THE FATES

4.鏡面(9)

 瞬の指先から煙草が滑り落ちた。煙草は地面で跳ねて、仁支の足元まで転がった。
「いつだ、それは……。いつの話だ!」
「そうじゃな、お前さんが王家に呼ばれたあとじゃったかな」
 仁支は腰を曲げて煙草を拾おうとするが、伸ばした指はまったく地面に届かなかった。主を失った煙草は心細げに燃されていく。
「絆景か」
桟楽(さんらく)じゃったと思うよ」
 杖の先で煙草の息の根を断つ。それを横から拾い上げる手があり、腕を辿ると由稀だった。仁支は微笑んで手を差し出した。
「え」
 戸惑う由稀の指から、死んだ煙草を抜き取る。仁支が手にした途端、煙草は全て灰になった。
「証拠隠滅は儂らの得意分野――」
「おい仁支、どうして今まで黙っていた」
 仁支の言葉を、瞬の苛立った声がかき消した。瞬は壁に凭れて額を押さえた。体の奥から燃え上がるものがあった。それは昔、龍羅飛を失った頃によく感じていたものだった。一族への懐古、王家への憎しみ、自己への叱咤。そのどれをも超えた、本能的な愛郷の衝動だった。
 羅依(らい)は、瞬の激情に触れて息も出来ない。由稀は渇いた喉に何度も唾を押し込んだ。
「別に、聞かれなかったからな。それだけのことじゃよ」
 仁支だけが穏やかに瞬を見つめていた。
「いらぬ気遣いでもしたか、この偽善者。そのくらいのことで、俺が揺らぐとでも思ったか」
「おい瞬、やめろよ」
 由稀の制止を振り切り、瞬は仁支に掴みかかった。仁支は顔色一つ変えない。むしろ絶やさぬ微笑みで瞬に慈悲の眼差しを向けた。
「だったら、これはどう受け取ればいいのかな。揺らいでいないなら、この腕はどう説明するんじゃ」
「お前の裏切りを、俺が許すと思うか」
「ふふ、裏切りとな。それは有難い。儂もやっとお前に認められたということか」
「ふざけるな」
 瞬の腕に細く青い稲光が走る。だが老人に怯える様子は一切なかった。瞬に仁支を傷つけるつもりは毛頭ない。悔しさを吐息に滲ませると突き放すようにして離れ、やり場のない昂ぶりを壁にぶつけた。由稀は天井の崩落に備えて頭を抱えたが、建物には傷一つつかなかった。瞬の手に血が滲んだ。
「あれから何年経ってる。桟楽にいたんだったら、もう、命は」
「たしか、桟楽って」
 由稀の呟きに、
「さすが、耳が早いな」
 瞬は冷たく笑った。
(こう)から聞いた。真上の橋まで行ったんだ」
「下手をすれば絆景よりも死に近い場所。絆景とはまた違う形での、天水の暗部だ」
 瞬は煙草を探したが、もう残っていなかった。それを見とめて仁支はすぐそばの棚の、一番上の引き出しを杖で小突いた。決まり悪く瞬が引き出しを開けると、中には煙草が入っていた。瞬の好みのものではないが、迷うことなく一本拝借する。
『儂もやっとお前に認められたということか』
 違う。瞬は心の中で首を振った。認められたいと願い続けたのは、自分の方だった。瞬はそれをずっと仁支に押し付けてきたのだ。仁支はそのことに気付いている。気付きながら、瞬の代わりに相手への信頼を求めた。
 煙草に火をつけると、懐かしい刺激が喉を刺した。爽やかな香りが鼻を抜ける。
『約束するよ、瞬。俺は絶対にお前を裏切ったりしない』
 出会った頃の仁支の、濃淡のない黒い眼差しを思い出す。
『俺はお前にどんなことをされても、この心に禍根を残すようなこともしない。でもどうしてもお前が気を揉むなら、その時は俺の好みの煙草を一本吸え。それで少し嫌な気分になれ。でもその一本が終わったら、全て忘れてくれ』
 道を見失い、弱り切った瞬に、仁支は全力を尽くした。瞬はそれに応えようとして重荷に感じることもあった。仁支は言った。
『お前のために働いてるわけじゃない。全て自分のためなんだ』
 墓守の民は誰もが皆、生涯にただ一人の主を定め、その主人の闇を支えて闇に散る。主のために生きることが、彼らの至福であった。
 行き過ぎた爽やかさは、次第に喉を冷やした。
「相変わらず、不味い煙草だ」
 頭の隅々が冷え渡り、熱が引いていく。瞬の浮かべた微笑は氷のように冷徹だったが、仁支にはそれが満面の笑みに見えた。
