半分は青白い空だった。前線まではまだ遠かった。
 那伎は加依に追いついて、さぁと首を捻った。
「みんなが平和に暮らせる世界を、作ろうとしてるんちゃうの」
「そうだね、そう思うよね」
「何が言いたいん」
 優雅に微笑む加依の横顔を、那伎は不可解に見遣った。
「侵略やって言うんか」
「随分、激しい意見だね」
 加依は那伎が追いつけるように、明らかに速度を落としていた。真下に広がる大地の苦悶がはっきりと映る。
「魔界は作物を育てるのには向かない。それは那伎も知ってるだろう。だがここには資源がある。鉱石燃料は、俗界では馬鹿みたいな高値がついてる。燃料だけじゃない。鉱石そのものも磨けば宝石になる」
「せや。だからそれを元にして、俗界南部から船で食糧運んでるんやろ。鉱石は魔界の大事な武器や。俗界の人間がどんなに偉そばったって、結局は魔界の燃料使わんと一日たりとも生活できへんねんから。なぁ、あにさん、今さらそんな話して……」
「それが、そもそもの過ちなんだよ」
 加依は那伎の細腕を掴んで、空にとどまった。
「見てごらんよ、あの山を。昔はあんな形じゃなかった」
 指差す先には、杭を穿たれ掘り返された山があった。採掘のため稜線は歪み、くすんだ褐色は粘土と混ざって色を見失っていた。周囲には更に深い階層から掘り起こした岩石が無作為に放置されている。どれも鉱石燃料にならない滓ばかりだ。麓に広がっていたささやかな草地は、踏み倒されて影もなかった。
「大地の毒を抜き、鉱石を取り出す技術は、最後には俺たちを滅ぼす」
「ほな、どないしたらええの。食べるもんなくなって、死んだらええのん」
「そんなこと言ってないよ」
 答えてから、加依は小さく笑った。
「いや、そう言ってるかもしれないね。この大陸の環境に適応できないなら、それは種としての最期だよ。獣族(じゅうぞく)みたいに、土から栄養を取れれば話は別だけど」
 突風が二人を襲う。那伎は空中でたたらを踏んだ。加依は掴んでいた腕を頼りに、彼女を抱き上げる。那伎は加依の顔を見上げて、礼の言葉を飲み込んだ。爽やかな顔立ちに張り付く冷たい仮面は、世界の全てを拒絶していた。
「生きるために、死に向かっているんだよ」
 そう言って、加依は那伎を見下ろした。穏やかな笑顔を見ても、那伎の気持ちは揺らがなかった。首を振って、腕からすり抜ける。
「そんなん、悲しすぎるわ」
 加依を置いて、那伎は先に飛び出した。遠ざかっていく那伎の羽は、加依に御しきれない苛立ちを覚えさせた。黒い羽を大きく羽ばたかせる。距離は一瞬で埋まった。
「ねぇ那伎、不破(ふわ)は今どこに」
 仮面と癒着した加依にとって、平静は装うものではなかった。自然と体から滲み出た。那伎は加依を一瞥して口を開いた。
「あのうるさい男のこと? 知らんけど、せやなぁそう言えば最近は見んかったなぁ」
「そうか」
「なんで。なんか用事あったん」
「一応、ここへ連れてきた責任があるからね。アシリカへ連れ戻そうと思ってたんだけど」
「もしかしたら、本隊におるかもしらんよ」
「そうだね」
 加依は那伎の笑顔を直視できず、顔を逸らした。那伎の思いやりはいつも大胆で繊細さに欠けた。それが彼女の良さでもあったが、作為は作為を以って完成させてほしかった。仮初めの作為では、虚しさが募るだけだった。
 視線の先に、ちらほらと仮設小屋が見え始めた。上空の二人に気付いた者が、下から手を振っていた。その中に見知った顔を見つけ、加依は降下した。すぐあとを那伎も追ってくる。地上の男は、眩しさに目を細めて、大きく腕を振った。
「若、那伎も一緒か」
「お久し振りです。お元気そうで何よりです」
 降り立って、男と握手を交わす。那伎はあまりの急降下に、よろめいていた。
「大丈夫か、ちびさん」
「子供扱いせんとって下さい。先生、いつもうちのことからかうんやから」
呂灯(ろび)先生、前線にいらっしゃるとばかり思っていました」
「そうそう扱き使わんでくれ。俺にもたまには休みをくれよ」
「あかんよ。先生おらんかったら、みんな病気で死んでまうわ」
「その前に、俺が過労で死んでしまうって話だよ」
 呂灯は子供のように無邪気に那伎に抱きついて、脇をくすぐり、髪を手荒に撫でた。加依の翼に目をとめて、那伎から離れる。
「しばらく見ない間に、立派な翼になった」
「ありがとうございます。ここから離れることが増えたんで、自分でも見る機会は減りましたが」
「宝の持ち腐れになる。使わないでいると、いつか飛べなくなるぞ」
「それならそれで、むしろいいんです」
 朗らかに言い切る加依に、呂灯は半ば呆れて笑った。年の頃は四十絡みで、日焼けした顔は親しみやすく、笑うと顔中に皺が出来た。呂灯は元々俗界の人間で、アシリカで医学を学んでいたが、魔界の荒涼とした景色に惚れ込み、国を捨てた。従軍も長く、戦地医療の経験が豊かでもあった。持病を抱える長が、呂灯を手放そうとしなかった。
「上から見た限りでは、長の天幕は見当たりませんでしたが」
「あぁ、急病人がいるって言うんで、俺だけ先にここへ来たんだ。じき、長の部隊もいらっしゃるよ」
「急病人、ですか」
「もう落ち着いたから、気にしなくていいよ」
「先生がそう仰るなら安心です。良かったですね」
 腹の底から声が聞こえた。心にもないことを、と。
 袖を引かれて振り返ると、那伎がそわそわと辺りを見回していた。
「どうした」
「なんや、みんな騒がしねんけど」
 言われて見遣ると、先ほどまで日陰で休んでいた兵士たちが、無駄のない動きで働き始めた。
「もうすぐ、長のご到着みたいだな」
 呂灯の言葉に、加依の気分は静かに沈んだ。