THE FATES

4.鏡面(6)

 兵士のあとを追って呂灯もその場を去った。これから一際大きな天幕が兵舎内に張られる。加依は呂灯の背中を見送って、立ち竦んだ。作った笑顔は、潮が引いていくように消えた。
 最後に父に会ったのは、俗界へ行く前のことだった。誰の助けも借りずに飛べるようになったのを契機に、羅依(らい)を探しにいくという理由で飛び出した。妹に会いたい、ともに過ごしたい、と平然とした顔でありもしない感情を並べた。当時の加依にとって羅依は、自由の理由をくれた都合のいい存在でしかなかった。父はただ一言、好きにしろと言った。
 監視がいるかもしれない恐怖から、俗界へ行った加依は律儀に羅依を探した。心のどこかで、いつまでも見つからないのを望みながら、また同じ顔の存在に底知れない興味を抱きながら。探し出したときには、全ての感情が羅依への執着と親愛に変わっていた。
 暮れ行く部屋で、父の横顔は黒く塗り潰されていた。加依には自分がそうしたように思えて、父の返事を聞くとすぐに礼をして部屋を出た。自室に戻り、堪らず寝台に潜り込んだ。足が震えて、立っていられなかった。
 あれから二年近くが経とうとしていた。膝の震えこそないが、心が竦んでいた。今になって、あの時の父の表情が知りたいと思った。
「なぁ、あにさん」
 呼びかけられて振り返ると、那伎が青い顔をして背後の仮設小屋を見ていた。
「なに」
「なんか、うめき声が聞こえる」
「先生がいたんだから、救護棟だろう。不思議はないよ」
「でも」
 控えめな躊躇いとは裏腹に、期待の眼差しは明け透けに強かった。冷えた手で小指を握られる。加依は手を離すよう遠まわしに促し、仕方なく小屋を覗いた。入り口にかかる布は厚く重い。持つのは面倒なので、端と括り付けて開いた。中は陽が射さず薄暗い。奥から、息を継ぐような途切れ途切れの声がした。女のようだった。
「大丈夫ですか、先生を呼びましょうか」
 横をすり抜けて那伎が小屋に入り、慣れた手つきで明かりを点けた。照らされた小屋の中に寝台はいくつか並んでいたが、使われているのは一つきりだった。女は体を横たえ丸くなり、肩で息を繰り返していた。加依の手に負えるものではない。
「那伎、先生」
「わかった」
 明かりを鉤に掛け、那伎は小屋から走り去った。天井から下がった明かりは、乱暴な那伎の仕打ちに不規則に揺れた。
 加依は女の汗に気付き、被っていた毛布を胸まで下げた。
「え……」
 女は全裸だった。慌てて毛布を掛け直す。近くにあった布を濡らし、加依は那伎が戻ってくるまで、女の額や首筋を拭った。
 顔を見る限りでは、女は加依よりいくらか年上のようだった。頬は上気して染まり、拭いたそばから汗が滲んだ。だが毛布越しの体は冷たく、小刻みに震えていた。他の寝台に置かれていた毛布を重ねてかけるが、あまり効果はないようだった。
 荒い呼吸の合間に、声が洩れた。言葉は聞き取れないが、彼女の何かしらの意志が感じられた。加依は汗を拭いてやろうと手を伸ばす。しかし素早く出てきた彼女の手に、強く掴み取られた。
「な……」
 痛みに呻いた顔は、驚愕に変わった。女の腕には、黒一色で絵が描かれていた。線は虫が這うように動いた。徐々に指先にまで到達し、形を整えていく。黒い虫はそれでも足りないのか、更なる画布を求めて、加依の腕に飛び移ろうとした。
「離してください」
 彼女の腕を振り払おうとするが、爪が刺さるほどに掴まれ、痛みだけが先走った。腕をひねって、無理矢理に彼女の腕を剥ぐ。行き場を失った虫たちは、仕方なくそこに留まる。加依の腕には、血が滲んだ。
 黒い侵略者は、腕だけではなかった。毛布に隠れた部分から、じわじわと根を張るように広がっていた。肩や首筋は、透かした葉のように網の目が張り巡らされた。
 女がおもむろに首をもたげ、加依を見た。虚ろに開いた瞳は黒く、魔族には見えない。唇が動き、何事かを呟いたが、ほとんど息だけで言葉にはならない。加依は彼女の額にかかる黒い髪を、優しくかきわけた。ごめんなさい、そう言われた気がしたのだった。
「どうしたっ」
 小屋に呂灯が戻った。加依は持っていた布をもう一度濡らし、彼女の露わになった額の上へ置いた。
