THE FATES

4.鏡面(7)

 薄灰色の空は、由稀(ゆうき)に少女の瞳を思い起こさせた。透けるような青よりも、この空の方がむしろ淀みは感じられなかった。近いのか遠いのかわからない、平坦で掴み所のない空だった。
 振り返ると、天水(てんすい)市街がやや高い場所に眺められた。城壁の中から突き出た城の尖塔では、旗が激しく煽られている。錆色の外壁は灰色の空によく似合った。
「もう、ついてるかな、(こう)
「そうだな、人込みが大変だけどそんなに遠くなかったから、多分ね」
「そっか。羅依(らい)は城に行ったんだよな」
「うん」
 返答に潜んだ羅依の儚い微笑みが、由稀には重く感じられた。龍羅飛(りゅうらひ)跡を訪れてから、目に見えて羅依の表情は曇りがちになった。少し前なら彼女の心を自分の身に置き換えて想像できたが、今は遠い世界のことに思えた。お飾りのような罪悪感が棘のように胸に刺さった。
 風に手をやって、さりげなく彼女の数歩前に出る。顔を上げると、前には(しゅん)の背中があった。
 砂の中には大きめの石が埋もれ、気を抜くと躓きそうだった。砂から覗いた石の頭はどれも削れて、靴底となめらかにこすれた。
 白い砂の世界に、石造りの建物が目立つ。崩れたものが多い。さらに奥へ進むと、そこかしこから視線を感じるようになった。鋭く、一所に定まらない視線は、それだけで恐怖だった。由稀はいつしか息を潜めていた。
 一人の少年が白木の棒を持って、崩れた石の上に座っていた。褐色の肌に艶やかな黒髪がよく映えた。少年は訪問者に気付いて顔を上げた。
仁支(にし)は」
 瞬は少年に紙幣を差し出して問うた。褐色の少年は表情のない瞳で瞬を見上げると、金を掠め取って立ち上がった。瞬の前を歩き出す。
「墓守の民だ」
 振り返って、瞬が言った。
「じゃあ、これは墓石か」
「いや、これは過去の文明の名残だ。まぁ、墓石と言えなくもないがな」
 瞬は火付け具を手に持って、落ち着きなく何度も蓋を開け閉めした。細い金属の棒を叩き合わせるような、独特の音が砂漠に響いた。
 少年のあとをついて行く。由稀は先から感じていた殺気を直観的にこの少年と認めたが、自分よりも幼い子供に、果たしてあのような所作をさせるものは何か、考えさせられた。環境がそうさせる。本能がそうさせる。大人がそうさせる。だがまだ生まれたての心は、柔らかく崩れやすい。痛みは傷となって残り、傷口は硬くなって塞がっていく。そして内側の脆さを抱えたまま、傷だらけの装甲で戦うのだ。由稀は知らぬ間に、自らを顧みていた。自分は裏切られた側の人間としては、不出来なのかもしれなかった。
 景色は依然、乾いたままだった。進むほどに建物は原型を留めるようになったが、人が生活している様子は見られなかった。漂い始めた甘い香りは、嗅ぎ慣れた瞬の煙草だった。
 少年はあるひとつの建物の入り口で立ち止まり、中に声をかけた。
「じいさん、客」
 声変わり前の涼やかな声には、乱暴な物言いが不釣合いだった。少年は道をあけた。去り際の少年の瞳には、何の感慨の欠片もなかった。
 瞬に続いて由稀も建物に入った。羅依は二人のあとを落ち着かない様子で続いた。
「大丈夫か」
「崩れないのかな」
「さぁ、どうなんだろ」
 由稀は天井を見上げて首を傾げた。表から見ると真っ白だった石壁も、内側は煤に汚れて黒ずんでいた。明かりも外光しかなく、薄暗い。そして腰掛ける気が起こらないほどに、狭い。石の質感は閉塞的で鬱々としていた。
「てっきり、もうくたばってるかと思ったが。しぶといな」
 瞬は珍しく親しみを込めて話した。由稀は部屋の奥へ視線を向けた。
 そこには、老いた男が寝台に腰掛け、尖った歪んだ杖を両膝の間に突き刺していた。頭髪はなく、浅黒い地肌が薄暗がりに馴染んでいた。体は杖のように細く、皮膚越しに骨の形がわかるほどだった。ただ、眼光だけが異様に鋭い。その異様さは、老人的なその他の容貌を滑稽に思わせた。
 老人は、瞬の挨拶ににやと笑った。
「お前さんこそ、すっかり牙を抜かれたようだな。これではどちらが老いぼれかわからんわ。どうした、操でも立てて女を断ったか」
「今さら操なんて」
 瞬は鼻で笑ってあしらう。手で弄んでいた火付け具に、ようやく火をつけ煙草をふかした。
「店はどうなった。閉めたか」
「いいや、息子か、またその息子がやっとるよ。最近はあの辺りの仕切りも変わって、仕事はしにくそうだ。鬼使(きし)が帰ってきたなら、事態は変わるかもしれんが」
 老人は喉を引きつらせて笑った。痰が絡んだ醜い声は、部屋の中の閉塞感を更に強めた。
「期待は絶望の元だ。特に俺に期待をしても虚しいだけだと思うよ」
「そんなことは昔から知っとる。それでも儂は、お前さんについていこうとするんだよ。何度同じことを言わせれば気が済むのかねぇ」
 皺だらけの顔が、笑顔でもみくちゃになる。剣のように鋭かった眼光も影を潜めた。老人の素顔に由稀は好感を抱いた。皺に埋もれそうな細い目は、生命への慈しみに溢れていた。眼差しが由稀らを捉える。
「随分と若い可愛らしいのを連れとるなぁ」
「これが由稀で、そっちが羅依だ」
