THE FATES

4.鏡面(10)

 眼鏡越しに見える世界は、全て淡い紅色に染まった。表情のない灰色の空も、市場に並べられた果物も、目に映る全てのものが現実味を失い、(こう)の前に平面的にあった。紅はそこに心の安定を求めた。
 緩やかな坂をのぼり、顔を上げる。視界のほとんどが、眼前の水輝城(みずきじょう)に遮られた。懐かしさとは程遠い苦味が、胸の奥に滲んだ。錆色の城壁は、感傷の象徴だった。
 大きな鉄扉の脇にある小部屋を覗く。見たことのない男が、制帽をかぶって座っていた。
「おい」
 呼びかけに、男が顔を上げる。派手な紅のいでたちを一瞬で見る。
「なんでしょう」
 表情は無愛想で、返事にも抑揚はない。
「開けろよ」
「は」
 間の抜けた返事とは裏腹に、男の顔は鋭く引き締まった。素早く紅の周囲に目をやって、手を机の下に入れた。下には銃器と警報機がある。紅は、舌打ちした。またも自分が離れていた間の時間の経過を失念していた。
「あ、あのさ、陣矢(じんや)に会いたいんだ。呼んでもらえないかな」
 紅は鉄扉を指差し、心持高い声で言った。男は紅の指す方を一瞥して、ゆっくりと机の上に手を出した。その手に何もないことを確認して、紅は一息ついた。撃たれる心配は少なかったが、騒動を起こしたくなかったし、叔父らに知られたくもなかった。
「陣矢さんですか。約束はされてますか」
「いや、してないんだけど」
「わかりました。少々お待ちください」
 男は銀色の通信機器を耳に当てた。
「こちら城門前です。陣矢さんに来客です。繋いでいただけますか。はい。あ、陣矢さん、おはようございます。学生風のお客様がお見えです。どうされますか。え、名前ですか」
 意外そうに目を丸くして、男は紅を見た。通信機器を離して、
「失礼ですが、お名前は」
「あ……」
 名前を言えば、大騒ぎになることは予想できた。だが偽名を使えば、陣矢は不審に思って出てこないかもしれない。
「えっと」
 腰にあてた手に小さな鞄が触れる。閃きがよぎった。
「これ、拾ったんだよ」
 中から煙草入れを取り出し、守衛に見せる。
「出来れば直接返したいんだ。煙草入れ持ってるって言ってくれたら、多分伝わるから」
 努めてにこやかに話すと、男は不承不承ながら再び通信機器に向かった。
「あの、陣矢さんの煙草入れを持っていると。……え、じゃあ、記録はなしで。あ、はい。わかりました」
 早口になって通信を切ると、男は部屋から出てきた。並ぶと、紅が思っていたより背の高い男だった。斜め下から見た輪郭が、昔いた守衛とよく似ていた。男は腰から下げた鍵束の中から一つを選び、鉄扉を開けた。
「入ってお待ちください。じき、いらっしゃると思います」
 そう言って軽く礼をすると、男は鉄扉の向こうに戻っていった。
「あ、ありがとう」
 思えば紅は、城内に入るための手続きなどしたことがなかった。当然といえばその通りだったが、自分がいかに特別な場所にいたのかを思い知らされた。
 由稀(ゆうき)にかつて言われたことがあった。恵まれている、と。その時は反発したが、今はもう同じように言い返すことは出来なかった。この場所が全てだった頃、世界の全てを知ったような気持ちでいたのに。
 宮名こそあれ、正統な後継者でないことは、城壁の内側では何よりの不遇であった。
貴宮(あつみや)様!」
 唯一人の存在がなければ、とっくに潰れていた。
 城から走ってくる男は、記憶にあるより随分と老け込んでいた。だが、それは瑣末なことだった。かけられた声の、向けられた眼差しの、隅々までがあの日々と同じだった。
「陣矢」
 軽く手を上げて、紅は陣矢へ向かって歩き出した。
「ごめん、どうしたら中に入れるかわからなくて」
「構いません。来て下さると信じていました」
「そか」
 眼鏡を外して、近くに陣矢を見上げる。懐かしい角度だった。目が合いかけて、慌てて逸らす。
「あのさ、俺のスウィッグあるかな」
「もちろん、ありますよ。いつもの場所に」
 陣矢は道を譲り、優しく紅の背中を押した。並んで、城へ続く木の道を、踵を鳴らして歩く。子供の頃から、この道が大好きだった。板によって音の高低があり、間の抜けた響きが不細工で愛らしかった。左右に広がる芝生は、昔と比べて斑になっているように感じた。
「お元気そうで、安心しました」
「俺的にはそんなに時間経ってないし。向こうはスウィッグとか機械がないから、いちいち体力勝負でさ。病気になってられない感じ。ついで言うと面倒」
 口早に言い並べて、紅は饒舌な自分に驚いた。