「異国から来たお二人にはわからんかもしらんが、桟楽というのは元罪人やならず者が集まる集落でもあってね、宮様からどう聞かれたかは知らんが、貧困だけが理由ではないんだよ」
「そうなのか。ていうか、なんで紅が宮って知って」
「爺のおぼろげな記憶が、なんとなく、じゃ」
「はぁ」
 由稀は仁支の空気に呑まれて、ぼんやりと立ち尽くした。瞬はそれを横目に見て楽しんだ。
「桟楽は俺が当たることにする。もしも本当に龍羅飛なら、会えばわかるはずだ」
「気をつけろよ。桟楽の龍眼(りゅうがん)への執着は」
「知っている。何度も潰されかけた」
 そう言って瞬は深緑の瞳を指差した。仁支は苦笑を浮かべ、ゆっくりと体を労りながら立ち上がった。瞬は由稀と羅依に部屋を出るように目配せする。
「瞬」
 去ろうとした瞬の背中を、仁支の張り詰めた声が呼び止めた。
「もう一つ、お前に告白したいことがある」
「なんだ」
 促しても、仁支の逡巡は続いていた。瞬は訝しんで、振り返った由稀を手で払った。
「来た道を真っ直ぐ戻れ。すぐに追いつく」
「わかった」
 察した由稀は、深く問わずに部屋から離れる。瞬は慣れない煙草を指で弄んで、仁支の言葉を待つ。仁支は額に汗をかいていた。
「この話がお前に役に立つかどうかはわからん……」
 仁支の声は老人らしく震えていた。それまでの明朗な話し振りとは別人だった。
「それは俺が決めることだ」
「瞬、神域の狭間というのを、聞いたことはないか」
「神域の、狭間? いや、知らないな」
 瞬は耳にしたことのない言葉に不安を覚えた。
「なんだ、それは」
「奏奴が追い求めた世界のことだ」
「え……」
 一瞬、聞き間違いかと思った。まさか仁支の口からその名前が出るとは思わなかった。瞬の意識を流星のような眩暈が貫いた。
「奏奴、だって」
 喉が狭まり、耳は塞がり、全身から汗が引く。寒暖の感覚のない世界で、肌が震えるほどに寒くなった。目の前で、仁支の顔が歪んで見えなくなる。
「あれは、神域の狭間に神の世界への扉を見ていた。自分は能力者として神に仕えるべき存在と過信して揺るがなかった」
「俺は、聞いたことない」
 平衡感覚を失いかけ、瞬は壁に手を突いた。
「どうして今さら」
「さっきの龍羅飛と竜族の話を聞いて、もしやと思ったんだ。神域の狭間が本当の話なら、天水とアミティスの間にあるのかもしれん」
「まさか。そんな話、あいつの作り話じゃないのか。神なんて、奏奴が信じていたとでも」
「知っているだろう、奏奴の弱さを。ああ見えて臆病な男だ。いつも自分の罪に怯えていたよ。お前もそれに勘付いていたからこそ、奏奴を……」
「やめろ」
 拒絶は弱々しいものだった。呟きに、遠い記憶が呼応する。
『他の仕事がしたいんだろ』
 虚飾の光に彩られた絆景の路地で、声をかけられた。浅黒い肌と黒く艶やかな長髪の男だった。あとをついていくと、数人の男がおり、暗い路地の行き止まりで結界を張るように言われた。直後、長髪の男は一瞬にして数人の男を斬り伏せた。
『体を売るより、殺しの方が失うものは少ない。要は慣れればいいのさ』
 瞬を振り返った男は、返り血で染まっていた。瞬の足元まで、血が流れた。だが、怖いとは思わなかった。もっと怖い世界をすでに知っていた。
『そう。慣れてしまえば、どれも同じさ』
 奏奴はそう言って、手袋を脱いだ手で瞬の髪を撫でた。
『神々しい輝きだ。まるで君は神の使いのようだね』
 彼の微笑みに引き込まれた。その夜から、奏奴は瞬の師となった。怜悧な眼差し、人を殺すために研ぎ澄まされた剣術、依頼人への媚びない態度、時折作る料理の美味しさ。彼の全てに憧れた。
 だが瞬はその全てを自ら断ち切った。
 頭の中に、雨音がこだまする。記憶の景色が真っ赤に染まる。
『悪魔のように、鬼のように、強く冷酷に。君にならなれるよ、瞬』
 肉を貫く感触が手によみがえった。自分を守るためではなく、初めて意志をもって人を刺した。
「奏奴の弱さ……」
「もし本当に神域の狭間があるのなら、見つけてやってくれないか。奏奴の、兄の夢を」
 仁支はその場に座り込んで瞬に深々と頭を下げた。
 瞬は煙から漂う冷たい香りに、奏奴を喪った夜の、降りしきる雨を重ねていた。