THE FATES

4.鏡面(8)

 初めて彼に会ったのは、豪雨の夜更けだった。雨のせいか絆景(ばんけい)に人は少なく、静まり返っていた。傷口からの血が止まらない。擦り切れた心では痛覚も麻痺していた。少しの段差をのぼる気力も失せ、地に頽れる。(しゅん)はただ一つの言葉を信じて、店の扉を叩いた。
 すぐに駆け寄ってきたのは、給仕姿の若い男だった。
「おい、大丈夫か」
 彼の声には、張り詰めた緊張を簡単に断ち切ってしまうような力があった。透明で、大らかで、動じない。神がこの世にいるならば、その手はきっと同じ匂いがすると、瞬は直観した。
「お願い、奏奴(かなめ)を、奏奴を……っ」
「奏奴がどうした。それよりお前、ひどい傷だ。誰にやられた。警邏を――」
 そこまで言って彼は言葉を呑んだ。瞬の瞳の色を見て、初めて動揺した。諦念と倦怠が瞬の意識を襲う。
 神などいない。とっくの昔に死んだのだ。あるのは神の姿を模した、欲の泥人形だけだ。
 世界は、急速に遠のいていく。
 あの男の言葉を最後まで信用した自分が悪かったのだ、瞬はそう言い聞かせた。視界は霞み、光がしぼんでいく。
「しっかりしろ」
 手加減なく頬を叩かれて、瞬は無理矢理抱き起こされた。
「待って……、もう、歩くと痛い」
「そのくらい我慢しろ。ここまで歩いてきたんだろう。とにかく上で寝てろ。医者を呼んできてやるから」
 店舗部分から続く階段を、ひきずられるようにしてのぼり、瞬は寝台に倒れこんだ。
「いいか、絶対に動くな。そこで大人しくしてろよ」
 一方的に言い残して、彼は階段を駆け下りていった。半分開いた窓から、雨の中を走る足音が聞こえた。
『俺が今から言う場所へ行くんだ。大丈夫。きっと仁支(にし)は君を助けてくれるよ』
 喉を競りあがった涙が、閉じた瞳から粒になって零れた。声にならない嗚咽は雨音に包み込まれ、夢の中で瞬は真っ白な世界に落ちた。

 目の前で微笑む枯れ枝のような老人に、瞬は変わらぬ大らかさを見る。老いてなお一層、彼の雅量は神性を持ち、光り輝くようだった。冷静さと人間味を兼ね備えた仁支は、常に安全性を重んじ常識の範囲を守ろうとした。だがただ一つ、彼は彼の正義に背き続けた。それが彼にとっての鬼使(きし)の存在だった。仲間の忠告も叱責も受け付けず、仁支はひたすら鬼使の仕事を支えた。何故と問われても、彼はいつも笑顔でかわした。その理由は、瞬ですら知らなかった。
 まだ長い煙草を踏みつける。石床の表面はざらついていて、火はすぐに磨り潰された。
「仁支、これは新たに調査してもらう必要はないんだが、龍羅飛(りゅうらひ)の歴史について神話めいたものでも構わない、何か知っていることはないか」
「異なことを聞く。龍羅飛のことならば、お前さんの方が知っているだろうに」
「龍羅飛の俺だからこそ、知らないこともあるだろう」
 薄笑いを浮かべて瞬は言った。仁支は眉を寄せて瞬を見つめる。
「瞬、お前は何を疑っている。自分の家族が、一族が、信用できないと」
「何事も、疑うことから始める性分でね」
「なんと寂しいことかな」
「たとえば、龍羅飛が二つに分裂した話とか。知らないか」
 瞬の声はいつになく真剣で、仁支は茶化す気を削がれた。
「ふむ。残念だが、儂は二つに分かれたことすら、今初めて知ったよ」
「そうか……」
 あからさまに落胆する瞬を前に、仁支は往年の執着を思い出した。鬼使はこちらから踏み込まなければ、決して何事も話さない男だ。斬られる覚悟で問い詰めなければ、何も得られなかった。
「なぜ、そんなことを聞く」
「いいんだ。関係ない」
「わからんぞ。儂が忘れているだけで、何かのきっかけでお前さんの求める話が思い出せるかもしれん」
 少しの逡巡ののち、瞬は口を開いた。
「古来からの話では、龍羅飛は神に愛され、神に仕えた一族だった。恩恵を受けて街は栄え、富に溢れ、流行り病に侵されることもなく、一時は今の天水(てんすい)王家一族をも従えるほどだったという。だが龍羅飛は、その寵愛を内戦で手放した。天水王家の介入を受けて富を奪われ、健全な魂は朽ち果て、神に準ずるとまで言われた至高の力のほとんどを失った。それだけでなく、神に対する反逆者、その印として、龍眼の定めを科せられた」
「仕えるって、どうやって。神様ってのは見えたのか」
 疑問にたまりかねて由稀(ゆうき)が口を挟んだ。瞬は由稀を一瞥して話を続けた。
「俺にも詳しいことはわからない。だが昔、龍羅飛は世界を繋げていたと教わった。おそらくその行為が神の眷族としての役目だったんだろう。だが、それが具体的に影響していた場所については、教わることではなかった」
 瞬は煙草に火をつけた。じっと口元に手を当てて考える。
「これから話すことは仮説に過ぎないんだが」
 壁にもたれて見遣った天井に、紫煙が薄布のようにまとわりついた。
「内戦が治まったとは考えにくい。ならば分裂は分裂のまま、消えていった者がいるはず。ならば龍羅飛を去っていったのは、竜族(りゅうぞく)じゃないかと考えているんだ」
「え」
「前にも話したことだが、妙な共通点がある。外見的特徴、言語や文字の類似。これだけで結びつけるのは安易かもしれないが、争いが起こったのは遠い昔の話だ。他にもあっただろう共通点は、時間の中で埋もれていったんだろう」
 瞬は黙り込んで煙草をふかした。自分の言葉の意図が掴みきれなくなっていた。
「何より、青竜(せいりゅう)のあの〈気波動(きはどう)〉だ。あの共鳴は、特異だ」
 手のひらの奥、腕の芯に、青竜の〈気波動〉との共鳴を思い返す。移動法を重ねた瞬間、脳裏に浮かんだのは、兄・(えん)の〈気波動〉だった。兄への愛情が遺恨へ化けて久しい。だがあの時だけは、素直な心で兄を懐かしく敬慕した。
「ふむ」
 寝ぼけたような仁支の相槌に、瞬はここまで話すつもりではなかったことに、はたと気付いた。無意識に仁支を睨み付ける。仁支は瞬の視線を受けて、にやりと笑った。
「すぐに一人で抱えようとする性分も抜けていないようだ。これではここにいる若い二人がかわいそうじゃ」
「食えない爺め」
「儂は龍羅飛の昔話には疎いが、他の道には通じておるつもりだよ」
「もったいぶるな」
「前に、随分と龍羅飛の話に詳しい男がいると聞いたことがある。儂が店におった頃の話だから、まだ生きている保障はないがな」
 皺の奥から鋭い視線がちらついた。
「おそらく、龍羅飛の生き残りじゃろう」
「まさか」
 瞬は鼻で笑い飛ばしたが、仁支には根拠があるようだった。突き立てた杖の天辺をじっと見つめて、笑っていた。
「誰か、見たやつがいるのか」
「男には、両の目がなかったそうじゃよ」