 瞬の紹介に合わせて、由稀は軽く会釈した。顔を上げると、老人の温もりが部屋の中に染みていた。拒んでいたのは、自分の方だった。
「彼は仁支。仕事の仲介役と情報集めをしてもらっていた男だ」
「すっかり老いぼれになって、とても信じられんだろうが、これでも昔はやんちゃなこいつと世界を唯一繋げてたんじゃよ」
「昔話はやめろ。歳を取ると口が緩くなってかなわないな」
「何を言っとる。儂よりずっと生きとるくせに、よぉ言う」
 仁支は声を出さずに笑った。瞬はばつ悪く紫煙を吐いた。由稀は二人の仲の良さに、知らず顔が綻んだ。
「ところで、ここに来たということは、仕事か」
「人を、探してほしい」
 上着の裏から札束を取り出し、瞬は寝台に投げた。仁支はそれを一瞥して、口を歪めた。
「人数は」
「二人だ。一人は長身の男で、名は青竜(せいりゅう)。黒い髪と瞳だ。厭味な敬語を使う。もう一人の男は久暉(ひさき)。こっちは小柄で風変わりな髪と瞳をしている。まるで昔の、漣の青空のようだ」
「そちらのお嬢さんのように、かな」
 仁支は羅依を手招きする。一瞬、羅依は戸惑いを見せたが、歩み寄って膝立ちになった。枝のような指が、羅依の髪に触れる。
「染めているわけではないんだね」
「はい、生まれつきです」
「きれいな色だ。遠い昔の暁を思い出す。その久暉とかいうのも生来そうなのかい」
「多分……」
 羅依は答えに窮して由稀を振り返る。だが由稀は曖昧に首を傾げるしかできなかった。
「ある程度、範囲は絞り込んだ。これがその詳細だ」
 瞬は苛立たしげに口早に言って、四つ折の紙を投げた。
殊来鬼(しゅらき)よりも蓮利朱(れんりしゅ)を中心に頼む」
「見つかったらどうする。消すのか」
 老人はおもむろに紙を広げて、目を落とした。
「いや、何もせずに居場所だけ教えてほしい」
「ふむ。ここまでやっておいて、鬼使が見つけきれないとは。相当厄介な相手か」
「まぁ、な」
 短くなった煙草を靴で踏みつけ、瞬は小さな声で言った。
「え?」
 由稀は違和感を隠しきれずに口を開いた。瞬はそう簡単に人に弱みを見せる男ではない。由稀の中に罪悪感が芽生えた。自分の無力が瞬の誇りを傷つけている気がした。
「あのさ、ほんとは俺が――」
「気にしなさんな」
 仁支の目に、最初に見たときの光が戻る。しかし相手を屈服させるような強引さはなく、むしろ快く誘われるようだった。由稀は続く言葉を飲み込んだ。
「出来るだけ急いでくれ。可能な限り、早く向こうに戻りたい」
「戻る。はて、どこに」
 わざとらしい惚けに、瞬は舌打ちした。
「アミティスだ。向こうで色々と巻き込まれた」
「そうか、それは難儀だ。他に何か特徴はないのか」
「ない」
「わかった。――耶守(やす)
 仁支に呼ばれ、案内をした少年が入り口に顔を出した。仁支は少年を招き入れ、札束と地図を渡した。
「依頼内容は大丈夫か」
 少年は小さく頷く。仁支は少年の手を強く握った。
「店まで頼むよ」
 再び頷くと、少年は走って部屋から去った。
「まさか、今の子が? 俺より年下だよな」
 由稀の呟きに、仁支が大らかに笑って答えた。
「まさか。あの子は動けない儂の代わりだよ。あの年頃の子で一番足が速い」
「そっか」
 安堵の声を聞いて、仁支は顔を皺だらけにした。
 由稀には仁支老人の昔の姿は想像できなかったが、なぜ瞬が彼と組んで仕事をしていたのか、わかる気がした。冷静で的確な会話、洞察力、揺るがない強さ。そして何より、仁支には適度な無駄が、自ら意識して持った余裕があった。それは瞬にもっとも欠けているものだった。無意識のうちに瞬は自分を他者で補填しようとしていたのだ。
 ずっと瞬の孤独ばかりを見てきた。人殺しの業を背負い、愛する者を喪い、家族との溝を埋められない。それが彼の人生の全てだと思っていた。だから、自分たちの事情に巻き込むことに抵抗を感じることがなかった。むしろ驕っていたかもしれない。彼を孤独から引き離してやれると。
 だが本当に、彼をアミティスへ連れ去っていいものか。
 もしも瞬がいなければ、今のように青竜を追うことはできなかった。あの神殿で全てが終わってしまっていたのだろう。由稀だけではない。他の皆にとっても、瞬はなくてはならない存在だった。
 瞬の真意を探ると不安ばかりが募った。だがそれよりも、このことに今まで気付かなかった、気付こうとしなかった自分が、恥ずかしかった。無知は言い訳にはならない。これは想像力の欠如だ。
 仁支と目が合う。合ったように感じて、由稀は笑みを浮かべた。やってみて、頬に気持ちが入らないことに慌てた。
「心配なさんな」
 心を読まれたかと思い、由稀は返す言葉を失った。仁支は続けた。
「自分の身を守るすべくらいは、きちんと教えとるよ。一族に無様な死に方をされちゃ、以後の仕事に差し支えるじゃろ」
「あ、うん、そか」
 少年の話の続きとわかり、由稀は頭を掻いた。だが由稀は、心配するなという老人の言葉が、瞬のことのように思えて仕方なかった。
『心配なさんな。最後に決めるのは瞬自身。怖れることはないよ』
 由稀は満面の笑みで腕を上に突き出し、大きく伸びをした。