「なんかさ、面白い奴ばっかで巻き込まれ気味かな。基本、みんなお節介で、いい意味で頭悪いっていうか、下心なくて。どいつもこいつも、癖は相当強いけどさ、いい奴らだよ」
 手に持ったままの煙草入れを、両手でこすり合わせる。見上げると、陣矢の微笑みがあった。心の入り口にある蝶番が軋んで、紅は乾いた笑いを漏らした。
「久々にこっちの言葉使うと、ごめん、なんか俺喋りすぎ」
「聞かせてください。友達、出来たんですね」
「え、あ、うん」
 紅ははにかんで俯いた。
「特に由稀って奴はさ、すぐに他人の世話ばっかり焼いて、自分のことはいつも後回し。馬鹿みたいに前向きで、人を疑うってこと知らなくて、話せば理解しあえるとでも思ってるみたいな。でも見かけほどいい加減じゃないし、世間知らずでもないんだ」
 温もりの木の旋律が途切れた。城の回廊に差し掛かる。
「時々、あいつには俺の心が、そう、まるで読めるみたいで」
 握り締めた煙草入れは、紅の体温で金属の冷たさを失っていた。熱で、繋がる。視界の隅に、鮮やかな色彩が流れる。顔を上げると、母の愛した花壇があった。陣矢に由稀の話をしようと口を開くが、声が出なかった。喉の奥が引き絞られる。紅は砂色の回廊で立ち止まった。
 真っ直ぐ背を伸ばす青い花に、(あかね)の瞳を思い出す。
(しゅん)……』
 差し伸べられた手を、抱き締めたかった。たとえその瞳に自分が映っていなくとも。母の笑顔を、あの男に奪われたくなかった。
「ちょっと気持ち悪いよな、そういうのって。なんか以心伝心ってやつ」
 必死に押し出した声は、衝動に震えていた。
『自分だけが悲劇を背負ってるなんて、そんな思い上がりは喜劇にもならねえんだよ』
 夕天橋(ゆうてんばし)は、工場区からの振動で休みなく揺れていた。紅自身の気持ちも揺らいでいた。帰れるなら、城へ帰ることも一つの選択肢だった。だが由稀の言葉だけは揺るぎなく、地面に深く突き刺した杭のようだった。
 慰められたいと願ったわけではなかった。だが、そうされて当然と心のどこかで思っていた。
『人格だ人生だと喚く前に、自分で人生決めてみろ』
 人生など、やりたいことなど考えたことがなかった。自分の意志は常に、世界への否定から始まっていた。あの時、乱暴なやり方で未来に風穴を開けられた気がした。一番救われたくない男に救われた、その事実が紅を苦しめた。
「でも、不思議なんだ。俺にはあいつの気持ちが理解できないんだ」
 こみ上げるものに逆らえず、紅は目を見開いて俯いた。大きな手が、紅の肩を抱いた。
「俺があいつなら、あんなにも落ち着いてられない。すぐにでも報復を、復讐をと息巻くだろう。切り裂かれた心を、みんなに見せびらかせて同情を求めるかもしれない。でもあいつはそうしないんだ。わかり合いたいって。理想を本気で語るんだ。まるで俺が極悪人みたいだろ」
 足元に、小さく丸い染みが落ちる。胸が痙攣して、うまく話せない。
「何も出来ない。俺はただ吠えるだけで、あの男にかすり傷一つ付けられない。頭の中で何度も殺して、殺して、殺して、それで勝った気になってる。茜がいなくなったのに。死んだのに。あいつに殺されたようなものなのに。何も出来ないんだ」
 涙は次々と砂の回廊を濡らした。
「はっきり言えるのに! 俺が誰よりもあいつを憎んでるって……!」
 声を荒げると、陣矢に強く抱き締められた。
「ずっと、張り詰めていたんですね」
 そう言った陣矢の声は震えていた。だがそれが怒りでも嘆きでもないことを、紅はよく知っていた。これは陣矢の優しさの発露だった。
「俺、逃げたんだ。苦しんでる茜の手も握れずに、怖くなって、逃げたんだよ」
尋宮(ひろみや)様は、覚悟していらしたはずですよ。でなければ、あなたを連れて行くはずがない」
「わかってたのにな。あいつと違って俺には、そうなることが……」
「もう、責めないでください」
 頬に触れた服の向こうから、陣矢の鼓動が伝わった。一人で絞め殺してきた紅の悲しみは、陣矢に弔われていく。滲む温もりは、午後の陽射しのように永遠に思われた。紅は唇を噛んで、涙に噎ぶ。
 陣矢が父親ならよかった。その思いは、深い深い場所に仕舞い込む。今までずっとそうしてきたように。
「俺では敵わないのか、あの男に」
 紅は俯きがちに言う。
「あいつが人殺しって、どういう意味だ」
 陣矢の顔が凍りついた。紅は城内の気配に気付いて歩き出した。少し間をおいて、陣矢も後をついてきた。決して横に並ぼうとしない陣矢に、紅は動揺を見抜く。
「何か知ってるんだろ」
 自分の涙声が嫌で、紅は煙草に火をつけた。