「苦しそうだったので、覗いてみたら」
 呂灯は加依の説明を聞いている様子ではなかった。女の首を犯す黒い筋に気付くと、毛布を跳ね上げた。女の白い体は、線と記号で埋められていた。呂灯は舌打ちをした。
「ただの中毒者じゃなかったのか。なんだこれは。何かの呪詛なのか」
 焦る呂灯を横目に、加依は女の体に描かれた模様に目を奪われた。それはよく見ると脈打っているようで、まるで一頭の獣のようにも見えた。
「心配、しないで下さい」
 掠れた声で女が言った。途端に、体の模様が薄くなっていく。
「お前さん、何者だ」
 口振りは冷たかったが、呂灯は丁寧に毛布をかぶせ、そばにあった丸椅子に腰掛けた。女は苦悶に似た笑みを浮かべ、深呼吸をした。
「これは呪詛ではありません。芸術、禁忌の芸術です」
「はぁ」
 額に皺を寄せ、呂灯は相槌を打つ。加依は毛布から出た彼女の腕を見ていた。ほとんどの模様は消えたが、二の腕の一部にだけ残った。
「刺青、ですか」
 加依の静かな問いかけに、女は視線を向けた。嬉しげに微笑んだ。
「よくおわかりですね。仰る通り、これは全て刺青です」
「そんなあほな。刺青が消えたりするはずないやんか」
 加依の後ろに隠れていた那伎が、思わず声を上げた。
「確かにそうだな。それにお前さんが運ばれてきたときの症状は、明らかに地毒(ちどく)の中毒と同じものだった。どういうことだ」
「ええ、あれは中毒です。だって、この刺青の色は、地毒と獣族の血を混ぜて作ったものですから。時折、こうやって中毒症状を起こすんです」
「起こすんです、って……。だったら今まではどうしてた」
 短く刈った白髪を掻き、呂灯は半ば呆れて問う。
「さらに、地毒を塗りました」
 女は、さらりと言った。呂灯の動きがとまった。おもむろに顔を上げて、女の顔を見つめる。
「まさか、そんなことをし続けたら、死ぬぞ」
「それならそれで、本望ですから」
 加依は呂灯が怒鳴ると思った。だが呂灯はしばらく女を睨み付けると、深く息を吐き出し椅子から立った。
「そこまで言うなら、好きにしな」
「せ、先生」
 慌てた自分自身に、加依は驚いた。呂灯は水の入った桶を持って出て行く。
「心配するな。俺は一度診た患者を放り出したりはしないよ。井戸へ行くだけだ」
「そう、ですか」
 安堵して胸を撫で下ろす。腕に、何かが触れた。振り返ると、女の指が伸びていた。
「ごめんなさい、さっき、痛かったでしょ」
 女の指の先、加依の腕には血が滲んでいた。小さな傷に沿って、血が膨らんで浮いている。
「ちょっと、あにさんに何したんよ」
「さっきの話は、本当なんですか。地毒と獣族の血を混ぜたって」
「本当ですよ。自分で彫って、色を入れました」
「どうして、そんなこと」
「なぁ、あにさん、この人ちょっと変や。行こう」
「行かない」
 加依は腕に巻きついた那伎の手を払うことすらしなかった。那伎は仕方なく加依の上着の裾を掴んで、その場に留まった。
 女は黒い瞳を細めた。
「若様に看病してもらえるなんて、光栄」
「なんで、あにさんのこと」
「私がこの大地の毒と、そして獣族と通じているからよ。これは契りの証」
 汗に濡れた女の髪が、頬に張り付く。唇は乾いていた。加依は女の刺青に触れようとして躊躇した。
「大丈夫。触るだけでは中毒にはならない」
 女の言葉を信じて触れる。刺青の感触と女の肌が、歪な官能を覚えさせた。きめの細かい白い肌は、加依の指に吸い付くようだった。
「きれいでしょう」
 黒い瞳に、小屋の明かりが移り住む。揺らめきは眩暈に似ていた。女は刺青に触れる加依の指に手を重ねた。
「この色は他では出ないわ。最高の闇よ」
「闇、闇色」
 加依は呟いて思い至った。この沸き起こるような好奇心は、普段は陽の光の当たらない、仮面の裏から匂い立っていた。闇が闇を求めて惹かれていた。
 女の指が加依の手の骨に沿ってなぞった。
「妙なことに興味をお持ちになるのね」
「禁忌の芸術なんて言われたら、誰だって興味を持ちますよ」
「だったら嬉しい。私は乃重(のえ)。きれいな手。彫ってみたいわ」
 外から鉦の音が鳴り響いた。それは長の到着を知らせるものだった。