「なんとなく、まともなことしてきてないなとは思ってたけど、もし本当に人殺しなら、どうしてここにいられたんだよ」
「そんなこと、どなたから聞かれたんですか」
 やや離れた場所から、聞き覚えのある声がして、紅は肩越しに振り返った。それまでいた場所に、央宮(なかみや)の後ろ姿があった。従者と歩く姿は、昔と変わらず堂々としていて、やや倣岸でもあった。
 視線を、陣矢へ向ける。真っ直ぐすぎる彼の眼差しは、戸惑いに揺れていた。
「俺の、いとこらしいよ。天水(てんすい)が憎いから、人殺しの業を背負った、って」
「そうですか」
 紅の視線に耐え切れず、陣矢は顔を逸らした。回廊を抜けて、芝生を横切る。城の裏手には、厩を改装した倉庫があった。蔵へ入れるほどでもない物や、従者らの荷物が置かれていた。
 薄っぺらな鉄板で出来た扉を開けると、中からは湿気の臭いがした。入り口の手燭に火を点し、目の高さに掲げる。雑多な倉庫の中央に、紅が愛用していたスウィッグがあった。機体には艶があり、塵一つ被っていなかった。
「誰が、こんなきれいに」
 そう口にしながら、紅には答えがわかっていた。入り口を振り返る。背後からの弱い外光を受けて、陣矢の表情は翳って見えた。
「ありがとな、陣矢」
「貴宮様」
 それは返事ではなかった。陣矢の歯切れの悪い言葉に、紅は緊張を拭えなかった。
 陣矢は紅に歩み寄って手燭を受け取ると、背の高い作業台の上に置いた。
「瞬が背負ったのは業ではありません。この世界の未来です」
「え」
 人殺しに、未来など託せるはずがなかった。疑問は不審と綯い交ぜになる。
「なに、それ」
「いつか、わかる時が来ます。この天水の空に、漣が戻るときには」
「わけわかんないし」
 紅は失笑して、スウィッグに刺さった鍵を捻った。耳鳴りのような高い音がして、操作面が若葉色に光る。
「確かに、瞬が犯した罪が消えることはないでしょう。その報いを受けることにもなるのでしょう。いいえ、彼は既に受けているんです。故郷を奪われ、親も兄弟も殺され、尊厳も人権も安らぎも、何もないところを彷徨って生きてきたんです」
「相変わらずだなぁ、陣矢は」
 朗らかに笑って、紅は輝きを放つ操作面を覗き込んだ。
「それでもさ、駄目なことってあるじゃん。理由さえあったら、人を殺してもいいわけ。どうしてそんなに、あいつのこと庇うんだよ」
「それは」
 返答に窮して、陣矢は黙り込んだ。倉庫の中に、スウィッグの操作音が無機質に響く。仕様が、紅の作ったものとは変わっていた。咥えていた煙草を、足元の缶に捨てる。
「これ、誰かいじった?」
「あ、はい。ご学友の(まこと)さんが」
「へぇ。だから」
「貴宮様がいてらした頃とは、スウィッグの環境も随分と変わりましたから。それに対応するように、と」
「そういや、道であんまり見かけなかったな」
「免許制度が相当厳しくなったそうです。管理するのにも費用が倍ほどかかるようになりました。そのために、利用する人は激減したとか」
「どうせ、叔父上だろ」
「そう、ですね。央宮様が新しく条例を」
 そこまで言って、陣矢は口を閉ざした。紅はスウィッグにかかり切りになって、陣矢の言葉に耳を貸しているようではなかった。無言の拒絶に、陣矢はため息をつくことも憚られた。
 紅は落胆を隠すため、陣矢に背を向けてスウィッグに向かっていた。だが、手元はほとんど動いていなかった。
 大切だと思うものは、全て既に瞬のものであった。
 スウィッグ各部の螺子に緩みがないか、工具で確認する。操作面に、異常がないことを知らせる青い光が灯った。
鬼使(きし)・瞬。それが、彼の異名です」
 いつになく突き放した陣矢の声に、紅は驚いて振り返った。
「そんなに気になるなら、ご自分で調べられてはどうですか。納得できるまで。私だって、鬼使と呼ばれた頃の瞬を知りはしないんですから。それと」
 陣矢は上着の内側から、紙を取り出し紅に差し出した。受け取って開くと、博路(はくろ)の住所が書かれていた。
「これは」
「真さんがされている修理店です。あなたがいなくなってから、ずっと無償で調整をして下さってたんですよ」
「真……」
 紙から顔を上げると、陣矢は変わらぬ微笑みでいた。
「お礼に、行ってあげて下さい。きっと喜ばれますよ」
 陣矢は笑うと右の頬にだけ笑窪が出来た。憧れた微笑みは、今もそこにあった。紅は俯きながら微笑みを真似て、スウィッグに跨った。
「また、来るよ」
「はい。お待ちしております」
 久しぶりに掴んだスウィッグの握り部分は、昔と同じ感触で、紅は弾けそうになる感性を愛機の加速にぶつけた。